このブログを検索

2019年2月9日土曜日

「倒錯の言説」と「分析の言説」の相違

【支配されていると見せかけて支配する言説】

倒錯の言説とは、支配されていると見せかけて支配する言説である。

マゾヒストは専制的女性を養成せねばならない。(……)マゾヒストは本質的に訓育者なのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)
倒錯的構造が意味するのは、倒錯的主体は最初の他者の全的満足の道具へと自ら転換し、他方同時に、二番目の他者は挑まれ受動的観察者のポジションへと無力化されることである。

マルキ・ド・サドの作品は、この状況の完璧な例証である。そこでは読者は観察者のポジションにある。このようなシナリオの創造は、実際上の性的行動化のどんな形式よりも重要である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、PERVERSION II、2001年)
マゾヒストは自らを他者にとっての享楽の対象として差しだす。全シナリオを作り指揮しながら、である。これは、他者の道具となる側面であり、「能動的」とは「指導的」として解釈される条件の下で、はっきりと受動-能動反転を示している。倒錯者は受動的に見えるかもしれないが、そうではない。…倒錯者は自らを大他者の享楽の道具に転じるだけではない。彼また、この他者を自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせるのだ。(Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe、When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic、2010)

ーーより詳しくは、 「倒錯者と神経症者における「倒錯行為」の相違」を参照。


この支配されていると見せかけて支配する倒錯的構造は、女性のーー、いや「かつての」標準的な女性のあり方と言っておこうーーと相同的である。

女たちは、従属することによって圧倒的な利益を、のみならず支配権を確保することを心得ていた。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』)


【他者の欲望の対象となる倒錯者】
倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存 dépendance、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 (想像的ファルス)と同一化 s'identifie à l'objet imaginaire することにある。(ラカン、エクリ、E554、摘要訳、1956年)
他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的である⋯⋯que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste. (ラカン、S10, 16 janvier 1963)

-ーー《女性が自分を欲望の対象 objet du désir として示すこと…他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける》ことを、前期ラカンは《女性の仮装 la mascarade féminine》として、これが「女性性 féminité 」の核心だと前期ラカンは言っている(S5、1958)。

この女性の仮装性概念はもともとは、英国女流精神分析家(フロイト英訳者でもあった)ジョン・リヴィエールJoan Rivièreの書「仮装としての女性性Womanliness as a Masquerade(1929)」に起源がある。



【倒錯の言説と分析の言説】

ラカン理論の華である「四つの言説」のうちの分析の言説と倒錯の言説とは、一見とても似ている(ラカンにおいて「言説 discours」とは「社会的つながり lien social」という意味である)。

ーー四つの言説の基本についてはここでは割愛。「基本版:「四つの言説 quatre discours」」を参照されたし。

以下は基本を踏まえているという前提で記すが、基本を知らない人にはかなり難解な構造論の話となる。

ここでの構造論とは、ーー構造主義者の始祖レヴィ=ストロースが「私の二人の師マルクスとフロイト」と言ったがーー、たとえば次のマルクス文にある。

個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(『資本論』第一巻「第一版へのまえがき」1867年)

たとえば倒錯の言説とは倒錯症状がある人の社会的つながりに限らない。その言説構造に置かれれば、人は倒錯的な社会関係をもつという意味である。


ところで、ラカンは「倒錯の構造」についてこう言っている。

私が 「倒錯の構造 structure de la perversion」と呼ぶもの。それは厳密にいって、幻想( $ ◊ a )の裏返しの効果 effet inverse du fantasme である。主体性の分割に出会ったとき、自分を対象として定めるのが倒錯の主体である。(ラカン、S11、13 Mai 1964 )

この発言に従えば、倒錯の式は「a ◊ $」と書かれる。

これは分析家の言説の上部構造である。



だがラカンはこうも言っている。

倒錯 perversion とは…大他者の享楽の道具 instrument de la jouissance de l'Autre になることである。(ラカン、E823、1960年)
倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋める(穴埋めする)ことに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16, 26 Mars 1969)

この定義に則って、ポール・バーハウ(2004)は「a ◊ $」ではなく、「a ◊ Ⱥ」とすべきだとしている。

Ⱥの意味はこうである。

Ⱥとは、 「大他者のなかの穴 trou dans l'Autre」である。…Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる comporte un manque、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)

だが a ◊ Ⱥ の構造は、四つの言説のなかのどれにも「一見は」合致させることはできないようにみえる。






ところで四つの言説のそれぞれの基底部にある形式的構造は次のものである。




ラカンは、agent(動作主)の箇所は、semblant(見せかけの主体)、produit(生産物)の箇所は、plus-de-jouir(剰余享楽)ともしている。







これが意味するのは、たとえば分析の言説は次のような下部構造をもっているということである。




ラカンが1959年4月8日、セミネールⅥ「欲望とその解釈」にて《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と大転回をした後は(それまでは「父の法」のラカンだった)、Aとは Ⱥである。

したがってポール・バーハウの a ◊ Ⱥ はこの観点から受け入れることができる。そして「a ◊ $」をとっても「a ◊ Ⱥ」をとっても、倒錯の言説は「構造的には」分析の言説と相同的である。




もっとも「a」には両義的な意味がある。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

ジジェクの解釈においては、倒錯者は幻想的囮/スクリーンとしての「a」を体現し、分析家は、空虚としての「a」を体現する。

こうして次のような説明が生まれる。

動作主、マゾヒストの倒錯者 a(典型的倒錯者)は、他者の欲望の対象-道具のポジションを占める。倒錯者はこのような形で、彼の(女性の)犠牲者を通して、彼女をヒステリー化された/分割された主体 $ーー彼女が欲するものを知らない主体ーーとして据える。倒錯者は、彼女が欲するものを知っている。すなわち、彼は知 S2 のポジションから(彼女の欲望について)語るふりをする。これによって彼は、他者への奉仕が可能になる。そして最終的に、この社会的つながり(社会的紐帯)の生産物は、主人のシニフィアンである。すなわちヒステリー的主体$は、倒錯者が奉仕する主人S1(女王様)の役割へと昇華される。(同上、ジジェク2016)

ーーとてもすぐれた記述である。まさに冒頭に引用したドゥルーズ=マゾッホのあり方を、ラカンの四つの言説構造から、直接的に示している。



マゾヒストは専制的女性を養成せねばならない。(……)マゾヒストは本質的に訓育者なのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)

だが別の観点もある。


【資本の言説の時代の倒錯の言説】

ラカンは学園紛争の折、《父の蒸発 évaporation du père》 (「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)を語った。

これは主人の言説(四つの言説の最も代表的な言説)から資本の言説への移行に大きく関わる。この移行とは、主人=父が蒸発してしまえば、四つの言説のそれぞれも変貌する。つまり人々のあいだの社会的つながりは変化するということである(資本の言説とは、後期資本主義の時代の社会的つながりという意味である)。

ラカンは1970年以降の時代の特徴として「去勢の排除」を言っている。

資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

この「去勢の排除」の時代とは、中井久夫が次のように言っていることととても近似している。

中井久夫)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間 2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

ーーもともと一神教ではなく「父の機能」が弱かった日本的文脈においても1970年以降、さらに超自我=父が以前に比べて機能しなくなったのである。

もっともラカンのいう「去勢の排除」は、現代ラカン派再解釈においては、「一般化倒錯」と呼ばれることが多い。

資本の言説は、「一般化された倒錯」の用語で叙述しうる。(ANDREA MURA. ,Lacan and Debt: The Discourse of the Capitalist in Times of Austerity、2015)
資本主義は、社会的つながりの水準で、倒錯的享楽の一般化を強いる。それは克服できない地平であり、数多くの倒錯が咲き乱れる。⋯⋯⋯商品形態の閉じられた世界、その多形倒錯性は、アンタゴニズムのすべての形態の加工・同化・中性化を可能にする。資本主義の主体は去勢を嘲笑し、去勢は時代錯誤的で、ポストモダン社会がきっぱりと克服した男根社会の残滓だと宣言する。(Samo Tomšič, The Capitalist Unconscious: Marx and Lacan、2015)


さらにより綿密に、主人を基盤とした四つの言説から主人の蒸発を基盤とした資本の言説のあり方を示す者たちもいる。

まず旧来の四つの言説は次のようであった。




これに対して、ラカンは次の移行を示した。




ーーラカンは資本の言説の構造についてこれしか言っていないので、解釈者たちのあいだで種々の議論が生じている。わたくしがいくらか勉強したなかでは、何人かのラカン注釈者は次のような形で示せる資本の言説の時代の社会的つながりを思考している(以下の図は、かなり前に拾ったので、誰の論文からだったか失念しているが、見つかったらそのうち論文元を示そう)。






ここで重要なのは、漠然と「一般化倒錯」としての資本の言説の時代への移行ではなく、資本の言説の時代における四つの言説変貌のなかのひとつとして、「倒錯の言説」が示されていることである。



ラカンのそれぞれの言説構造とは、回転することによって生み出される。上の二つの図であれば、消費者の言説の構造にある右下の「a」が、動作主のポジションに移行して倒錯の言説の構造が生まれる。

現在に至るまでほとんどのラカン派たちは消費者の言説としての資本の言説についてしか語っていない。実際、この消費者の言説はそのままラカンが示した資本の言説なのだから、無理もないが。

だがこの図に則れば、主人の言説の時代の「分析の言説」と、資本の言説の時代の「分析の言説=倒錯の言説」を比較することができる。

すなわちこうである。



分析家の言説の機制は最も基本的には次のものである。

分析家は対象a のポジションを占めることにより、自由連想を通して、主体の分割($) が分節化される場所を作り出す。分析家は、患者の単独性にきめ細かい注意を払うために、患者についての事前に確立された「観念と病理」 (S2)を脇に遣る。こうして分析主体(被分析者)の主体性を徴す鍵となる諸シニフィアン S1 が形成されうる。それは、分析家の対象a としての立ち位置を刺激する。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis,2016,pdfーー基本版:「四つの言説 quatre discours」)

だが資本の言説の時代の「分析の言説=倒錯者の言説」は、まったく異なった構造をもっている。

囮としての「a」は「$」と同一化するのである。これは自らの欲望と同一化するという意味である。そして「a=$」は、S1に向けて語る。このS1は上に記したように「S1=Ⱥ」である。つまりは他者の道具になって、他者の穴を穴埋めする。そこで生まれるのは剰余知S2のみであり、旧来の分析家の言説のような、《主体性を徴す鍵となる諸シニフィアン S1 》は形成されない。



Ⱥとは非全体pastoutでもあり、ジジェクが次のように言う機能を、似非分析の言説である倒錯の言説はもたないのである。

真の「非全体 pas-tout」は、有限・分散・偶然・雑種・マルチチュード等における「否定弁証法」プロジェクトに付きものの体系性の放棄を探し求めることではない。そうではなく、外的限界の不在のなかで、外的基準にかんする諸要素の構築/有効化(=S1)を可能にしてくれるだろうことである。(ジジェク、 LESS THAN NOTHING、2012)

ここでいくらか飛躍して記すが、「支配されていると見せかけて支配する言説」である倒錯の言説を、本来の分析の言説と混同してはけっしてならない。。

そして、わたくしの考えでは、資本の言説の時代に一見、社会的つながりにおける「分析の言説」を実践しているつもりの人間に遭遇したら、この人物はじつは「分析」ではなく、他者支配の構造をもつ「倒錯の言説」を実践しているのではないかと疑うべきである。

⋯⋯⋯⋯


以上、最近、千葉雅也氏のファンらしき方からしばしばコメントを頂くのだが、今回の問いは、次のツィートをめぐっており、上に記した内容は、それへの間接的応答である。






一見とてもすぐれた態度のようにみえて、広告代理店主の発言と分析の言説をつなげようとする発言は、わたくしにはまさに資本の言説の時代の「倒錯者の言説」としか思えない。

わたくしは「優しさを原理として人と付き合う」のみで「批判すべきものを批判」する気配がない態度をとる者は、現在の非イデオロギー的イデオロギーである新自由主義批判に到るまでには遠い道のりがある、と判断している。それは「二人の批評家の「一周遅れ」」で記した通りである。

現在の新自由主義、あるいは市場原理主義へのとるべき態度とは、すでに「初期駱駝でありうる」世界はとっくの昔に過ぎ去った筈である。まがりなりにも「思想家」であれば、現在、資本主義の侍僕的言説でいい筈がない。蓮實重彦がドゥルーズやバルトから導きだした「戦略的倒錯」は、主人の言説の時代にのみ機能した、すくなくとも政治的文脈においては。

『ツァラトゥストラ』の第一部は、次のような三つの変身の物語で始まっている。

「どのようにして精神は駱駝となるか、またいかにして駱駝はライオンとなるか、そしてライオンはついに小児となるか」。駱駝とは荷を担ぐ動物である。駱駝は既成の諸価値の重圧を担い、また教育の重荷を、道徳とか文化・教養の重荷を担いでいる。駱駝はそうした重荷を担いで砂漠へと向かい、そしてそこでライオンに変身する。ライオンは諸々の彫像を壊し、重荷を踏みにじり、あらゆる既成の価値の批判を断行する。そしてそのライオンの役目はついに小児となること、すなわち<戯れ>と新たな始まりになること、新しい価値および新しい価値評価の原理の創始者となることである。

(……)三つの変身のあいだにある断絶は、おそらくまったく相対的なものに過ぎないだろう。ライオンは駱駝のうちにも現存しており、ライオンのなかには小児がいる。そして小児のなかには悲劇的な結末が存在しているのである。(ドゥルーズ『ニーチェ』)

なにはともあれ、資本の言説に席捲されている現在、わたくしは政治的にはチバの立場を最も避けるべきではないかと考えており、40歳代の批評家・思想家なら、現在雌伏中の佐々木中の立場を応援したいと考える人間である。

@AtaruSasaki本当の対等な信頼に基づいた友情・愛情関係っていうのは、相手の言うことなんてまともに聞きゃしないし自分の言いたいことテキトーに全部言うけど、突然こっちのいうことをちゃんと聞いて深くわかってないと言えないことをグサッと言われて驚愕する、というものではないのか。

精神分析で言えば、フロイトと言う人は「傾聴」によって依存させるのも、しかしそれを突き放して依存から解放するのも天才的にうまい人だったよ。そして患者に絶対手を出さない。これについては講義でよく話す感動的な逸話がある。ラカンもそう。ちゃんと「自分から離脱」させないと駄目です。

ドゥルーズ=ガタリも共同執筆してるとき、つねに片方がしゃべりまくりその間片方はうんざりしていてて、それなのに不意に相手の言ってたことを自分が語りはじめ、その逆も起こり……ということを言ってる。

ゆえにドゥルーズは「議論」を否定し、別の水準の変化を重要視した。傾聴と透明なコミュニケーションを前提とした議論ではなく、もっと野放図な言葉の投げ合いぶつけ合いが真の変化をもたらし、支配関係のない真の集団性をもたらす。

ドゥルーズは仲間内でクネクネしてる人じゃない。議論を仕掛けられると「はいはいお説ごもっとも」って躱すし、いらないと思った人間は冷酷に撥ね付ける。ちゃんとものの本に書いてある。でも彼以上に愛に満ちあふれた哲学者っていないんだよ。身体めちゃ弱いのに鉄火場に強くてデモにも出てくるしさ。

というわけで、フロイトもラカンもドゥルーズもガタリも、俗流心理学や俗流ポストモダンとは何の関係もないから。無い。(佐々木中、2014)