2019年7月12日金曜日

エリオット・ムンク・漱石とヒステリー女たち

■エリオットと妻 Vivienne_Haigh





あの女をごらん、
彼女をせせら笑っているみたいに開いている戸口の
明りを浴びて、君の方へためらっている。
その彼女の着物の裾は裂け
砂利で汚れているだろう、
彼女のまなじりは
曲ったピンのようにねじれているだろう。

ーーエリオット「風の夜の狂想曲』 深瀬基寛訳



■ムンクの恋人(たぶん)




エドヴァルド・ムンク、アウグスト・ストリンドベリから、フランツ・カフカまで。…ヒステリー女は自暴自棄の嘆願から残酷な傲慢さやら愚弄などに即座に反転する。(⋯⋯)

ここで、エドヴァルド・ムンクのヒステリーとの遭遇に言及しよう。それは彼にとても深い刻印を残した。1893年、ムンクはオスロのワイン商人の美しい娘に恋に落ちた。娘は彼にくっついて離れなくなったのだが、ムンクはそのような関係を怖れ自分の仕事を案じて彼女のもとを去った。だがある嵐の夜、使いが彼を呼びに来た。知らせは若い女が死に際にあって、最後に彼と話をしたいというものだ。ムンクはひどく心を動かされて、一も二もなく彼女のところに駆けつけたのだが、そこでは二本の蝋燭のあいだのベッドに女が横たわっていた。けれども彼女のベッドに近づくと、娘はすくっと起き上がり笑いだした。すべての情景はいかさま以外のなにものではない。ムンクは背を向け立ち去ろうとした。その瞬間、彼女は、彼が立ち去るなら、拳銃で自殺してやると脅し、銃をひき出して自分の胸に向けた。

ムンクがその手から武器を取り上げようとして向き直ると、これもまたゲームの一環に過ぎないことを確信しつつも、銃は発砲され、彼の手を傷つけた。こうして、われわれはここで、最も純粋なヒステリー的劇に出逢っている。主体は仮装 masquerade に囚われている。そこでは、命にかかわるような深刻にみえるようなことでさえ、ペテンとして現われる。空虚な仕草にみえるものが命にかかわる仕草として現われるのだ。この劇に直面した男性の主体を襲うパニックは測り知れない畏怖だ。(Zizek, Connections of the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture, 1995)



■夏目鏡子





二人の間柄がすれすれになると、細君の心は段々生家の方へ傾いて行った。生家でも同情の結果、冥々の裡に細君の肩を持たなければならなくなった。しかし細君の肩を持つという事は、或場合において、健三を敵とするという意味に外ならなかった。二人は益離れるだけであった。 

幸にして自然は緩和剤としての歇私的里(ヒステリー)を細君に与えた。発作は都合好く二人の関係が緊張した間際に起った。健三は時々便所へ通う廊下に俯伏になって倒れている細君を抱き起して床の上まで連れて来た。真夜中に雨戸を一枚明けた縁側の端に蹲踞っている彼女を、後から両手で支えて、寝室へ戻って来た経験もあった。 

そんな時に限って、彼女の意識は何時でも朦朧として夢よりも分別がなかった。瞳孔が大きく開いていた。外界はただ幻影のように映るらしかった。(…)

発作の今よりも劇しかった昔の様も健三の記憶を刺戟した。 

或時の彼は毎夜細い紐で自分の帯と細君の帯とを繋いで寐た。紐の長さを四尺ほどにして、寐返りが充分出来るように工夫されたこの用意は、細君の抗議なしに幾晩も繰り返された。  或時の彼は細君の鳩尾へ茶碗の糸底を宛がって、力任せに押し付けた。それでも踏ん反り返ろうとする彼女の魔力をこの一点で喰い留めなければならない彼は冷たい油汗を流した。(夏目漱石『道草』)


三人が三人とも真の臨床的観点からの全きヒステリー女だとは断言しないでおくが、こういった重度の症状は今では稀になった。なぜなのか?

フロイトの《文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften 》(『文化の中の居心地の悪さ』1930年)を引き継ぐラカン派の答えは、なによりもまず権威的な「父の蒸発」のせいだということになっている。「父の蒸発」とは、中井久夫の言葉なら、学園紛争後の「父なき世代」であり、1989年まで辛うじて生き残っていた「マルクスの父」の死以後は、さらにいっそう重度のヒステリー症状は消えつつあると言えるのではないか(すくなくとも先進諸国においての世界的に)。一神教社会ではない日本は、もともと権威的な「父の名」は弱かったと言われるが、漱石の時代は、明治から敗戦までの天皇制疑似一神教時代である。

ここではラカンの言葉を先ず二つ引こう。

父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)
エディプスの斜陽 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! 」と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)

ーー「享楽せよ」とは「身体の享楽をせよ」という意味である。エディプスの斜陽によって、ファルス秩序(言語秩序)に属する「欲望」の上覆いーーフロイトの表現なら「心的外被 psychische Umkleidung」ーーが剥がれ落ち、底部にある「享楽」が裸のまま露顕するようになる。




ちなみに最後のフロイトーー死の枕元にあったとされる草稿ーーにはこうある。

われわれが心的なもの Psyche(心的生活 Seelenleben)と呼ぶもののうち、われわれに知られているのは、二種類である。ひとつは、それの身体器官körperliche Organとその舞台あるいは脳(神経系 Nervensystem)であり、もうひとつは、われわれの意識作用 Bewusstseinsajct である。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940)

そしてヒステリー的症状とは身体的なものを覆う上覆い(意識作用)である。フロイトが頻用した「転換ヒステリーKonversionshysterie」あるいは「転移性神経症 Übertragungsneurose」という言葉は、なによりもまず身体的なものが心的なものに転換されるという意味だが、父の蒸発によって転換されることが少なくなったのである。これがラカン派の観点である。

ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallusとは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン、S18, 09 Juin 1971)
ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)

ようするにファルスの意味作用が弱体化すれば、底にある身体的な享楽が露出する。

欲望は享楽に対する防衛である。le désir est défense contre la jouissance (Jacques-Alain Miller, L'économie de la jouissance, 2011)
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

そして現在、重度のヒステリー(転換症状)がなくなったかわりに、リアルな身体の症状が増加している。

現在、フロイトから百年経て、われわれはまったく異なった症状に直面している。恐怖症の構築のかわりに、パニック障害に出会う。転換症状のかわりに、身体化障害と摂食障害に出会う。アクティングアウトのかわりに、攻撃的な性的エンアクトメント(上演)に出会う、それはしばしば自傷行為薬物乱用を伴っている。そのうえ、ヒストリゼーション(歴史化)等々はどこかに行ってしまった。個人のライフヒストリーのエラボレーション、そこにこれらの症状の場所や理由、意味を見出すようなものは、見つからないのだ。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, A combination that has to fail: new patients, old therapists -Lecture in Dublin, 2008) 

ポール・バーハウは前年(2007年)の講演”Chronicle of a death foretold” では、これらの症状は、《表象を通して欲動興奮を処理することの失敗 the failure to process the drive arousal via representations》だとしている。権威的父の名にかかわる「父の隠喩」は必要ないが、身体的原症状を象徴化する「父の機能」は是非とも必要なのである。これが、ラカンが次のように言っている意味である。《人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.》(S23, 1976)。


おそらく自閉症の増大もーーほかの要因もあるだろうが、すくなくとも自閉症をラカン派的な意味での「身体自体の症状」と取り扱えば(参照)ーーこの文脈のなかでとらえる仕方もある。

統計的観点等からの批判が多くある図だが、自閉症激増図を参考のために貼り付けておこう(もっともラカン的な意味の「自閉症」とDSMの「自閉症」とは異なることに注意)。