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2019年3月28日木曜日

享無 jouis-sans

前にも記したがな、日本で「享楽」を掴んでいるヤツは皆無とみるね。

最近、Fobesの起業家ランキング 2019の2位に選ばれた鈴木健は、福島震災からしばらくたった時点でーー「科学者」のとんでも発言の跳梁跋扈に業を煮やしてかーー、次のようにツイートしていたがね。

@kensuzuki 要は専門家のもっている専門てほんとに狭くって、世界に数人〜数十人しか分かる人がいない。それでも業界外に位置づけを説明するために自分が数千人から数十万人のコミュニティに属しているように説明する。素人から期待される質問に答えようとするととたんに擬似専門家になる。


これはラカン派も同じ。日本言論界には真のラカン派はいないよ。一時期注目を浴びたマツタクも新著で寝言を書いちまって沈没したらしいじゃないか。享楽の社会論とかいうヤツで。ま、オガサワラみたいに常に地底を這ってるわけじゃないにしろ。

日本ラカン派コミュニティってのは「共有された無知」共同体だよ。

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるもの signified がそのメンバー自身にとって謎の意味するもの signifier である。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。

この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく、ラカン派コミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン(専門用語)の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク、THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE、2004)

ま、世界に10人ぐらいはまともなラカン派いるだろうけどな。若き世代のラカン派リーダーと呼ばれるロレンゾ・チーサは、臨床面では弱さはあるけど、その一人だな。

英原文のまま貼り付けておくよ、これがまともな享楽解釈だね。が三十歳のときの書だ。

At its purest, the jouissance of the object a as surplus jouissance (the partial drive) can only mean enjoying the lack of enjoyment, since there is nothing else to enjoy. This explains why, in Seminar XVII (1969‒1970), Lacan can state: “One can pretend that there is surplus jouissance [jouissance of the object a]; a lot of people are still seized by this idea. [on peut faire semblant de plus de jouir, ça retient encore beaucoup de monde](S17, 11 Février 1970)

Jouissance is suffering, since it is jouis-sans—to use a neologism which, to the best of my knowledge, was not coined by Lacan. Enjoying the lack of enjoyment will therefore mean suffering/ enjoying the lack of the Thing, the fact that the Thing is no-thing (l'achose). (ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2006)

ロレンゾは、「享楽欠如の享楽 enjoying the lack of enjoyment」とか「jouis-sans」とか言っているが、後者は「 享無」とでも訳しておこう。

要するに「穴の享楽」だ。

モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ 穴]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)

とはいえ「穴の享楽」だけと言うのは極端で、同時に「穴埋めの享楽」もある。でもこれ自体、ロレンゾの引用するラカンに準拠すれば享無かもしれない。

対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)


ロレンゾの云う「享楽欠如の享楽(jouir du manque à jouir) 」は、コレット・ソレール(2013)も言っている(参照)。


ジジェクも最晩年のラカン観点から言えば、問題があるのを最近見出したが(参照)、そうは言っても8割ぐらいはいけるな(オレの限られた知から言えば、ということだけど)。

まだ20歳代のときのロレンゾ・チーサを見出したジジェクに敬意を表して、次の文を引用しておこう。

まさに享楽の喪失が、それ自身の享楽、剰余享楽 plus‐de‐jouir を生み出す。というのは享楽は、常に-既に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

享楽はない。享楽は常に斜線を引かれている。




生きている者にとっての享楽は、すべて剰余享楽だ。マツタクの言うように享楽から剰余享楽への移行があったんじゃない。最初からそうだ。

死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。(ミレール, Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988)
死は享楽の最終形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ2006,「享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility」)