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2018年10月30日火曜日

小便器のアウラ



対象から発するアウラは、対象の直接的な特性ではなく、それが占める場である。この場への依存の古典的な例は、もちろん、マルセル・デュシャンのよく知られた小便器(泉)ーー小便器自体が展示されることによってアートの対象となったものーーである。

デュシャンの功績は、たんに、アート作品においてなにが重要とされるか(小便器でさえも)の範囲を拡げたことになるのではない。彼がなしたことはーーそのような普遍化の形式的条件としてーー、対象とそれが占める(構造的な)場のあいだの区別の導入である。すなわち小便器をアート作品とするのは、それに内在する特性ではなく、それが占める場(アートギャラリイ)なのである。あるいはマルクスが遠い昔に商品フェティシズムに関して言ったように、「 ある人間が王であるのは、ただ他の人間が彼に対して臣下として相対するからである。彼らは、逆に彼が王だから、自分たちが臣下でなければならぬと信じている」ということである。

日常生活において、われわれはこの種の物象化 reification の犠牲者である。つまり、われわれは純粋な形式的あるいは構造的決定性を対象の直接の特性として誤認してしまうのである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012年)

いやあそうは言ってもデュシャンの泉は形が美しいね、なによりも穴が開いているのがいい。




穴としての対象a は、枠・窓と等価でありうる。それは鏡と反対のものである。対象a は捕獲されない、特に鏡には。長いあいだ鏡に時間を費やしたラカンは、そのように強調している。対象a とは、われわれが目を開くことによって、己自身を構築する窓枠なのである。 En tant que trou, l'objet a peut être équivalent au cadre, à la fenêtre, à l'opposé du miroir. L'objet a ne se laisse pas capter, spécialement dans le miroir. Lacan, qui a passé beaucoup de temps avec le miroir, le souligne. Il s'agit plutôt de la fenêtre que nous constituons nous-mêmes, en ouvrant les yeux. (ジャック=アラン・ミレール、« L’image reine »2016)

ミレールは「窓枠 fenêtre」ということによって次の図のことを言っている。


「女と鏡」あるいは「星と月は天の穴」


いわゆるルネ・マグリット構図である。


話を戻せば、デュシャンの「泉」は、ゴダールの『彼女について私が知っている二、三の事柄』の珈琲渦のブラックホールと銀のペニスと同じくらい美しいね。




ベンヤミンは、対象を取りかこむアウラは、眼差しを送り返す合図だと注意を促した。彼が素朴にもつけ加えるのを忘れたのは、アウラの効果が起こるのは、この眼差しが覆われ、「上品化」されたときだということだ。この覆いが除かれれば、アウラは悪夢に変貌し、メドゥーサの眼差しとなる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir , Écrits, 1966)


結局、美の核心は現実界としての穴をぎりぎりに覆ったもの(防衛)じゃないんだろうか?

美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)

リルケのいう「美は恐ろしきものの始まり」に違いないよ(参照)。

ゴダールの上のイマージュは、デュシャンの次の二つの作品を合せたぐらい美しいな、ただし(ボクにとっては)触覚の感覚がいささか劣っているのが映像イマージュの欠点だけど。




私は上躰を乗り出して、あっさり縢ったボダン穴のような肛門と、そこから拇指の頭ひとつおいたほどの距離にしっかり閉じている性器の端を見た。明るい茶色の肛門にくらべて、性器の皮膚が木の冬芽の色合いなのは、縮れた薄い体毛が表面に散らばっているからだ。私は指を伸ばしてマユミさんの性器の周りにふれてみないではいられなかった。(……)きれいな小さな水玉が、襞ひだの間にいっぱい浮かんできたよ。天体望遠鏡で銀河系のはしを撮ったスライドに似てるわ……(大江健三郎『燃え上がる緑の木』)





・・・とはいえ(?)、やっぱりドゥルーズ=プルーストを常に参照しなくちゃな。

愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

これはすべての愛の対象にかかわる、人だけでなく芸術作品、文学、自然、料理・・・。

そして、同じことだが、ラカンの「欲望の原因」(欲望の対象ではなく)だな、肝腎なのは。

私はあなたを愛する。だが私は、あなたの中のなにかあなた以上のもの、〈対象a〉(欲望の原因)を愛する。だからこそ私はあなたを八つ裂きにする。Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.(ラカン、S11、24 Juin 1964)


人はまず、たとえば名高い芸術家や詩人の作品を愛しているのは、あるいは自然の景観、たとえば海を愛しているのは、小便器を愛しているのと変わらないんじゃないか、と疑ってみることだね。

もちろんボクのプルーストへの愛や、ラカン派への執着も疑わなくちゃな。

でも、ラカンの「欲望の原因」とは、ようするに対象に自分自身の眼差しが書き込まれているってことだ。

そして原「欲望の原因」は、ボロメオ結びの中心にある「a」だ。

(S23,13 Janvier 1976)


ラカンの欲望の原因とは,上の原欲望の原因の横ににある、JȺ(大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre)、SENS(意味の享楽=見せかけとしての対象a)もそう。

アンコールSéminaire XXにおいて、対象a は、…意味の享楽である。幻想のなかに刻印される意味の享楽である。petit a c'est encore un sens-joui, c'est encore un sens-joui inscrit dans le fantasme. (Fin du Cours XX de Jacques-Alain Miller du 6 juin 2001 )

そして上でミレールが言っていた穴としての対象aは、フロイトの表象代理と等価で、JȺの箇所にある(参照:人間の条件と表象代理と対象a)。

絵自身のなかにある表象代理とは、対象aである。ce représentant de la représentation qu'est le tableau en soi, c'est cet objet(a) (ラカンS13, 18 Mai l966)




この欲望の原因は、プルーストのメガネ、光学機械と相同的なんだな。ボクは結局、「君の愛は私にあるんじゃなくて、君のなかにある」ってことを教示してくれる作家がいいね。

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。…

本を読むとき、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それがほんとうの意味の読者である。作家の著書は一種の光学器械にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。(プルースト『見出された時』)

あるいはニーチェのようにさ。

・君たちは、自分自身と顔を向き合わせることからのがれて、隣人へと走る。

・まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたかもしれぬ。

・自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

ーーというわけで(?)、《嘘をいう能力のない者が、真理が何であるかを知っているはずがない》(同、ツァラトゥストラ)。