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2019年3月27日水曜日

女における「三次的愛」

男性同性愛者の「母への深く永遠な関係」」にて同性愛の文脈で次の文を引用した。

男/息子は、彼の愛の原対象(母-女の性)を維持できる。娘にとっても、母は最初の唯一の愛の対象である。娘が父へと移行するのは、第二ステージでしかない。この移行はたんなる置き換えである。父が前景に現れるとしても、母の像はつねに背景にある。

この理由で、レスビアン関係はゲイ関係とは直接的な共通点はない。母子関係という最初期の経験の結果として、女性ははるかに容易にバイセクシャルのポジションを受け入れる。彼女はすでに愛の対象として両性を選択している。一方の性から他方の性への移行がある。

反対に、男性にとっての同性愛の選択は、はるかに大きな一歩を踏み出す必要がある。この大きな一歩により、後の生においての性の対象選択の裏返しは容易ではない。

少女にとって、母は最初の愛の対象であり、この対象は父と交換されるという事実が意味するのは、父は少女にとって「二次的選択」だということである。結果として引き続くどんなパートナーも少なくとも「三次的選択」である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE 、1998年)

この文は異性愛の文脈での愛についても利用できる。

標準的には、男の他の女への愛は、母への愛という「一次的愛」の転移であり、「二次的愛」である。

女の他の男への愛は、母への一次的愛、父への二次的愛をへた、「三次的愛」である。

どちらの愛も転移にすぎないにしろ、対象愛のレベルでは二次的転移と三次的転移の差がある。

愛は転移 transfert である。…愛はたんなる置き換え déplacement、誤謬 erreur にすぎないように見える。私がある人物を愛するのは、常に別の人物を愛しているためである。Toujours, j'aime quelqu' un parce que j'aime quelqu'un d'outre.(ミレール『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』1992

そこに前回記したように「母との同一化」機制によるナルシシズムが加わる。

母との同一化 Mutteridentifizierungは、母との結びつき Mutterbindung を押しのける ablösen 。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ここでの同一化は、場との同一化である。《父との同一化、つまり自らを父の場に置くこと。Identifizierung mit dem Vater, an dessen Stelle er sich dabei setzte.》 (『モーセと一神教』1939年)。女性の場合は、母の場に自らを置いて、母が父から愛されているように父から愛される(たい)と同時に、母が彼女(娘)を愛したように自らを愛する(ナルシシズム)ということである。

われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)

したがって次のように図示できる。



結局、女の対象愛は、男の対象愛に比べ、薄いのである。

男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場処がある。( ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年)

これは発達段階における構造的理由でこうなのであり、 女の対象愛を貶めているわけではない。

巷間の名言《男性の恋愛は名前をつけて保存、女性の恋愛は上書き保存》は真理である。

男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

日本では骨抜きラカン派斎藤環による、「関係する女 所有する男」などという浅墓な言葉が流通していたが、「関係する女」の真の意味は、女の愛は三次的愛、かつナルシシズムという意味にすぎない。

それにもかかわらず一時的にせよ、ああいったおバカな言説が、フェミニストたちのあいだでさえ珍重された。あれこそ不幸というものである。

浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」)

そもそも斎藤環はフロイトもラカンもまともに読んでいない。それはある程度の知がある者には、数頁読んだだけでわかることである。

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以上に記したことは、現在における男女のあり方の変貌をも視野に入れながら読まなければならない。

女であること féminité と男であること virilité の社会文化的ステレオタイプが、劇的な変容の渦中です。男たちは促されています、感情 émotions を開き、愛することを。そして女性化する féminiser ことさえをも求められています。逆に、女たちは、ある種の《男性への推進力 pousse-à-l'homme》に導かれています。法的平等の名の下に、女たちは「わたしたちもmoi aussi」と言い続けるように駆り立てられています。…したがって両性の役割の大きな不安定性、愛の劇場における広範囲な「流動性 liquide」があり、それは過去の固定性と対照的です。現在、誰もが自分自身の「ライフスタイル」を発明し、己自身の享楽の様式、愛することの様式を身につけるように求められているのです。(ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "

《男性への推進力 pousse-à-l'homme》という表現があるが、これはラカンがファルス秩序(神経症的な秩序)に囚われない前エディプス的主体をめぐって語る発言のなかで、《女性への推進力 pousse-à-la-femme》(エトゥルディ、1972)と言っていることにかかわる。父の名の斜陽の時代には、男たちは女性化するのであり、他方、現在の女たちにおける《男性への推進力 pousse-à-l'homme》は明らかだろう。