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2019年2月3日日曜日

二人の批評家の「一周遅れ」

いやあきみ、 何度か遠回しには言ってるつもりだが、ボクはこういったことを今頃いってる連中は、たんなるバカだと思ってるからな。






バカってのかな、遠慮していえば「一周遅れ」なんだよ、いまの日本インテリの殆どが「二周遅れ」だから、二人の言説が機能してるだけでね。二周遅れってのは、学級委員会インテリだ。

こんなことは、たとえばジジェクが2000年前後の段階でくりかえし強調している。

「大他者の不在」という新しい状態の、最も目を引く面は…自分の行き詰まりを打破してくれるような公式を提供してくれるものと思われる、数々の「小さな大他者たち little big Others」としての「倫理委員会」である。…この大他者の後退の第一の逆説は、いわゆる「苦情の文化」に見ることができる。(ジジェク「サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性」2001)

2019年の現在に至るまで、政治学者やら社会学者やらツイフェミやらは、この「倫理委員会」をいまだやってるままだから、 あの二人の言説はそれなりに機能してることは認めるよ。

とはいえーー政治的な面ではジジェク派として記すがーー、ジジェクの問いは、小文字の倫理員会からの脱規範化を是としても、その脱規範化は、資本主義という支配的イデオロギーの奴隷の振舞になってしまうのではないか、というものだ。

現在の状況のもとでとくに大切なことは、支配的イデオロギーと支配しているかに見えるイデオロギーとを混同しないように注意することだ。…例えば、セックスで真のヘゲモニーを掌握している考え方は家父長制的な抑圧などではなく自由な乱交であり、また芸術で言えば、悪名高い「センセーショナル」展覧会と銘打ったスタイルでなされる挑発が規範に他ならなず、それは体制に完全に併合されてしまっている芸術の典型事例である。 (ジジェク『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』2001年)

ジジェク観点なら、この今「脱規範化」を主張することは「支配的イデオロギー」に囚われることだよ、学級委員会が「支配しているかのようにみえるイデオロギー」だとすれば。

脱規範化とは資本の論理のイデオロギーであり「非イデオロギー的イデオロギー」だとは、日本でも浅田彰がかつてから似たようなことを繰り返しているが、ここではジジェク文をさらに引用しよう。

ドゥルーズとガタリによる「機械」概念は、「転覆的 subversive」なものであるどころか、現在の資本主義の(軍事的・経済的・イデオロギー的)動作モードに合致する。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク 『毛沢東、実践と矛盾』2007年)
カーニバル的宙吊りの論理は、伝統的階級社会に限られる。資本主義の十全な展開に伴って、今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年)

脱規範化ってのは、学級委員会の跳梁跋扈的現状に対しては、とっても「善い」選択だよ、とってもとっても、ドゥルーズ的でね、一見。

だがーー、

要するに、「善い」選択自体が、支配的イデオロギーを強化するように機能する。イデオロギーが我々の欲望にとっての囮として機能する仕方を強化する。ドゥルーズ&ガタリが言ったように、それは我々自身の抑圧と奴隷へと導く。(Levi R. Bryant 2008, PDF)

結局あのボウヤ二人には、このような「真の問い」がないとみるね、ときに資本主義批判を散発的に口に出しているのは垣間見るが、それはエクスキューズのみで、やっていることは資本主義の奴隷だよ。たとえば読者という消費者サービスをするインテリというのは、これは「生産ー消費者」の論理、資本の論理の徒ということだ(参照)。

もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』1983年)

ーー《我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなか》とは、この今においては資本の論理だ。

資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な「暴力のゼロ度」である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』2007年)

ラカンは学園紛争の折り、《父の蒸発 évaporation du père》 (「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)と言ったが、これは、「大他者の言説の時代(父の名の時代)」から「大他者の不在の時代(資本の言説の時代)」(参照)への移行が始まったという意味だ。そして1989年の「マルクスの死」により、決定的に市場原理主義・新自由主義が席捲するようになった。

ラカンは1976年には次のように言う。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)

このラカンの言明の「政治経済的」含意は、柄谷行人的に意訳すれば、「帝国」の復活は御免蒙るが、「帝国の原理」(父の機能)がなければ、人間には「コモン comunis」が得られない、ということだ。

帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)

もちろん国家自体、「ヒエラルキー的戦争機械」であり 、かつての時代であれば、その国家への対抗ガンとしてドゥルーズ的な「非ヒエラルキー的戦争機械」は機能した。だが冷戦終了後は、国家自体が資本の非ヒエラルキー的戦争機械の奴隷になっているという認識を柄谷もジジェクももっており、その時にむしろ必要なのはヒエラルキー的な歯止め装置だという考え方、これは2000年前後から既にあったが、最近はよりいっそう前面に出している。それはたとえば端的に、柄谷の「世界史の構造のモデル」が示している(参照)。

チバが昨年末だったかにどっかの雑誌に掲載する論文の図式をみずからツイッターで示していたけどさ。これこそ一周遅れの図式だな。現在、真に対抗するのは資本なのに、まだ国家って言ってんだから。






柄谷は最近こうも言っている。

(現在の資本の論理の時代においては)人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016, PDF)

ーーこれは現在の市場原理主義の時代、誰もが(すくなくとも無意識的には)知っていることの筈だ。



ここまで記してきたことを簡易図式化すれば次のようになる。




ようはアズマやチバの言っていることがもっともらしくきこえるのは、現在のインテリの大半が二周遅れつまり「倫理委員会」に留まっているせいだけだよ。で、あの経済音痴・マルクス音痴の二人のボウヤは、くりかえせば資本の論理の掌の上を巧みに踊ろうとしている猿に過ぎないな。

ま、ムダだろうけど、こういうことを言っても。日本は二周遅れのインテリ組が跳梁跋扈しているのはたしかな事実で、まずはあの連中を嘲弄しまくることが不可欠だとすれば、ボウヤ二人はスグレテルよ。どうしようもないね、あの二人がスグレテイル批評家だという現状ってのは。

ボウヤの一人は、一応こうは言ってるようだから、ま、10年後にはジジェクや柄谷行人らの論理がわかるんじゃないだろうか。ヤツは10年はやいんだよ、エラそうなこというには。




で、「真の連帯」のモデルを示そうとしたとたん、父の機能が必要だということがわかる筈だ。でも、たぶん言いっぱなしのみでモデル提示なんかはやるつもりはないんじゃないか。そもそも彼は美学系「芸能人的批評家」に専念するのが本来の資質のようにみえるな。ま、ボクの考えでは、と遠慮してつけ加えておいてもよいが。

例の芸能人⋯⋯、職業として芸術家になって行って、芸術家にも職人にもなるのでなくて芸能人になる。部分的にか全面的にか、とにかく人間にたいして人間的に責任を取るものとしてのコースを進んで、しかし部分的にも全面的にも責任をおわぬものとなって行く。ここの、今の、芸術家に取っても職人にとっても共通の、しかし芸術家に取って特に大きい共通の危険がある、この危険ななかで、芸術家が職人とともに彼自身を見失う。(中野重治「芸術家の立場」)


で、きみたちは「この古いあたまのおっさん!」とかいうんだろうよ、こういうことを書くと。

いやあすまんな、季節外れの言説で。

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)


ニーチェの『反時代的考察 unzeitgemässe Betrachtung』は、時代から外れた考察ってことだ、昔の生田長江訳では「季節はづれの考察」となってたぐらいでね。

いいねえ、きみたちは、目隠し、耳栓しつつ時代的な様式で言動できて。これは選択的非注意ともいうんだけど。

古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(中井久夫「いじめの政治学」1996年『アリアドネからの糸』所収)

でも資本の論理の時代の「いじめ」ってのも見えないものかね、 よっぽどあきめくらだよ。

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009

⋯⋯⋯⋯

※付記

真の「非全体 pastout」は、有限・分散・偶然・雑種・マルチチュード等における「否定弁証法」プロジェクトに付きものの体系性の放棄を探し求めることではない。そうではなく、外的限界の不在のなかで、外的基準にかんする諸要素の構築/有効化を可能にしてくれることである。(ジジェク、(LESS THAN NOTHING, 2012)
人間は「主人」(父)が必要である。というのは、我々は自らの自由に直接的にはアクセスしえないから。このアクセスを獲得するために、我々は外部から抑えられなくてはならない。なぜなら我々の「自然な状態」は、「自力で行動できないヘドニズム inert hedonism」のひとつであり、バディウが呼ぶところの《人間という動物 l’animal humain》であるから。

ここでの底に横たわるパラドクスは、我々は「主人なき自由な個人」として生活すればするほど、実質的には、既存の枠組に囚われて、いっそう不自由になることである。我々は「主人」によって、自由のなかに押し込まれ/動かされなければならない。(ジジェク、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016)

次の文は、決定的じゃないかな。ネグリ自体が寝返ったのだから。

私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。

半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ we should stop with this multitudes、と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク 、インタヴュー、Pornography no longer has any charm" — Part II、19.01.2018)


このジジェク2018年1月インタヴューの半年前のネグリのインタヴュー記事はネット上では見出せなかったが、2018年8月のインタヴュー記事にはこうある。

マルチチュードは、主権の形成化 forming the sovereign power へと溶解する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。…multitudo 概念を断固として使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、multitudoとcomunis 概念を詳述するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri, Interview – August 18, 2018)