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2019年2月3日日曜日

ビルマで死んだ友の眼の色

荒地詩人という外傷性戦争神経症者たち」に引き続くが、トラウマの記憶の反復強迫、あるいはPTSD(心的外傷後ストレス障害)というのは、一般にはひどく誤解されているのであって(とくにベストセラーになった岸見一郎=アドラーの「トラウマは存在しない」というあまりに軽率な言述以後はいっそうそうなっているのだろう)、実際のところは、すくなくとも幼児期のトラウマ的記憶ーーこれは「事故的トラウマ」ではなく「構造的トラウマ」とも呼ばれるーーのない者のほうがむしろ障害者である。《幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される》(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年)。

幼少期のトラウマ的記憶とは、語りとしての自己史に統合されない「心的なものの外部」にある、身体の上に銘肌鏤骨された刻印、《人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶》(中井久夫「記憶について」1996年)であり、これこそ「人間の個性」なのである。

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

とはいえ、ここでは構造的トラウマなどというやや難解なことには触れず、事故的トラウマによる反復強迫、とくに「外傷性戦争神経症」について、もうすこし書き足す。

⋯⋯⋯⋯

(心的外傷の別の面⋯⋯)殺人者の自首はしばしば、被害者の出てくる悪夢というPTSD症状に耐えかねて起こる(これを治療するべきかという倫理的問題がある)。 ある種の心的外傷は「良心」あるいは「超自我」に通じる地下通路を持つのであるまいか。阪神・淡路大震災の被害者への共感は、過去の震災、戦災の経験者に著しく、トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つということができまいか。心に傷のない人間があろうか(「季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう」――ランボー「地獄の一季節」)。心の傷は、人間的な心の持ち主の証でもある。(中井久夫「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

たとえば1957年に発表された中桐雅夫の詩を読んでみよう。


海      中桐雅夫

根府川と真鶴の間の海の
あのすばらしい色を見ると、いつも僕は
生きていたのをうれしく思う、
僕の眼があの通りの色なら
すべての本は投げ捨ててもいい。
沖の方はパイプの煙のような紫で、
だんだん薄い緑が加わりながら岸へ寄せてくる、
岸辺にはわずかに白い泡波がたち、
秋の空の秋の色とすっかり溶けあって、
全体がひとつの海の色をつくっている、
猫のからだのようなやわらかさの下に、
稲妻の鋭さを隠している海、
ああ、この色を僕の眼にできるなら、
生きてゆく楽しさを人にわかつこともできるだろう。

希望が過ぎ去るように早く、その色は消える。
生きていたころのMの眼が
ちようどこんな色だったが、それもいまでは
泥土にうがたれた穴でしかない。
死は何と早く人と人とを引き離すものだろう、
前に君のことを思い出したのはいつだったかも想い出せないが、
ミイトキイナというビルマの地名を覚えているのは、
十何年か前、そこで君が戦死したからだ。
君が死んで、戦闘が終わった時、連合軍はビラを撒いた。
「諸君はよく勇敢に戦った、われわれ連合軍は
諸君に敬意を表せざるを得ない。」
そうだ、東京にいたころも君は勇敢な男だったが、
イラワジ川につかったまま二ヶ月も戦い続け、
ふくれあがった皮膚はちょっと指で押しただけで、
穴があいて、どろどろに腐ったウミが出てくる
そんな戦いにどのような賛辞が許されるだろう。

イラワジ川の水の色がどんなたったか、
僕は知らない、知ろうとも思わぬ。だが、
蜜柑の皮をむきはじめると
蜜柑のうえに涙が落ちた、君の好きだった蜜柑、
いちどきに十以上も食べた蜜柑。
僕の心はこわれかけた目覚し時計のように鳴りだし、
湘南電車はそれよりももっと鋭い音を発して
僕の心をえぐった。
いま過ぎたのがどこの駅か、
僕は知らない、知ろうともせず蜜柑の皮をむいていた。

ーー1957年『荒地』冒頭詩



ミイトキーナの戦い


そして中桐の詩とともに次の中井久夫の文を読んでみる。

私の子ども時代といえば、明治生まれはまだ若くて、元治だとか嘉永だとか万延生まれの人がおられました。この時代、日露戦争の勇士は戦争体験を語らないと言われていました。一般に明治人は寡黙であり、これは明治人の人徳であると思われてしました。けれども、今から考えるとそうではなくて、日露戦争は、最後は白兵線つまり銃剣で戦われたわけです。それはほとんど語りえないものであったのではないだろうかと思うのです。

その一つの傍証を挙げましょう。精神科の大先輩の話ですが、軍医として太平洋戦争に参加している人です。一九七七年にジャワで会った時には、戦争初期のジャワでの暮らしが、いかに牧歌的であったかという話を聞かせてくれました。先生はその後ビルマに行かれたのですが、そちらに話を向けても「あっ、ビルマ。ありゃあ地獄だよ」と言ってそれでおしまいでした。

ところが一九九五年の阪神淡路大地震のあとお会いした時には、「実は、今でもイギリスの戦闘機に追いかけられる夢を毎晩見るんだ」ということを言われました。震災について講演に行くと、最前列に座っているのが白髪の精神科の長老たちで、これまであまり側に寄れなかったような人たちですが、講演がすんだら握手を求めに来て「戦争と一緒だねえ」というようなことを言われるわけですね。神戸の震災によって外傷的な体験というものが言葉で語ってもいいという市民権を得たのだなと思いました。それまでずっと黙っておられたのですね。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

中桐雅夫は懲役のがれをしているにもかかわらず、やはり外傷性戦争神経症者として捉えうる。すくなくとも次の中井久夫の文から判断するかぎり。とくに「生存者罪悪感」である。ひょとして懲役のがれのせいでいっそうその罪悪感があるのでは、と疑うことさえできるほどに。

一般に外傷関連障害は決して発見しやすいものではない。葛藤を伴うことの少ない天災の場合でさえ、アンケートをとり、訪問〔アウトリサーチ〕しても、なお発見が困難なくらいである。人災の場合になれば、患者は、実にしばしば、誤診をむしろ積極的に受け入れ、長年その無効な治療を淡々と受けていることのほうが普通である。外傷関連患者は治療者をじっと観察して、よほど安心するまで外傷患者であることを秘匿する。

PTSDの発見困難はむろん診療者の側の問題でもある。膵臓疾患の診断の第一は「膵臓が存在することを忘れていないこと」である。それほど膵臓は忘れられやすい臓器だということだが心的外傷でも同じである。多くの外来患者はフラッシュバックなど侵入症状を初めとする外傷関連症状の存否をそもそも聞かれていない。それに怠慢ばかりでなく、心的外傷には、土足で踏み込むことへの治療者側の躊躇も、自己の心的外傷の否認もあって、しばしば外傷関与の可能性を治療者の視野外に置く。

しかし患者側の問題は大きい。それはまず恥と罪の意識である。またそれを内面の秘密として持ちこたえようとする誇りの意識である。さらに内面の秘密を土足で入り込まれたくない防衛感覚である。たとえば、不運に対する対処法として、すでに自然に喪の作業が内面で行われつつあり、その過程自体は意識していなくても、それを外部から乱されたくないという感覚があって、「放っておいてほしい」「そっとしておいてほしい」という表現をとる。

天災においてさえ、恥の意識はありうる。「他の人たちは我慢しているのに」「生きのびただけでも感謝するべきなのに」「私の弱さをさらけだしたくない」など。「死んだ人(家をなくした人)に申し訳ない」という生存者罪悪感もある。たとえば周囲が皆倒壊している中で一軒だけ倒壊しなかった家の人の持つ罪の意識である。性的被害や児童虐待においては、なおさらのことである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

⋯⋯⋯⋯

◆中桐雅夫『会社の人事』1979年より

おれたちはみな卑怯者だ
百円の花を眺めて百万人の飢え死を忘れる、
強い者のまえでは伏し目になり、
弱い者のまえでは肩をそびやかす。

ーー「卑怯者」


戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は
おれは絶対風雅の道をゆかぬ

ーー「やせた心」)


きみの会社のきみの引出しの隅を、
クリップを伸ばした先でつついてごらん、
お世辞の雨でふやけた塵や、
皮肉のにかわで固まった塵が出てくるよ。
(……)

目刺しのように並んでいる良心の割引者たち、
会社員ばかりの厭な日本だ。

ーー「会社員」


新年は、死んだ人をしのぶためにある、
心の優しいものが先に死ぬのはなぜか、
おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ
でなければ、どうして朝から酒を飲んでいられる?
人をしのんでいると、独り言が独り言でなくなる、
きょうはきのうに、きのうはあすになる、
どんな小さなものでも、眼の前のものを愛したくなる、
でなければ、どうしてこの一年を生きてゆける?

ーー「きのうはあすに」  





ここで田村隆一の「だるい根」を引用する。

一九三〇年代末期の裏町の薄暗い酒場で
長髪の痩せた大学生が薄い文学雑誌を見せてくれたつけ
表紙はピカソのデッサンで
「四月はもつとも残酷な月だ」
まるでぼくらの墓碑銘のように
スタルンベルガーズ湖の夏の驟雨が走りぬける
イギリス人の長詩の冒頭の一行がついていて

死の土地からライラックの花を咲かせ、
記憶と欲望とを混ぜあわせ、
だるい根を春の雨でうごかす

ぼくの家の小さな庭にも細いライラックの木があって
その土が死からよみがえる瞬間を告知する「時」がある
その「時」のなかに
ぼくの少年と青年は埋葬されてしまつたが
まだ
だるい根だけは残つている

ーーだれでも幼少期、思春期、あるいは青年期の「だるい根」は残っているはずである。幼少期のだるい根をラカンは骨象a [osbjet a]と呼んだ。すなわち身体の突き刺さった骨である。






上の詩中に引用されているエリオットの『荒地』の詩句は、中桐雅夫訳のものだが、西脇順三郎訳では「だるい根 Dull roots」は「鈍重な草根」となっている。「だるい根」とは日常的近しさをいっそう与えてくれる中桐の名訳である。

⋯⋯⋯⋯

以下は補足的に黒田三郎をめぐる。

中桐雅夫や田村隆一は大酒飲みで知られるが、黒田三郎は二人を上回り、黒田の目がすわってくると中桐雅夫や田村隆一ですら逃げ出すほど、酒癖がわるかったそうだ。

黒田三郎死後一年後に上梓された黒田光子『人間・黒田三郎』(1981年)には、ある女流詩人のメモが引用されている。

ビール・ジョッキ7杯、ウイスキー・角瓶4分の3。二次会で、日本酒・お銚子12本、ビール5本。さらに河岸を変えて、焼酎・コップ〇〇杯。ウイスキー・○○杯・・・・





ーー黒田三郎の詩集『ひとりの女へ』(1954年)はいまでも戦後最高の恋愛詩集と呼ばれることが多い。


黒田三郎(1919-1980)の戦後略歴は、ジャワ島から帰還したあと、NHKへの入局、結核の発症、結婚、長女誕生、結核の再発、妻の結核発症と入院、糖尿病、胃潰瘍、50歳でNHKを希望退職、大学の講師をしながら文筆活動、そして60歳で逝去、である。

黒田と同年生れの中桐は(上にも記したように)徴兵逃れをしているが、1983年に63歳で死去している。表向きの死因は、急性心不全と発表されたが、未亡人・文子さんの『美酒すこし』(1985年)によれば、アルコール依存症による肝臓障害であったと明かされている。

当時は詩人たちの奥さんが夫の死後それほど間がたたないうちに、著書を出版するという「流行」があったようだ。

昭和二年。終日雨霏霏たり。無聊の余近日発行せし『改造』十月号を開き見るに、漱石翁に関する夏目未亡人の談話をその女婿松岡某なる者の筆記したる一章あり。漱石翁は追蹤狂とやら称する精神病の患者なりしといふ。また翁が壮時の失恋に関する逸事を録したり。余この文をよみて不快の念に堪へざるものあり。縦へその事は真実なるにもせよ、その人亡き後十余年、幸にも世人の知らざりし良人の秘密をば、未亡人の身として今更これを公表するとは何たる心得違ひぞや。見す見す知れたる事にても夫の名にかかはることは、妻の身としては命にかへても包み隠すべきが女の道ならずや。然るに真実なれば誰彼の用捨なく何事に係らずこれを訐きて差閊へなしと思へるは、実に心得ちがひの甚しきものなり。女婿松岡某の未亡人と事を共になせるが如きに至つてはこれまた言語道断の至りなり。余漱石先生のことにつきては多く知る所なし。明治四十二年の秋余は『朝日新聞』掲載小説のことにつき、早稲田南町なる邸宅を訪ひ二時間あまりも談話したることありき。これ余の先生を見たりし始めにして、同時にまた最後にてありしなり。先生は世の新聞雑誌等にそが身辺及一家の事なぞとやかくと噂せらるることを甚しく厭はれたるが如し。然るに死後に及んでその夫人たりしもの良人が生前最好まざりし所のものを敢てして憚る所なし。ああ何らの大罪、何らの不貞ぞや。余は家に一人の妻妾なきを慶賀せずんばあらざるなり。この夜大雨暁に至るまで少時も歇む間なし。新寒肌を侵して堪えがたき故就眠の時掻巻の上に羽根布団を重ねたり。彼岸の頃かかる寒さ怪しむべきことなり。(永井荷風『断腸亭日乗』)





次は黒田光子『人間・黒田三郎』の目次である。


「黒田三郎と三十年」
・世間を怖れぬ者
・スキャンダルの名手
・「恥」について
・殴り倒され男らしきを知る
・我が家のダイコン柱
・三郎NHKを辞す
・バスを降りそびれて
・黒田の「ユカイな女房」
・「酒の飲めない薬」を試す
・男の中の男 三郎バスに轢かれる。
・飲んだ。書いた。恋した。その生涯
・日本で二番目の大詩人 痛烈な詩人魂
・咆吼療の主
・ゴツゴツに生きる 精神コントロールのエキスパート
・黒田三郎、そのA面とB面 スマートな紳士と飲んだくれた駄々っ子
・三郎のなかのマジメ人間
・三郎の書いた詩 最期のいさぎよさ
・三郎の遺書 「光子のことは僕が一番理解している」
・夫と酒瓶と私 命の恩人を追いかけて「オレの酒を返せーッー」
・「であること」と「見えること」 互いの悲しき片思い。
・かなしい西部劇 真夜中の壮絶なアトラクション(須田ユリ)

ざっとネット上を探ってみた限りだが、最後の「かなしい西部劇 真夜中の壮絶なアトラクション」(須田ユリ)の引用のみに行き当たった。

もっとも「殴り倒され男らしきを知る」の項の要約らしきものには行き当たった。

この詩人に飲酒に纏わるエピソードは事欠かない。『人間 黒田三郎』(黒田光子著=黒田三郎夫人、思潮社刊)には、飲酒のエピソードもさることながら、黒田の病気(肺結核)や後の黒田三郎夫人となる多菊光子さんの家庭の事情もあって、婚約解消した後のエピソードについても記されている。それは正月のことで、彼女は見舞いがてらお節料理をもって彼が住んでいたアパートに行った帰りのことだ。駅に着くと黒田が先回りしていて仁王立ちに立っていた。そして人混みの中で彼女を思いきり殴ったというエピソードが記されている。その時、黒田は殴る前に何か言ったように思える。その時は気が動転していてよくは分からなかったのだが後で思い出してみると、黒田夫人は黒田が「君なんか勝手な女だ」と言ったことを思い出す。デーモニッシュなものではないが、死期が迫っていた(実際、黒田は結核のために「もう駄目だよ」といわれていたらしい)彼の激しい一面を見てこれが契機となって結局は結婚するわけだが、この「激しい一面」は、この詩人の内部に生き続けていたとも言える。(参照


そして「飲んだ。書いた。恋した。その生涯」の項は、次の内容が記されているらしい。

黒田は定年退職後、出会った若い女性に熱烈な恋をし、そのことを妻光子に隠すこともなく、詩に書いて次々と発表した。妻もそのことを知っていた。離婚もしない。

黒田は臆面もなく光子に若い女のことを話してもいる。やがて、黒田が死の床につくようになっても、黒田と妻の間にその恋はタブーにはならなかった。(詩人、黒田三郎


さてここでは、「かなしい西部劇 真夜中の壮絶なアトラクション」(須田ユリ)の項の引用を掲げる。この文は、黒田三郎の奥さんである光子さん自身が、娘ユリになりかわって書いたものだそうだ。

昔、父が出した『小さなユリと』という詩集のことで、ひとに話しかけられるといつも困ってしまう。このなかに登場する二、三歳の女の子の名残りを三十歳にもなろうとする現在の私に見出そうとされているようで戸惑うのだ。

父の詩は私小説に対する「私詩」のように言われるそうだが、父の作品に書かれている場面や会話が実際にあったわけではない。それを在りのままのように受けとる人が居るとしたら、父は他人が思っているよりは才能豊かなのではないか、と思う。

でも、もし父があんな風に奇麗ごとにまとめたりせずに、ありのままに描いたら、更に痛切なユーモアとペーソスのドラマになりはしないだろうか?しかし母の意見は反対である。私の家の実態というものは、あまりにも風変わりで、他人の理解を遙に超えるものがあるから、ホームドラマにもメロドラマにもなりはしないで、せいぜいが茶番劇だろうと言うことだった。

泥酔した父が、帰宅する時も家の外では、光子、光子と母の名を連呼し、内に入るや今度はユリ、ユリと私を尋ねまわるのだが、その狂気じみた呼び声には、災害で逃げまどううちに、はぐれてしまった娘の名を叫んでいるかのような哀切な調子がある。では妻や娘の顔を見れば優しくするかと言えば決してそうではない。父の酔態についてはこの頃、新聞や雑誌に友人のかたがたが皆さん書いていらっしゃるので、自宅でのありのさまも少しはご想像がつくと思うが、とにかく壮絶きわまるものと言ってよい。時には急性アルコール中毒というものを起こして、とんだアトラクションがつくことがある。

いつかの冬の夜も、みんなでせっかく数時間をかけて寝かしつけたと思ったのに、また起き出して玄関へ出て行き、インディアンが来る!と騒ぎ出したのだ。ドアの覗き窓の蓋をおっかなびっくり持ち上げて、表をうかがっては「おいユリ、聞こえるか?」などと声をひそめて言う。私が「お父ちゃま、テレビの見過ぎよ」と否定し、弟も来てもう寝ましょう寝ましょうとせき立てると母も「そうよ、インディアンは石神井までは来やしませんよ」。父は耳も貸さずに、私にライフルを出せと言い出した。「俺のライフルだ、早く寄越せ」と怒鳴っている。私はうんざりして「嫌ねえ、お父ちゃま、ライフルなんて家にありっこないでしょう」。子供っぽくて、何でも面白がり、すぐお調子にのる母が、「ライフルがあっても、あなた第一、弾がありませんからね」。そんなことを言ったために激昂した父に「この糞ばばあ、そんな不用意なことでどうするンだ!」と髪の毛を掴んで引きずり倒された。仕方がないから弟と二人で右往左往、ライフルを必死に探す真似をしていると、耳を聲する大声で、「伏せろおーッ」と叫んだかと思った瞬間、私も母も弟も将棋倒しに床になぎ倒されていた。危険なのでストーブを消してあるから、寝巻き姿の三人が重なり合って這いつくばい、互いの躰の温みでじっと寒さをこらえていると、「灯りを消せ」、「保安官を呼べ」、「その死体を片づけろ」とやたらと命令を出し、自分も千鳥足で、あちこちにぶつかりながら動きまわっている。そのうち何だかホッホッホッと奇声を発しているので、見ると父は今度はインディアンの側にまわったらしい。片足とびに跳びはねる恰好が振っている。 母が笑うと父はあおられたようにますます跳び上がって、ホッホッホッと大熱演だ。私も弟も眠さは眠し、不機嫌に歯をガチガチ言わせながら、父が疲れて寝てくれるのをひたすら待っていたが、隙を見て自分の寝床へもぐり込むことが出来た。この深夜の西部劇は何時間ぐらい続いたのだろう。長いようで案外十五分か二十分だったのかもしれない。

あとでトイレに起きて行くと、あたりは静かになっていて、玄関脇に父があお向けに倒れ、刀折れ矢尽きた態で何かうわ言のように言っている。傍にかがみこんでいる母に向かって、「わしのことはいいから、光子お前らは逃げろ。俺の馬に乗って、早く、逃げるんだ」と、まだやっていたのだった。

あの西部劇ごっこの夜のように、「俺を置いて行け」という父の言葉に叱咤されて私たちは今、父を一人だけ見捨ててきてしまった。そして私たちは互いにそのことに触れないように知らん振りして暮らしている。けれど、あの可哀そうな父親を独りだけ、人っこ一人居ない場所に置いてきぼりにしたという意識が、心の深くに刺のように突きささって、日が経てば経つほど、動けば動くほど疼くのだ。(須田ユリ「かなしい西部劇 真夜中の壮絶なアトラクション」)


1960年に出版された『小さなユリと』にはこうある。1919年生れの黒田三郎の41歳のときの詩集である。

                 
九月の風

ユリはかかさずピアノに行っている?
夜は八時半にちゃんとねてる?
ねる前歯はみがいてるの?
日曜の午後の病院の面会室で
僕の顔を見るなり
それが妻のあいさつだ

僕は家政婦ではありませんよ
心の中でそう言って
僕はさり気なく
黙っている
うん うんとあごで答える
さびしくなる

言葉にならないものがつかえつかえのどを下ってゆく
お次はユリの番だ
オトーチャマいつもお酒飲む?
沢山飲む? ウン 飲むけど
小さなユリがちらりと僕の顔を見る
少しよ

夕暮れの芝生の道を
小さなユリの手をひいて
ふりかえりながら
僕は帰る
妻はもう白い巨大な建物の五階の窓の小さな顔だ
九月の風が僕と小さなユリの背中にふく

悔恨のようなものが僕の心をくじく
人家にははや電灯がともり
魚を焼く匂いが路地に流れる
小さな小さなユリに
僕は大きな声で話しかける
新宿で御飯たべて帰ろうね ユリ

ーー黒田三郎『小さなユリと』1960年


娘さんが大学生になった頃の詩には次のようなものもあるようだ(どの詩集なのかは判然としない)。


夕飯の食卓
僕は小学三年生の息子と向き合い
妻は大学生の娘と向き合って座る
「早く死んでくれないかなぁ よっぱらいお父様」
そう言って息子はじろりと僕の顔を見る
さすがに一瞬妻も娘も鼻白む
だから僕は笑って言ってやるのだ
「こんな言論の自由なところってどこにあるかい」

ーー黒田三郎「自由」


僕には詩の入門書というものは、多かれ少なかれ「詩を書くことはよいことだ。詩を書きなさい」とすすめているように見えて仕方がない。

その著者たちが詩人である場合、彼等は詩を書くという後めたさも、彼等がその詩を自分の弱さから書いているのではないかという疑いも、まるで感じていないのではないかと不思議な感じがする場合もある。(黒田三郎『現代詩入門』1969年)