夜と音楽。--恐怖の器官 Organ der Furcht としての耳は、夜においてのみ、暗い森や洞穴の薄明のなかでのみ、畏怖の時代の、すなわちこれまで存在した中で最も長かった人間の時代の生活様式に応じて、現在見られるように豊かな発展することが可能だった。光のなかでは、耳はそれほど必要ではない。それゆえに、夜と薄明の芸術という音楽の性格がある。(ニーチェ『曙光』250番)
音がきこえなくなったとき音楽がおわるのだろうか。
音楽は目に見えないし、なにも語らないから、
音のはじまりが音楽のはじまりなのか、
音のおわりが音楽のおわりなのか、
音楽のどこにはじまりがあり、おわりがあるのか
さえわからない。
ーー高橋悠治『音楽の反方法論的序説』4 「めぐり」)
たとえば、音が運動によって定義されるとすれば、
音でないものも運動によって定義されるゆえに、
音が内部であり、音でないもの、それを沈黙と呼ぼうか、
それが外部にあるとは言えない。
境界はあっても境界線はなく、
沈黙は音と限りなく接していて、
音が次第に微かになり、消えていくとき、
音がすべりこんでいく沈黙はその音の一部に繰り込まれている。
逆に、音の立ち上がる前の沈黙に聴き入るとき、
ついに立ち上がった音は沈黙の一部をなし、それに含まれている。
運動に内部もなく、外部もなく、
それと同じように運動によって定義されるものは、
内部にもなく、外部にもなく、だが運動とともにある。 だから、
「音楽をつくることは、
音階やリズムのあらかじめ定められた時空間のなかで、
作曲家による設計図を演奏家が音という実体として実現することではない。
流動する心身運動の連続が、音とともに時空間をつくりだす。だが音は、
運動の残像、動きが停止すれば跡形もない幻、夢、陽炎のようなものにすぎない。
微かでかぎりなく遠く、この瞬間だけでふたたび逢うこともできないゆえに、
それはうつくしい」
ーー同16 「音の輪が回る」
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「沈黙と音」とは、どちらが図であり地なのか? 最も美しい音楽においては、沈黙の瞬間が最も美しいということはしばしばある。沈黙を際立たせるために、音があるのではないか、と感じるほどに。
もっとも「まともな」音楽家たちにおいては、これは「常識」なのかもしれない、《音楽のなかで最も美しいのは沈黙である》(アンドラーシュ・シフ)
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われわれが無闇に話すなら、われわれが会議をするなら、われわれが喋り散らすなら、…ラカンの命題においては、沈黙すること faire taire が「対象aとしての声 voix comme objet a」と呼ばれるものに相当する。(ジャック=アラン・ミレール、«Jacques Lacan et la voix» 、1988)
ーーここでミレールが言っている対象aとは、現実界としての対象a、非全体 pastout としての対象a、穴としての対象aのことである。
これは、ラカンの四つの言説のうちの一つの分析家の言説における対象aである。
人はなぜ音楽を聴くのか? 対象としての声との遭遇の恐怖を避けるためである。リルケが美について語っていること(美は恐ろしきものの始まり)は音楽にも当てはまる。美=音楽は、囮・スクリーン・最後のカーテンである。音楽は、声の対象aとの遭遇の恐怖とのから我々を防御してくれる。(ジジェク、"I Hear You with My Eyes"、1996)
ここでジジェクが「声の対象aに対する美は最後のカーテン」と言っているのは、次のことである。
美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)
たとえばニーチェの声なき声とは、現実界との遭遇に他ならない。
何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。
きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。
……そのとき、声なき声 ohne Stimme がわたしに語った。「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ!」--(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)
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現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン、S11、12 Février 1964)
同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
(フロイトの)モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perduである。(ラカン、S17, 14 Janvier 1970)
前期ラカンはこのモノを母と言っている。
(フロイトによる)モノ、それは母である。モノは近親相姦の対象である。das Ding, qui est la mère, qui est l'objet de l'inceste, (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
ようするにモノとは「斜線を引かれた母なる大他者 LȺ Mère」である。
(穴Ⱥと「穴のヴェールとしての愛の対象」) |
声の対象a(喪われたモノ)の起源が、「母の言葉」にあるのは、実は誰もが知っていた筈である。ただほとんどの人々において忘却されているだけである。ニーチェの「最も静かな時間 Die stillste Stunde」を経験した者のみがわかっている、「おまえはそれを知っているではないか!」
リトルネロとしてのララング(母の言葉) lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン petite rengaine、リトルネロ ritournelle としての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)
サントーム(原症状)は、母の言葉に起源がある。 Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle(Geneviève Morel、Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome、2005)
サントームの小道は、享楽における単独性の永遠回帰への意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)
※参照:ララング定義集
モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)
大他者のなかの穴は Ⱥと書かれる trou dans l'Autre, qui s'écrit Ⱥ (UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)
そして大他者とは、己の身体でもある。
大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)