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2019年8月29日木曜日

抑圧概念のお釈迦のために

フロイトの抑圧は、実にイミフの訳語である。

日本では従来 Verdrängung は「抑圧」と訳されるが、ドイツ語の語感からは「抑圧」ではなしに「追放」とか「放逐」が正しく、「抑圧」はむしろUnterdrückung(かりに上では「抑制」と訳したところの)に当る訳語である。(フロイト『夢判断』下 高橋義孝訳註 新潮文庫 p.379)
中井久夫)「抑圧」の原語 Verdrängung は水平的な「放逐、追放」であるという指摘があります。(中野幹三「分裂病の心理問題―――安永理論とフロイト理論の接点を求めて」)。とすれば、これをrepression「抑圧」という垂直的な訳で普及させた英米のほうが問題かもしれません。もっとも、サリヴァンは20-30年代当時でも repression を否定し、一貫して神経症にも分裂病にも「解離」(dissociation)を使っています。(批評空間2001Ⅲー1「共同討議」トラウマと解離」(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

上にあるように、Verdrängung とは、「放逐、追放」なのであって、圧するという意味はない。したがって抑圧という訳語をお釈迦にせねばならない。

とはいえフェミニストとしての蚊居肢子は「放逐、追放」という語も気に入らない。

本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと想定される。Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist (フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧されている。男にとって女が抑圧されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)

どうしたって許せないのである、女を放逐したり、女を追放するなどという語感は。

さてどうすべきであろうか? 中井久夫=サリヴァンのいう「解離」を使用すべきであろうか。女の解離? だがこれだってイミフであり採用しがたい。

………

■抑圧とは防衛のことである

フロイトは抑圧という語について、1926年に次のように言い出した。

私は後年、(『防衛―神経精神病』1894年で使用した)「防衛過程 Abwehrvorganges」概念を「抑圧 Verdrängung」概念へと置き換えたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの「防衛Abwehr」という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。

…この概念は、自我が葛藤にさいして役立てるすべての技術を総称している。抑圧はこの防衛手段のあるもの、つまり、われわれの研究方向の関係から、最初に分かった防衛手段の名称である。(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926 年)

女への防衛だったらかなりいける。じつに蜀山人的である。

世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし(蜀山人太田南畝)

世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい(蜀山人太田南畝)


抑圧という語は防衛にすべきである!

抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


■抑圧とはダムのことである

ところで防衛にはすくなくとも二段階がある。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。(フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)

ーー原防衛と後期防衛である。これをフロイトは「古いダムと新しいダム」と呼んでいる。

分析は、一定の成熟に達して強化されている自我に、かつて未成熟で弱い自我が行った古い抑圧 alten Verdrängungen の訂正 Revision を試みさせる。抑圧のあるものは棄却abgetragenされ、あるものは承認 anerkannt されるが、もっと堅実な材料によって新しく構成される。このようにしてでき上がった新しいダムneuen Dämme は、以前のそれとはまったく異なった耐久力をもっている。それは欲動強度(欲動の高まりTriebsteigerung)という高潮にたいして、容易には屈服しないだろうとわれわれが信頼できるようなものとなる。したがって、幼児期に成立した根源的抑圧過程 ursprünglichen Verdrängungsvorganges を成人後に訂正し、 欲動強度 Triebsteigerung という量的要素がもつ巨大な力の脅威に終止符を打つという仕事が、分析療法の本来の作業であるといえよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』 第3章、1937 年)

何に対する原ダムかといえば、エスに対するダムである。

心的装置は不快に不寛容である Der psychische Apparat verträgt die Unlust nicht 。 あらゆる犠牲を払っても不快を避けようとする。現実 Realität の知覚 Wahrnehmung が不快をもたらすのなら、その知覚ーーすなわち真理 Wahrheit--は、犠牲にされなければならない。

外的危険に直面した場合、かなりの時間のあいだ危険状況からの逃避 Fluchtと回避 Vermeidung によって切り抜けうる。そしてついには現実の能動的改変 aktive Veränderung der Realität によって危険を取り除くまでの力を獲得することもある。

しかし自己から逃避することはできない。内的危険にたいしては、逃避は何の役にも立たない。それゆえに自我の防衛機制 Abwehrmechanismen は、内的知覚 innere Wahrnehmung を改竄 verfälschenする。

したがって我々は、エスについての、欠陥だらけで歪曲された知識 mangelhafte und entstellte Kenntnis を送り届けられるだけである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第5章、1937年)

ダムというのもなかなかいける。女に対するダムである。


■古いダムとは固着のことである

古いダムとしての原抑圧とは固着のことである。


抑圧は何よりもまず固着である。le refoulement est d'abord une fixation (Lacan, S1, 07 Avril 1954)

以下、フロイトから直接、二つの文節を引こう。

「抑圧」は三つの段階に分けられる。 

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後期抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、 抑圧の失敗 Mißlingens der Verdrängung・侵入 Durchbruch・「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてリビドー的展開 Libidoentwicklung の固着点への退行 Regression を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 摘要訳)
われわれには原抑圧 Urverdrängung 、つまり欲動の心的(表象-)代理 psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着Fixierungが行われる。

…この欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇のなかに蔓延りwuchert dann sozusagen im Dunkeln、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘すると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動強度Triebstärkeという装いによって患者をおびやかす。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)


■暗闇に蔓延る異者という残滓

古いダムとは、『終わりなき』に《未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln》とあったように、ダムとしては軟弱なのである。だから上にあったように「暗闇に蔓延る異者という残滓」がある。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残滓Reste が保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

ようするにダムとはいいながら、エスに対する「境界表象」にすぎない。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)

蚊居肢散人はこの1896年に言われた「境界表象 Grenzvorstellung」をとても好む。原抑圧つまりリビドーの固着とは、エスにたいする境界表象である。

境界でありたいした防衛はできない。別の言い方ならエスに対する防衛の失敗、エスに対する翻訳の失敗がある。

翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、Freud in einem Brief an Fließ vom 6.12.1896)

最晩年のフロイトは、この防衛の失敗によりエスのなかに居残る異者を、「原無意識」と呼んだ。

さきに次の文を示しておこう。

忘却されたもの Vergessene は消滅 ausgelöscht されず、ただ「抑圧 verdrängt」されるだけである。その記憶痕跡 Erinnerungsspuren は、全き新鮮さのままで現存するが、対抗備給 Gegenbesetzungen により分離されているのである。…それは無意識的であり、意識にはアクセス不能である。抑圧されたものの或る部分は、対抗過程をすり抜け、記憶にアクセス可能なものもある。だがそうであっても、異物 Fremdkörper のように分離 isoliert されいる。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

そして翻訳の失敗による原無意識である。

自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

ーーこれこそ現代ラカン派が呼ぶところの現実界的無意識である。 《現実界的無意識 l'inconscinet réel 》(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)

エスのなかに居残る異者とは、エスの核とも呼ばれる。

人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


暗闇に蔓延る異者としての女
 
だが暗闇に蔓延る異者としてのリビドーの固着の残滓とは具体的には何だろう?

リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。…

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1916年)

つまり幼児期の純粋な出来事的経験によってエスのなかに居残る異者とは何か?

これは原大他者にかかわるに違いない。

全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)

おわかりだろうか?暗闇に蔓延る異者とは、究極的にはあの女なのである。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
われわれにとって異者としての身体 un corps qui nous est étranger(異者身体)(ラカン, S23, 11 Mai 1976)


人はみな男も女もあの女に支配されて人生を始めている。あの女とは「原誘惑者」でもある。

母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

ああ、原セクシャルハラスメント者! ああ、あの偉大な母なる神!

偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替されるが Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)

しかもオチンチンつきの女である。

母子関係 relation de l'enfant à la mère…ファリックマザーへ固着された二者関係 relation duelle comme fixée à la mère phallique (S4, 03 Avril 1957)

これこそ人が防衛せねばならぬ究極の対象である。

母へのエロス的固着の残滓 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女拘束Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)

防衛したって生涯防衛しきれぬあの女である、ーー《世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい》(蜀山人)


■母なる原超自我

暗闇に蔓延る異者としての女とは別の言い方をすれば、母なる超自我である。

私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である。In my view[…]the introjection of the breast is the beginning of superego formation[…]The core of the superego is thus the mother's breast, (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951)

ラカンはこの超自我を「原超自我」(母なる超自我・太古の超自我)と呼んでいる。

太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S5, 02 Juillet 1958)

ああ、あの母なる原超自我! おわかりだろうか、この女こそすべてをのみこむ引力の起源である。

 フロイトは、原抑圧 l'Urverdrängungを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。 (ラカン、S11、03 Juin 1964)

あの女があなたのリビドーの固着(身体の上への刻印)をしたのである。この刻印のせいであなたを自己破壊的に吸い込むのである。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

これこそ死の欲動である。

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

あの固着、あの刻印こそ死の徴である。

私が「徴 marque」、「唯一の徴 trait unaire」と呼ぶものは、「死の徴 marqué pour la mort」(死に向かう徴)である。…これは、「享楽と身体との裂け目、分離 clivage, de cette séparation de la jouissance et du corps」…傷つけられた身体désormais mortifiéを基礎にしている。この瞬間から刻印の遊戯 jeu d'inscriptionが始まる。(ラカン、S17, 10 Juin 1970)


■享楽の固着

現在ラカン派ではリビドーの固着(欲動の固着)のことを享楽の固着とも呼ぶ。

欲動の固着(ゆえに享楽の固着)the fixation of the drive (and thus the fixation of a jouissance),(Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, 2002)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)
享楽の固着 la fixation de la jouissance、(Catherine Lazarus-Matet, Une procédure pour la passe contemporaine, 2015)
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)

これは言葉の定義上、当然の成り行きである。

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

享楽の固着があの女への回帰運動を生むのである。

反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この廃墟となった享楽 jouissance ruineuseへの探求の相がある。…

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

この享楽の対象としてのモノこそ、母である。

モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給Besetzung(リビドー )を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung(リビドー )は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)

このモノこそ現実界であり、反復強迫(死の欲動)の起源である。

フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER,2/2/2011)

あの女の引力によって人は自動機械になってしまうのである。

この欲動蠢動 Triebregungは(身体の)「自動反復=自動機械 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する要素 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es となる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

これが現代ラカン派的には享楽の固着と呼ばれるものである。

反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)



■あの女に対する防衛

ラカン派では究極的には「あの女に対する防衛」を「享楽に対する防衛」、「現実界に対する防衛」と呼ぶ。

欲望は享楽に対する防衛である le désir est défense contre la jouissance (Jacques-Alain Miller L'économie de la jouissance、2011)
我々の言説はすべて、現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 。(ジャック=アラン・ミレール、 Clinique ironique, 1993)

欲望とは古いダムにたいする新しいダムである。いくらか強固な防衛であるにしろ、 この新しい防衛の鎧でさえそれほど確かなものではない。

ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)

ようするにファルスの鎧は、あの女の刻印を飼い馴らす程度の仕事しかしない。

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

中期ラカンは、この母なるシニフィアンとしての原シニフィアンを、《徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」》、《享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance 》(S17、1970)と呼んだ。

だが母なる記念品は容易に飼い馴らしえないのである。


■トラウマへの固着

現実界とは心的装置に翻訳されない身体的なものということであり、事実上、トラウマ界のことである。

享楽は現実界にある la jouissance c'est du Réel. (ラカン、S23, 10 Février 1976)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

この享楽の固着にかかわる反復運動をフロイトはトラウマへの固着と反復強迫と呼んだのである。

トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」は、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)

以下の文に「すべての神経症的障害」とあるが、フロイトには精神神経症と現勢神経症という概念があり、これがフロイトにとって全症状である(参照)。その前提で読めば、この文も決定的な文である。

すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。

概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章)



■あの蛇、あの悪魔

以上、おわかりになったことだろうか? 抑圧という語の本来的な意味を。

思い浮かぶまま、テキトウに記したので、いくらかの飛躍、いくらかのわかりにくいところがあるかもしれないが、こういったことは厳密に記せばとてつもなく長くなってしまうのである。

ここでは抑圧=防衛=ダムの起源が、あの女にあることさえおわかりになればよろしい。

あの女、つまり蛇であり、悪魔である。

女はその本質からして蛇であり、イヴである Das Weib ist seinem Wesen nach Schlange, Heva」――したがって「世界におけるあらゆる禍いは女から生ずる vom Weib kommt jedes Unheil in der Welt」(ニーチェ『アンチクリスト』1888年)
世には、自分の内部から悪魔を追い出そうとして、かえって自分が豚のむれのなかへ走りこんだという人間が少なくない。nicht Wenige, die ihren Teufel austreiben wollten, fuhren dabei selber in die Säue. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「純潔」)

あの蛇、あの悪魔に対していくら防衛しようと無駄である。世の中にはファルスの鎧がぶ厚い人物もいるであろうが、とはいえ本来的に無理な防衛である。

自然的本性を熊手で無理やり追いだしても、それはかならずや戻ってやってくるだろう。Naturam expellas furca, tamen usque recurret (ホラティウス Horatius, Epistles)


■エスの意志

最後にこう付記しておくべきだろうか? いささか躊躇ったが蚊居肢子のエスが要請するのである。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


おわかりだろうか、あの女の吸引力に抵抗するのはまったく無理なことを。

エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe(リビドー)と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)
自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)


■女主人の声

ああ、蚊居肢散人は決定的なことを記してしまった。本来、隠しておかねばならないことを!

いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?

- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)

ああ、これこそあの女主人の声である!

何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。

……そのとき、声なき声 ohne Stimme がわたしに語った。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスを語らない[Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1883年)

この声をきいたことがない人間があろうか? そんな人間が世にいるのだろうか?

もしそんな人物がいたら、よほどファルスの鎧がぶ厚い、いわゆる究極のエディプス的防衛人格の人物でしかありえないだろう。

「エディプスなき神経症概念 notion de la névrose sans Œdipe」…ここにおける原超自我 surmoi primordial…私はそれを母なる超自我 le surmoi maternel と呼ぶ。

…問いがある。父なる超自我 Surmoi paternel の背後derrièreにこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求しencore plus exigeant、さらにいっそう圧制的 encore plus opprimant、さらにいっそう破壊的 encore plus ravageant、さらにいっそう執着的な encore plus insistant 母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

しかしいまどきそんな人物が存在するのだろうか、このエディプスの斜陽の時代に。

エディプスの斜陽 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)


この《享楽への意志 la volonté de jouissance》(ラカン, Kant ·avec Sade, E778, Avril 1963)の時代、死への道への時代に、あの声をきく耳をもたぬ者がいるのだろうか?

死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)