2019年7月13日土曜日

1968年後のレイシズム勃興予言

ラカンはレイシズムという語を三度口に出している。すべて『オートルエクリ』に所収されている論からで、1967年の PROPOSITION SUR LE PSYCHANALYSTE DE L'ÉCOLE、1970年の RADIOPHONIE、1973年末の Télévisionである。そこでは、ようするに 《レイシズム勃興の予言 prophétiser la montée du racisme》(AE534)をしたのである。

どんなことを言っているかと言えば、ーーいまは直接引用しないがーーその内容は、前回引用した次の二文にかかわる。

父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)
エディプスの斜陽 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! 」と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)


で、予言は当然の如く「大当たり」であるのは、現在の状況をみれば明らかである。ラカン的には、人種差別の激増は、前回示したヒステリーが激減してパニック発作等の身体症状が激増したのと同じ理由なのである。

レイシストたちを叩いてもモグラ叩きのようなものである。それをムダだと言うつもりはない。だが人は、フロイトが『文化の中の居心地の悪さ』でそのすすめをした《文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften 》的分析をして、レイシズム高まりの構造的理由をしっかり認知すべきである。そこからしか真の社会変革運動は生まれない。

重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』)

1968年以後、さらには1989年以後はことさら、われわれの《所与の“環境”》は、「父の蒸発」である。実は誰もが知っている筈である。例えば政治家等のリーダーたちの顔ぶれを少しでも思い起こせば。

前回示したことをくりかえせば、人はかつての支配的父を迂回しつつ、だが父の機能を取り戻さなくてはならない。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン、S23, 1976)

ラカンの言っていることは柄谷行人流に言えば、帝国の原理の復活である(参照:資本の言説の掌の上で踊る猿)。

帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)