このブログを検索

2020年3月29日日曜日

今までの着物を脱ぎかえて新しい衣裳にかえて、少しきゅうくつだけど、喜んでいる夢


ああようやく見つけたな、中井久夫の患者の自殺の話。

その患者は、私が二年ほどみていた女子大生だった。亡くなる前日、このごろ夢が明るくなったのよ、といった。前回、夢が明るくなったのが確実な回復の歩みの始まりだったのを思い出して、私はおろかにも喜んだ。彼女は「今までの着物を脱ぎかえて新しい衣裳にかえて、少しきゅうくつだけど、喜んでいる夢」「花嫁衣裳でまっ白なの」と教えてくれた。翌日、私は白衣につつまれた彼女を見る破目になるのである。このケースは、私には非常な教訓であった。私の師の一人とさえ言ってよいだろう。(中井久夫「治療のジンクスなど」1983年『記憶の肖像』所収)

ひと月半ぐらい前だったか、どこに書いてあったのだろうとしばらく探したのだが、見出せなかった。その後も気になって折にふれ見つけようとしたのだけれど、かなわなかった。今朝、別のことを読もうと『記憶の肖像』をひらいたら偶然行き当たった。何のきっかけで探そうとしたのかは失念した。今は探し物にふと出会ったのが嬉しい。

前後も抜き出しておこう。

私が精神科医という仕事をやっているうちにいくつかのジンクスとでもいうべきものができた。他愛ない話と言われそうだが、それなりに力動的な含みがありそうで私はジンクスを破らないように畏れかしこんでいるのである。

第一は、外来の前の晩に精神医学の論文を読むと、どうもその外来がよくないということである。外来というのは、次の外来までの一週間なり二週間がどうであるだろうかという想像力を働かしておかなければならないものだろう。入院患者でも綱渡りのような際どいところにいる患者との面接ならば同じことになるがーー。

要するに、こまかい呼吸合せとか、かすかなサインをキャッチするとか、その他の微妙な直観が必要なのに、前の晩にそういうものを読むと、働くはずのものが働かなくなるらしい。つまり一般に「自由に注意をただよわせていること」(フロイト)ができにくくなる。

精神医学の論文でなければよいのか。よいらしい。あと味のさわやかな本や画集や音楽は翌日の「自由にただよう注意力」を強めてくれる。精神医学でも生物学的なのはかまわない。薬物療法にせよ精神療法にせよ、治療法の論文は、それをさっそく使ってみたくなる誘惑が出るはずだと頭の隅にとどめておいたほうがよいが、たまたま前の晩読んだ方法があって、たすかったということも存外多い。どうもすぐれた精神病理の論文が私にはよろしくないようである。私の患者が事故を起こしたのは、ある人の論文を二晩続けて読んですっかり感心した時のことであった。

そもそも精神病理というものにどこか毒があるのか、私と精神病理との関係がよくないのか、あるいは著者が同年輩の人なのでかねがねライバル意識があったのに「うーん、参った」となったのか、論理的に高度で構成の精緻な論文にエネルギーを喰われてしまったの か。どれか一つだけではないような気がする。

その患者は、私が二年ほどみていた女子大生だった。亡くなる前日、このごろ夢が明るくなったのよ、といった。前回、夢が明るくなったのが確実な回復の歩みの始まりだったのを思い出して、私はおろかにも喜んだ。彼女は「今までの着物を脱ぎかえて新しい衣裳にかえて、少しきゅうくつだけど、喜んでいる夢」「花嫁衣裳でまっ白なの」と教えてくれた。翌日、私は白衣につつまれた彼女を見る破目になるのである。このケースは、私には非常な教訓であった。私の師の一人とさえ言ってよいだろう。

ここで次のジンクスも出てくる。あまりに多くのことを医者に教えた患者たとえば一つの治療法を生むきっかけになった患者、いわば多くを医者に与えてしまった患者は、めぐりあわせによってか、その患者の持ち前がそうなのか、特異な運命を辿ることが多いのではないかということである。ブロイアーとフロイトとの患者アンナ・Oのように女性地位向上の大運動家となった人もいるが、ひそかに精神科医が額づきに行く墓標もある。私は次第に、過ぎるよりも足りないほうを選び、いつも「逆鱗の構え」を心がけるようになった。基本的には「待ちの治療」である。

逆に精神科医がすり切れる場合もある。自分の子どもと険悪な関係になるのは水曜の夜が多いことに気づいた。 当時その日は私の「子ども診療日」だった。私の中で何か柔かな生ぶ毛のようなものが費い果されて、家に帰った時には子どもの気持を汲むアンテナが効かなくなっていたのだと思う。私が子どもを特別に診る日を一時やめざるを得なくなるほど、そのことは著しかった。

私のアンテナはどうも不安定だ。朝の外来をはじめて三人から五人目くらいがいちばんよく働き、十人をいくらかすぎると、一人一人に波長を合わせる精度がぐっとおちる。定石しか置けない状態になってしまう。もっとも、一日に一人か二人しか診ない場合には、どうめ気が乗らない診察になる。十人すこしが私の外来の人数の理想らしい。(中井久夫「治療のジンクスなど」1983年『記憶の肖像』所収)