2019年4月3日水曜日

わたしが必要だと思う抹殺

わたしが必要だと思う運動

すべての改革は反動だ。戦争や革命は権力争奪ゲームにすぎない。運動は速度だ。加速や減速が運動の力だ。

これが最小限かつ最大限の綱領である。

路上で死ぬように努める。孤独死が嫌なら刑務所で飯を食う。保険を掛けない。学校の運動場に火葬場を設ける。給食を万人に開放する。HIV感染して妊娠出産した女性を讃える。薬を病院から郵送させる。車椅子や人工呼吸器はただで使う。道路の真ん中を通る。施設はコンビニの隣に置く。クリオン島のハンセン病者に学び、隔離されても子どもを産んで共同体を立ち上げる。白衣やジャージを捨てる。北ではアイヌ語とロシア語を、南では朝鮮語と中国語を教える。図書館は顰蹙を買う作品だけを買う。店員が商品を選別する。研修を受けない。教えたいことを教える。ミリオン単位の奴隷化と愚民化を食い止める。

自衛隊を使って朝鮮半島の空からコメを降らせる。議員を使って河口堰や裸体像を破壊させる。官僚を使って国家死滅のシナリオを書かせる。軍港化阻止で任侠と協同する。ヤクザの秩序を擁護する。詐欺師や密輸業者を尊敬する。ガキに悪人の作法を躾ける。差別者はサシで糾弾する。会議に出ない。書類を書かない。国勢調査や健康診断に応じない。週目は殺生禁断にする。ベジタリアンで肉屋の叔父を讃える。案内嬢・機動隊員・警備員は座らせる。研究所の機械は壊す。啖呵を切る。 B級文化の夢を愚直に実行する。 (小泉義之 『「負け組」の哲学』)

ツイッターで拾ったんだが、こういったことイキがって言いながら、居心地がよいらしい大学の椅子に居座ったままの似非ドゥルーズ派の左翼センセこそ、そうそうに「抹殺」されるべきじゃないだろうか。

わたしにいわせれば、七〇年代にフランス思想がアメリカの大学を侵略したのは、六〇年代の革命のつづきなどではさらさらなく、むしろそこからの逃避だったのだ。ロジャー・キンボードの『終身在職権をもったラディカルたち』には、最近の流行にのった軽簿な教授たちの姿がそれにふさわしい軽蔑の念をこめて描かれているが、わたしはその中の一節に修正を加えたい。キンボールによると、六〇年代のラディカルはいまや一流大学の要職についているという。これでは甘すぎる。いまのアメリカの大学に在職する左翼にくらべたら、うちのハッティーおばちゃんのほうがよほどラディカルだ。

六〇年代の真のラディカルたちはほとんどが大学院に進まなかった。たとえ進んだとしても途中でドロップアウトした。たとえなんとか卒業しても、仕事につくのに苦労したり、勤めをまっとうできなかったりした。彼らはあくまでも一匹狼で、孤立し、中心から外れている。いまの大学に巣食う左翼たちは、かっこつけの出世亡者、臆病者の点取り虫だ。単位をとるのに躍起になって図書館通いをしたり、先輩教授にごまをすったりするのに忙しくて、そのあいだに六〇年代は過ぎてしまった。

彼らの政治的な主張はあとからとってつけたもの、手垢にまみれた中古品、パリから輸入された思想に熱中した七〇年代の流行をそのままとりいれたものにすぎない。そういう人びとがトップの座についたのは、システムに異議を申し立てたからではなく、システムにうまく順応したからだ。そういう連中は社畜と同じ。ローゼンクランツとギルデンスターンだ。特権に甘んじるオポチュニスト、流行の波に乗る人びと。
七〇年代を席巻したフランスの侵略は、左翼主義やほんものの政治意識とは関係なく、古き良き時代のアメリカの資本主義──リベラルな学者たちが軽蔑しているふりをしているもの──に根ざしている。ベビー・ブーム時代がすぎたあとの景気後退と大学の予算削減が原因で、求人市場が崩壊したことから経済的なヒステリーが起こった。教授への手当てがきりつめられるにつれ、金儲けのための自己宣伝や売り込みが優先されるようになった。
偽りの進歩主義にかりたてられた大学教授は、熱に浮かされたようにダンスのステップを踏む。急げ、しっかりやれ、遅れをとるな、最先端から脱落するな。だが、人文学は医学や海洋生物学や宇宙物理学とちがって、人間の永遠の真理について研究するものだ。実際のところ、その真理はけっして変わることなく、だが何度もくりかえし発見されるものなのだ。

人文学とは人間の洞察力、閃き、叡智についての学問である。空虚な言葉遊びにふけるフランス人の理論から生まれるのはへりくつ屋、立身出世に汲々として現世での報いを追い求める学者バカだ。そこで幅をきかすのは60年代の左翼主義の延長ではなく、50年代のプレップスクール気質、いやみでこすっからいスタイル、冷たく、いやらしいほどにきどった鼻声、アイビーリーグの俗物性だ。フランス人の思想家はブランドネームをひけらかす。(カミール・パーリア『セックス、アート、アメリカンカルチャー』野中邦子訳)


⋯⋯⋯⋯

ジジェクは新著で、現在マルクス-ラカン派文脈では、絶賛売り出し中のサモ・トムシック(1979年生れ)を引用して、ナイーブなドゥルージアンを徹底的にバカにしている。

《「去勢なき享楽への要求」ーー思い起こそう、1968年の有名な落書きを。《vivre sans temps mort, jouir sans entraves 無為の時なき生、そして制約なき享楽》ーー、これはシステムの享楽にとってのプロダクティブな基盤だ。退屈なき生、そして制約なき享楽(去勢なき享楽)は(後期資本主義社会の)新しい、よりラディカルで不可視の形態、搾取の形態を創出する。もちろん、労働の「創造性、機動性、柔軟性 creativity, mobility and flexibilit」の必定の形態とは、支配の資本主義形態の「創造性、機動性、柔軟性」である。》(サモ・トムシック Samo Tomšič、The Capitalist Unconscious MARX AND LACAN、2015)

人は注意しなければならない。絶えまない「創造性、機動性、柔軟性」というこのスタンス、労働と享楽がぴったり合致するというこのスタンスは、後期資本主義の主体によって共有されていることを。それと同時にドゥルーズ派や草の根直接民主主義運動によっても共有されている。(ジジェク 、Incontinence of the Void: Economico-Philosophical Spandrels、2017年)


もちろんここではドゥルーズ の「欲望機械」概念が暗示されている。

・ある純粋な流体 un pur fluide が、自由状態l'état libreで、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している。欲望機械 Les machines désirantes は、私たちに有機体を与える。(⋯⋯)この器官なき充実身体 Le corps plein sans organes、…これが死の本能 Instinct de mort だ。

・資本とは資本家の器官なき身体である…。Le capital est bien le corps sans organes du capitaliste, ou plutôt de l'être capitaliste.(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』1972年)

実に最悪である。20世紀後半の思想における最大の悲喜劇的「自由な機械」概念。

もし人が20世紀の常識「構造的去勢」を僅かでも受け入れるなら(参照:去勢による死の欲動)、自由な流体としての「欲望機械」など決してない。あれは《厳密にフェティシスト的錯誤 strictly fetishistic illusion》(参照)である。ドゥルーズの1960年代の概念、(去勢=原抑圧に)「強制された運動の機械」が徹底的に正しい。

『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。

このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。

それが失われた時のばあいには、部分対象 objets partiels の断片化により、見出された時のばあいには共鳴 résonance による。失われた時のばあいには、別の仕方で、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この喪失は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」第二版 1970年)
フロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼岸に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じる(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

ーー小泉ってのは、『意味の論理学』訳しといて、「強制された運動の機械」と「欲望機械」概念をどうやって折り合いつけてんだろ? 《強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»》(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)。是非おたずねしたいもんだな。

彼じゃなくても、どのドゥルーズ派諸君でもいいよ、自由な流体としての欲望機械(=死の本能)と強制された運動機械(=死の本能)ってのは、ボクの凡庸なアタマでは相反する気がするのでね。愛すべきプルースト論(第二版1970年)のなかにあらわれる「文学機械 machine littéraire」で橋渡しを試みようとしたことがあるが、ムリだったからな。

ま、なにはともあれ、本来的にマルクス音痴フロイト音痴プルースト音痴のドゥルージアンというのはありえない。似非ドゥルージアンにすぎない。

ケインズがいくつか貢献したことのうちのひとつは、通貨の問題の中に欲望を再び導入したことであった。こうしたことこそ、マルクス主義的分析の必要条件にあげられるべきことなのである。だから、不幸なことは、マルクス主義の経済学者たちが大抵の場合多くは、生産様式の考察や『資本論』の最初の部分にみられる一般的等価物としての通貨の理論の考察にとどまって、銀行業務や金融操作や信用通貨の特殊な循環に十分に重要性を認めていないということである。(こういった点にこそ、マルクスに回帰する(つまり、マルクスの通貨理論に回帰する)意味があるのである)。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』)

おい、経済音痴のドゥルーズ 派諸君、今闘うならここだよ、ここしかない。

利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。……

ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物象化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻)

柄谷ヴァリエーションならこうだ。

株式資本にて、フェティシズムはその至高の形態をとる。…ヘーゲルの「絶対精神」と同様に…株式とは「絶対フェティッシュ absolute fetish」である。
人々は気づかないままに、階級格差を生み出している。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016、pdf

最晩年のドゥルーズが自らの最後の著作と予定した『マルクスの偉大さ La grandeur de Marx 』が宣言どおりに書かれていたら、ああいった経済音痴のドゥルーズ派が跳梁跋扈しなくてすんだのだがな。

⋯⋯⋯⋯

現代ラカン派が政治にかかわるときには、ほどんどすべてこの文に収斂する。

資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

このラカンの云う「去勢の排除」は、現在ラカン派では「去勢の否認」とされることが多い。否認、すなわちフェティシズムである。

ドゥルーズとガタリによる「機械」概念は、たんに「転覆的 subversive」なものであるどころか、現在の資本主義の(軍事的・経済的・イデオロギー的)動作モードに合致する。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク 『毛沢東、実践と矛盾』2007年)
カーニバル的宙吊りの論理は、伝統的階級社会に限られる。資本主義の十全な展開に伴って、今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年)
欲動は、より根本的にかつ体系の水準で、資本主義に固有のものである。すなわち、欲動は全ての資本家機械を駆り立てる。それは非人格的な強迫であり、膨張されてゆく自己再生産の絶え間ない循環運動である。我々が欲動のモードに突入するのは、資本としての貨幣の循環が「絶えず更新される運動内部でのみ発生する価値の拡張のために、それ自体目的になり瞬間である。(マルクス)(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006)

現在、日本思想界だか批評界で後楽園のマウンドに立っているらしきドゥルージアン、わたくしの言い方なら「資本の言説の掌の上で踊る猿」がいるが、あれこそもしラカン派が政治にかかわるなら、真っ先に嘲罵し「抹殺」しなければならない標的である。なかんずくジジェク=トムシックの云う「創造性、機動性、柔軟性」という資本の言説固有の搾取形態を促す教えを仔羊たちにまさに振り撒いているあの人物である。


そういえば、王寺賢太 ・立木康介 共著の『<68年5月>と私たち: 「現代思想と政治」の系譜学』 (2019/4/19)の序文だか推薦文だかをチバが書いてるらしいが、信じがたい現象である。玉寺とは柄谷行人のNAM運動出身、立木はラカン派なんだかな。

これには市田良彦もからんでいるはずで、京大ってのは阿呆鳥のみ棲息する場になったんだろうか。市田良彦ってのはオレはかすったこともないが(もちろん玉寺、立木も同様)、おそらくマルチチュードにいかれたままでお釈迦になる人物なんだろうよ。

私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。

半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ we should stop with this multitudes、と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク 、インタヴュー、Pornography no longer has any charm" — Part II、19.01.2018

なんで世界はこんなに小者ばっかりになったんだろ、とくに日本言論界ってのは悲惨だよ。

建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から負け犬である。(サン=テグジュペリ『戦う操縦士』)
文学や自然科学の学生にとってお極まりの捌け口、教職、研究、または何かはっきりしない職業などは、また別の性質のものである。これらの学科を選ぶ学生は、まだ子供っぽい世界に別れを告げていない。彼らはむしろ、そこに留まりたいと願っているのだ。教職は、大人になっても学校にいるための唯一の手段ではないか。文学や自然科学の学生は、彼らが集団の要求に対して向ける一種の拒絶によって特徴づけられる。ほとんど修道僧のような素振りで、彼らはしばらくのあいだ、あるいはもっと持続的に、学問という、移り過ぎて行く時からは独立した財産の保存と伝達に没頭するのである。( ……)彼らに向かって、君たちもまた社会に参加しているのだと言ってきかせるくらい偽りなことはない。( ……)彼らの参加とは、結局は、自分が責任を免除されたままで居続けるための特別の在り方の一つに過ぎない。この意味で、教育や研究は、何かの職業のための見習修業と混同されてはならない。隠遁であるか使命であるということは、教育や研究の栄光であり悲惨である。(レヴィ= ストロース『悲しき熱帯』 川田順造訳)

教職ってのは食うためなんだろうがね、子供っぽいままでな。で、なんで《路上で死ぬように努める。孤独死が嫌なら刑務所で飯を食う》ようにしないんだろ?

やっぱ宮廷道化師なんだろ?

『精神分析の倫理』のセミナールにおいてラカンは、「悪党」と「道化」という二つの知的姿勢を対比させている。右翼知識人は悪党で、既存の秩序はただそれが存在しているがゆえに優れていると考える体制順応者であり、破滅にいたるに決まっている「ユートピア」計画を報ずる左翼を馬鹿にする。いっぽう左翼知識人は道化であり、既存秩序の虚偽を人前で暴くが、自分のことばのパフォーマティヴな有効性は宙ぶらりんにしておく 宮廷道化師である。社会主義の崩壊直後の数年間、悪党とは、あらゆる型式の社会連帯を反生産的感傷として乱暴に退ける新保守主義の市場経済論者であり、道化とは、既存の秩序を「転覆する」はずの戯れの手続きによって、実際には秩序を補完していた脱構築派の文化批評家だった。(ジジェク『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』(バトラー、ラクラウ、ジジェク))


いくら経済音痴で無能でも最低限次のことくらい視野におさめてものを言えよ

最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。(柄谷行人「反原発デモが日本を変える」2011、06.11)
近代の資本主義至上主義、あるいはリベラリズム、あるいは科学技術主義、これが限界期に入っていると思うんです。五年先か十年先か知りませんよ。僕はもういないんじゃないかと思いますけど。あらゆる意味の世界的な大恐慌が起こるんじゃないか。

その頃に壮年になった人間たちは大変だと思う。同時にそのとき、文学がよみがえるかもしれません。僕なんかの年だと、ずるいこと言うようだけど、逃げ切ったんですよ。だけど、子供や孫を見ていると不憫になることがある。後々、今の年寄りを恨むだろうな。(古井由吉「すばる」2015年9月号)

よくわかるよ、関心がないのは。

でもこっちぐらいは関心があるんだろ?

これからの日本の最大の論点は、少子高齢化で借金を返す人が激減する中、膨張する約1000兆円超の巨大な国家債務にどう対処していくのか、という点に尽きます。

私は、このままいけば、日本のギリシャ化は不可避であろうと思います。歳出削減もできない、増税も嫌だということであれば、もうデフォルト以外に道は残されていません。

日本国債がデフォルトとなれば必ずハイパーインフレが起こります。(大前研一「日本が突入するハイパーインフレの世界。企業とあなたは何に投資するべきか」2017)
一つのことが明らかになっている。それは、福祉国家を数十年にわたって享受した後の現在、…我々はある種の経済的非常事態が半永久的なものとなり、我々の生活様式にとって常態になった時代に突入した、という事実である。こうした事態は、給付の削減、医療や教育といったサービスの逓減、そしてこれまで以上に不安定な雇用といった、より残酷な緊縮策の脅威とともに、到来している。

… 現下の危機は早晩解消され、ヨーロッパ資本主義がより多くの人びとに比較的高い生活水準を保証し続けるだろうといった希望を持ち続けることは馬鹿げている。…いまだ現在のシステムが維持可能だと考えている者たちはユートピアン(夢見る人)にすぎない。(ジジェク、A PERMANENT ECONOMIC EMERGENCY、2010年, pdf

これもないのかね、で、システム機械やってるだけか?

我々はシステム機械に成り下がった、そのシステムについて不平不満を言うシステム機械に。…

ポピュリストの批判は、大衆自らが選んだ腐敗した指導者を責めることだ。

ラディカルインテリは、どう変えたらいいのか分からないまま、資本主義システムを責める。

右翼左翼の政治家たちはどちらも、市場経済に直面して、己れのインポテンツを嘆く。

これら全ての態度に共通しているのは、何か別のものを責めたいことである。だが我々皆に責務があるのは、「新自由主義」を再尋問することだ。…それを「常識」として内面化するのを止めることだ。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、What About Me? 2014年)


⋯⋯⋯⋯

※追記

ははあ、さっそくボウヤがこんなことを言っている。

千葉雅也@masayachiba 2019年04月04日

資本主義の公理系から逃れる流れは、戦争機械を形成する。今日のリベラル派のLGBT包摂論は、資本主義の公理系にポリコレ公理を追加して彼らを包摂しましょうという話。僕はそれを批判している。戦争機械としてのLGBT。

これは資本の論理にまったく無知な証拠であり、ボウヤはまちがいなく二周遅れである。

→「資本の論理(文献列挙)


おい、ホントに大丈夫か。この文読めてるんか?

問題は、戦争機械がいかに戦争を現実化するかということよりも、国家装置がいかに戦争を所有(盗用)するかということである La question est donc moins celle de la réalisation de la guerre que de l'appropriation de la machine de guerre. C'est en même temps que l'appareil d'Etat s’approprie la machine de guerre。

…国家戦争を総力戦にする要因は資本主義と密接に関係している。…les facteurs qui font de la guerre d'Etat une guerre totale sont étroitement liés au capitalisme

現在の状況は絶望的である。世界的規模の戦争機械がまるでS Fのようにますます強力に構成されている。Sans doute la situation actuelle est-elle désespérante. On a vu la machine de guerre mondiale se constituer de plus en plus fort, comme dans un récit de science-fiction ;(ドゥルーズ &ガタリ『千のプラトー』「遊牧論あるいは戦争機械』1980年ーーナイーヴな戦争機械概念のお釈迦