ニーチェをめぐる最も優れた書き手であるだろうクロソウスキーも、永遠回帰は至高の欲動ではないか、と1969年の段階で既に言っている。
クロソウスキーは、たとえば次の情動 Affekte を欲動 impulsionと読み替えているのである。
⋯⋯⋯⋯
※付記
上にミレールの《外密(対象a)はフロイトの 「不気味なもの Unheimlich 」である》と引用したが、人は、ニーチェのアリアドネのひとりであり後にフロイトに弟子入りしたサロメとの対話から、フロイトの「不気味なもの」概念と永遠回帰=反復強迫の思考がひょっとして生まれたのかもしれないと思いを馳せてもよいのである。
・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。
・しかし力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)
クロソウスキーは、たとえば次の情動 Affekte を欲動 impulsionと読み替えているのである。
力への意志が原始的な情動(Affekte)形式であり、その他の情動は単にその発現形態であること、――(……)「力の意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)
⋯⋯⋯⋯
ーー《常に回帰する immer wiederkommt》とはフロイトにとって反復強迫(欲動の反復強迫)のことである。
ラカンはこの反復強迫をたとえば次のように表現した。
ラカンにとって現実界とは実質上、トラウマ界のことである(参照)。
…………
⋯⋯⋯⋯
ラカンは反復強迫を享楽回帰という。
享楽回帰とは、なによりもまず「身体的なものの回帰」ということである。
ーーラカンにとって穴とはトラウマのことである、《穴 trou ウマ(troumatisme =トラウマ)》(S21、19 Février 1974)
そして原抑圧(固着)とはサントームである。
人がもし、サントーム(原症状)の永遠回帰が分かりにくいようであるなら、まずは外傷的事故の永遠回帰に思いを馳せればよい。フロイトが反復強迫概念に思い至ったのは、第一次世界大戦の外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosen 者の続出に起源があるのだから。
そして《ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome 》(ラカン、S23, 17 Février 1976)
このひとりの女とは、対象aとしての《異者としての身体 un corps qui nous est étranger》(ラカン、S23、11 Mai 1976)ーーあるいは、フロイトの「異物 Fremdkörper,」のことである。
ようするにトラウマへの固着 Fixierung (身体の上への刻印 inscripition)としての「一」には、常に一と対象a(残余)がある。
あるいは、常に《「一」と身体がある。 Il y a le Un et le corps》( Hélène Bonnaud、2012-2013, PDF)
これが最晩年のフロイトが《リビドーの固着 Libidofixierungen 》の《残存現象 Resterscheinungen》(『終りある分析と終りなき分析』1937)と記しているものである(参照)。
もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)
ーー《常に回帰する immer wiederkommt》とはフロイトにとって反復強迫(欲動の反復強迫)のことである。
同一の体験の反復の中に現れる彼の人がらの不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれはこの「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
ラカンはこの反復強迫をたとえば次のように表現した。
症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
現実界は書かれることを止めない le Réel ne cesse pas de s'écrire 。(S25、10 Janvier 1978)
ラカンにとって現実界とは実質上、トラウマ界のことである(参照)。
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
今、引用したフロイト二文の前後を含めて掲げる。
【快原理の彼岸(1920年)】
【モーセと一神教(1939年)】
ーー以下の文に「神経症」という語が出て来るが、フロイトにおいては「精神神経症 psychoneurose」 と「現勢神経症 Aktualneurose 」の二種類の神経症概念がある。前者が心的なもの、後者が身体的なものであり、これが人間にとっての症状のすべてである。現勢神経症とは実質上、外傷神経症である(参照)。
【快原理の彼岸(1920年)】
精神分析が、神経症者の転移現象について明らかにするのとおなじものが、神経症的でない人の生活の中にも見出される。それは、彼らの身につきまとった宿命、彼らの体験におけるデモーニッシュな性格 dämonischen Zuges といった印象をあたえるものである。精神分析は、最初からこのような宿命が大かたは自然につくられたものであって、幼児期初期の影響によって決定されているとみなしてきた。そのさいに現れる強迫は、たとえこれらの人が症状形成 Symptombildung によって落着する神経症的葛藤を現わさなかったにしても、神経症者の反復強迫 Wiederholungszwang と別個のものではない。
あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいるものである。かばって助けた者から、やがてはかならず見捨てられて怒る慈善家たちがいる。彼らは他の点ではそれぞれちがうが、ひとしく忘恩の苦汁を味わうべく運命づけられているようである。どんな友人をもっても、裏切られて友情を失う男たち。誰か他人を、自分や世間にたいする大きな権威にかつぎあげ、それでいて一定の期間が過ぎ去ると、この権威をみずからつきくずし新しい権威に鞍替えする男たち。また、女性にたいする恋愛関係が、みなおなじ経過をたどって、いつもおなじ結末に終る愛人たち、等々。
もし、当人の能動的な態度を問題にするならば、また、同一の体験の反復の中に現れる彼の人がらの不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれはこの「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。自分から影響をあたえることができず、いわば受動的に体験するように見えるのに、それでもなお、いつもおなじ運命の反復を体験する場合の方が、はるかに強くわれわれの心を打つ。
一例として、ある婦人の話を想い起こす。彼女は、つぎつぎに三回結婚し、やがてまもなく病気でたおれた夫たちを死ぬまで看病しなければならなかった。(……)
以上のような、転移のさいの態度や人間の運命についての観察に直面すると、精神生活には、実際の快原理 Lustprinzip の埒外にある反復強迫 Wiederholungszwang が存在する、と仮定する勇気がわいてくるにちがいない。また、災害神経症者の夢と子供の遊戯本能を、この強迫に関係させたくもなるであろう。もちろん、反復強迫の作用が、他の動機の助力なしに純粋に把握されるのは、ごくまれな場合であることを知っておく必要がある。小児の遊戯のさいに、われわれは、その発生についてどのような別種の解釈ができるかをすでに指摘した(糸巻き遊び fort-da)。
反復強迫 Wiederholungszwang と直接的な快い欲動満足 direkte lustvolle Triebbefriedigung とは、緊密に結合しているように思われる。転移の現象が、抑圧を固執している自我の側からの抵抗に奉仕しているのは明らかである。治療が利用しようとつとめた反復強迫は、快原理を固執する自我によって、いわば自我の側へ引き寄せられる。
運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多いと思われるので、新しい神秘的な動機を設ける必要はないように思う。もっとも明白なのは、災害の夢であろうが、ほかの例でも一層くわしく吟味すると、われわれがすでに知っている動機の作用によってはつくしがたい事態のあることをみとめなければならない。反復強迫の仮定を正当づける余地は充分にあり、反復強迫は快原理をしのいで、より以上に根源的 ursprünglicher、一次的 elementarer、かつ衝動的 triebhafter であるように思われる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
【モーセと一神教(1939年)】
ーー以下の文に「神経症」という語が出て来るが、フロイトにおいては「精神神経症 psychoneurose」 と「現勢神経症 Aktualneurose 」の二種類の神経症概念がある。前者が心的なもの、後者が身体的なものであり、これが人間にとっての症状のすべてである。現勢神経症とは実質上、外傷神経症である(参照)。
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…
(1) (a) このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。…
(b) 問題となる経験は、おおむね完全に忘却されている。記憶としてはアクセス不能で、幼児性健忘期 Periode der infantilen Amnesie の範囲内にある。その経験は、隠蔽記憶Deckerinnerungenとして知られる、いくつかの分離した記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen。
(c) 問題となる経験は、性的性質と攻撃的性質 sexueller und aggressiver Natur の印象に関係する。そしてまた疑いなく、初期のエゴへの傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…
この三つの点ーー、五歳までに起こった最初期の出来事 frühzeitliches Vorkommen 、忘却された性的・攻撃的内容ーーは密接に相互関連している。トラウマは自身の身体への経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungenである。…
(2) …トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。
ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すなわち忘却された経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erleben ことである。さらに忘却された経験が、初期の情動的結びつきAffektbeziehung であるなら、誰かほかの人との類似的関係においてその情動的結びつきを復活させることである。
これらの尽力は「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。
これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。…
したがって幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung 」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存 abhängig させてくれ、世話をし支えてくれる nähren und erhalten 妻を求め続ける。初期幼児期に「性的誘惑の対象 Objekt einer sexuellen Verführung」にされた少女は、同様な攻撃を何度も繰り返して引き起こす後の性生活 Sexualleben へと導く。……
ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、「制止 Hemmungen」と「恐怖症 Phobien」に収斂しうる。これらのネガ反応もまた、「個性刻印 Prägung des Charakters」に強く貢献している。
ネガ反応はポジ反応と同様に「トラウマへの固着 Fixierungen an das Trauma」である。それはただ「反対の傾向との固着Fixierungen mit entgegengesetzter Tendenz」という相違があるだけである。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)
ラカンは反復強迫を享楽回帰という。
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…
フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
享楽回帰とは、なによりもまず「身体的なものの回帰」ということである。
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。(ジャック=アラン・ミレール 、 L'Être et l 'Un - Année 2011 、25/05/2011)
ラカンの現実界 Réel は、フロイトの無意識の臍(夢の臍 Nabel des Traums)であり、固着Fixierung のために「置き残される zurückgeblieben(居残るVerbleiben)」原抑圧 Urverdrängungである。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの Somatischem」が「心的なもの Seelischem」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER』2001)
リビドーは、その名が示しているように、穴trouに関与せざるをいられない。身体と現実界le corps et le Réelが現れる他の様相と同じように。(⋯⋯)
(そして)私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
ーーラカンにとって穴とはトラウマのことである、《穴 trou ウマ(troumatisme =トラウマ)》(S21、19 Février 1974)
そして原抑圧(固着)とはサントームである。
症状(原症状=サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE.569、1975)
身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard
…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation(ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011)
サントーム、それは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. *J.-A. MILLER, 、 9/2/2011)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰への意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)
人がもし、サントーム(原症状)の永遠回帰が分かりにくいようであるなら、まずは外傷的事故の永遠回帰に思いを馳せればよい。フロイトが反復強迫概念に思い至ったのは、第一次世界大戦の外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosen 者の続出に起源があるのだから。
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。
これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式のアタック hysteriforme Anfälle がおこる。このアタックによって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事をわれわれは見出す。
それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…
この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。
我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年ーー「リビドーのトラウマへの固着」)
⋯⋯⋯⋯
とはいえおそらく人には、ドゥルーズによる純粋差異としての永遠回帰はどうなのか、という問いがあるだろう。
この純粋差異とは内的差異のことである。
ラカンも純粋差異について既に語っている(ここでは詳細は割愛し要点だけ示す)。
ラカンの「一のようなものがある[Y a de l’Un]」とは、リビドーのトラウマへの固着(サントーム)と等価である。
1=1+ Ø (空集合)とは、集合論の基本である。
空集合 ∅ とはラカンにとって女である。
とはいえおそらく人には、ドゥルーズによる純粋差異としての永遠回帰はどうなのか、という問いがあるだろう。
永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを回帰させることはなく、それ自身が純粋差異 pure différenceの世界から派生する。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
この純粋差異とは内的差異のことである。
究極の絶対的差異 différence ultime absolue とは何か。それは、ふたつの物、ふたつの事物の間の、常にたがいに外的な extrinsèque、経験の差異 différence empirique ではない。プルーストは本質について、最初のおおよその考え方を示しているが、それは、主体の核の最終的現前 la présence d'une qualité dernière au cœur d'un sujet のような何ものかと言った時である。すなわち、内的差異 différence interne である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第二版、1970年)
…この「一」自体、純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S9、06 Décembre 1961)
「一のようなものがある[Y a de l’Un]」…この純粋差異としての「一」は、要素概念と区別される。L'1 en tant que différence pure est ce qui distingue la notion de l'élément.(ラカン、S19、17 Mai 1972)
サントーム sinthome……それは « 一のようなものがある Y a de l’Un »と同一である。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
ラカンにとっての純粋差異に相当するものは、たとえば次のような形で図示されている。
女 La femme とは…空集合 un ensemble vide のことである。(ラカン、S22、21 Janvier 1975)
そして《ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome 》(ラカン、S23, 17 Février 1976)
このひとりの女とは、対象aとしての《異者としての身体 un corps qui nous est étranger》(ラカン、S23、11 Mai 1976)ーーあるいは、フロイトの「異物 Fremdkörper,」のことである。
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
異物とはラカンの対象a(外密)のことである。
外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」である。(Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985)
親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」(=対象a[参照])である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
ようするにトラウマへの固着 Fixierung (身体の上への刻印 inscripition)としての「一」には、常に一と対象a(残余)がある。
常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a) (ラカン、S20、16 Janvier 1973)
これが最晩年のフロイトが《リビドーの固着 Libidofixierungen 》の《残存現象 Resterscheinungen》(『終りある分析と終りなき分析』1937)と記しているものである(参照)。
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール、2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)
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※付記
上にミレールの《外密(対象a)はフロイトの 「不気味なもの Unheimlich 」である》と引用したが、人は、ニーチェのアリアドネのひとりであり後にフロイトに弟子入りしたサロメとの対話から、フロイトの「不気味なもの」概念と永遠回帰=反復強迫の思考がひょっとして生まれたのかもしれないと思いを馳せてもよいのである。
私にとって忘れ難いのは、ニーチェが彼の秘密を初めて打ち明けたあの時間だ。あの思想を真理の確証の何ものかとすること…それは彼を口にいえないほど陰鬱にさせるものだった。彼は低い声で、最も深い恐怖をありありと見せながら、その秘密を語った。実際、ニーチェは深く生に悩んでおり、生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい何ものかを意味したに違いない。永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面 unheimliche Maske であることを暗示している。
Unvergeßlich sind mir die Stunden, in denen er ihn mir zuerst, als ein Geheimnis, als Etwas, vor dessen Bewahrheitung ... ihm unsagbar graue, anvertraut hat: nur mit leiser Stimme und mit allen Zeichen des tiefsten Entsetzens sprach er davon. Und er litt in der Tat so tief am Leben, daß die Gewißheit der ewigen Lebenswiederkehr für ihn etwas Grauen-volles haben mußte. Die Quintessenz der Wiederkunftslehre, die strahlende Lebensapotheose, welche Nietzsche nachmals aufstellte, bildet einen so tiefen Gegensatz zu seiner eigenen qualvollen Lebensempfindung, daß sie uns anmutet wie eine unheimliche Maske.(ルー・アンドレアス・サロメ、Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919)