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2020年3月29日日曜日

終りが近いから終りは遠い


たとえ知識があろうとも、それだけでは誰にも行動を促すことはできない。…なぜなら、私たちは自分の知識が導く当然の帰結を、自分で思い描けないから。(ジャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』)
「災禍を見抜きもし、予言もし、警告もした」などというが、そこから行動が生まれたのでなければ、しかも行動が功を奏したのでなければ、そんなことは政治的に通用しない。(ヤスパース『罪責論』)



--だな。





ジジェク 絶賛のジャン=ピエール・デュピュイの思考については、次の3つを参照されたし。




ここでは①から次の文のみを再掲。


終わりに最も近づいている瞬間にこそ、
終わりから最も遠く離れていると信じ込んでしまう
数多くのカタストロフィーが示している特性とは、次のようなものです。すなわち、私たちはカタストロフィーの勃発が避けられないと分かっているのですが、それが起こる日付や時刻は分からないのです。私たちに残されている時間はまったくの未知数です。このことの典型的な事例はもちろん、私たちのうちの誰にとっても、自分自身の死です。けれども、人類の未来を左右する甚大なカタストロフィーもまた、それと同じ時間的構造を備えているのです。私たちには、そうした甚大なカタストロフィーが起ころうとしていることが分かっていますが、それがいつなのかは分かりません。おそらくはそのために、私たちはそうしたカタストロフィーを意識の外へと追いやってしまうのです。もし自分の死ぬ日付を知っているなら、私はごく単純に、生きていけなくなってしまうでしょう。
これらのケースで時間が取っている逆説的な形態は、次のように描き出すことができます。すなわち、カタストロフィーの勃発は驚くべき事態ですが、それが驚くべき事態である、という事実そのものは驚くべき事態ではありませんし、そうではないはずなのです。自分が否応なく終わりに向けて進んでいっていることをひとは知っていますが、終わりというものが来ていない以上、終わりはまだ近くない、という希望を持つことはいつでも可能です。終わりが私たちを出し抜けに捕らえるその瞬間までは。

私がこれから取りかかる興味深い事例は、ひとが前へと進んでいけばいくほど、終わりが来るまでに残されている時間が増えていく、と考えることを正当化する客観的な理由がますます手に入っていくような事例です。まるで、ひとが終わりに向かって近づいていく以上のスピードで、終わりのほうが遠ざかっていくかのようです。
自分ではそれと知らずに、終わりに最も近づいている瞬間にこそ、終わりから最も遠く離れていると信じ込んでしまう、完全に客観的な理由をひとは手にしているのです。驚きは全面的なものとなりますが、私が今言ったことはみな、誰もがあらかじめ知っていることなのですから、驚いたということに驚くことはないはずです。時間はこの場合、正反対の二つの方向へと向かっています。一方で、前に進めば進むほど終わりに近づいていくことは分かっています。しかし、終わりが私たちにとって未知のものである以上、その終わりを不動のものとして捉えることは本当に可能でしょうか? 私が考える事例では、ひとが前へと進んでも一向に終わりが見えてこないとき、良い星が私たちのために終わりを遠く離れたところに選んでくれたのだ、と考える客観的な理由がますます手に入るのです。(ジャン=ピエール・デュピュイ「極端な出来事を前にしての合理的選択」pdf

ーーだな。

でもこうでもあるんだな・・・

人が何ごとかを語るのは、そのことが生起しつつある瞬間から視線をそらせるためである。むしろ事態の推移には視線を注ぐまいとして、もろもろの予言や断言が行きかうことになるのだが、そのような場合、人は決してあらゆることを話題にするのではなく、きまって一つの潜在的な主題のまわりだけを旋回する。そしてその潜在的な主題が終りにほかならない。(蓮實重彦『物語批判序説』)



蓮實のこの文は、プルーストの「見出された時」に触れつつこう記しているのだけど、ほとんどみなそうだよな、「事態の推移には視線を注ぐまいとして」、ーー究極的には自分の終りだけは語らずにーー、何かの終りを語ってるんだ。





--「20が本当につながっていなかったらもう終わりですよ」



プルースト 曰くの「まるで恋をしているときのように、目かくしをして新聞を読んでいる」ように、人は目かくししてコロナ対策専門家の「誠実真摯な」見解を傾聴してきたんだろうよ。




ところでなんでこんなこというヤツいるんだろ? そのわけシッテルカイ?