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2020年3月28日土曜日

女性恐怖の起源


貪り喰うために探し回る母
身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り喰おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret(『聖ぺトロの手紙、58』)
ラカンの母は、《quaerens quem devoret》(『聖ペテロの手紙』)という形式に相当する。すなわち母は「貪り喰うために誰かを探し回っている」。ゆえにラカンは母を、鰐・口を開いた主体 le crocodile, le sujet à la gueule ouverte.として提示した。(ミレール、,La logique de la cure、1993)

少し前、問われて示したと思うけどな。女にパックリやられるのは、男は怖いよ、だから女性恐怖だよ。ラカンだけの問題ではまったくない。

男が女と寝るときには確かだな、…絞首台か何かの道のりを右往左往するのは。[monsieur couche avec une femme en étant très sûr d'être… par le gibet ou autre chose …zigouillé à la sortie.] ……もちろんパッションの過剰 excès passionnelsに囚われたときだがね。(Lacan, S7, 20 Janvier 1960)
女-母とは、交尾のあと雄を貪り喰うカマキリみたいなもんだよ。(ラカン S10, 1963, 摘要訳)

要するにこういうのを示しても繋がらないないんだろうな、

フロイト版も含めてもう少し示しておくよ、母親になったら、子供が可愛くて食べてしまいたいってあるだろ? これが女性恐怖の起源だよ。少なくともフロイトラカン派においては、その主要な起源だね、

可愛くて食べてしまいたい
愛の予備段階は、暫定的には性的目標 Sexualziele としてあらわれるが、他方、性欲動Sexualtriebeのほうも複雑な発達経過をたどる。すなわち、その発達の最初に認められるのが、合体 Einverleiben ないし「可愛くて食べてしまいたいということ Fressen」である。これも一種の愛であり、対象の分離存在を止揚することと一致し、アンビヴァレンツと命名されうるものである。(フロイト『欲動とその運命』1915年)
母への依存性 Mutterabhängigkeit のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に貪り喰われてしまうaufgefressenというのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われる。(フロイト『女性の性愛』1931年)
母なるパックリ穴
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
〈母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名」である。それは、「母の欲望」であり、「原穴の名」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou (コレット・ソレールColette Soler, Humanisation ? , 2014)
構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995)

もう少し穏やかに言えば、人間には分離不安派と融合不安派がある。幼少期、しばしば母不在を経験すれば分離不安をもちエロス人格・愛を憧憬する人格となる。母の過剰現前を経験すれば融合不安をもちタナトス人格・独立志向の人格となる。女性嫌悪や女性恐怖とはこのタナトス人格のひとつ。融合不安というのはパックリ不安だから。パックリじゃなくてもオッパイおしつけられて息ができないってのでもいいさ。

これはもちろん発達段階における各人の多様性があるのでーーたとえば乳児期、母の過剰現前を経験してもその後(たとえば年子が生まれたり母が仕事に出かけたりなどして)母の不在を経験すれば複雑化する、つまりエロスとタナトスの欲動混淆人格となりこれが標準だろうーー、だからあくまでひどく単純化して言っているが、基本的には男女ともこうである。

分離不安と融合不安
最初の母子関係において、子供は身体的な未発達のため、必然的に、最初の大他者の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を引き起こす。…そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本動因は、不安である。これは去勢不安でさえない。この原不安は母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話役としてもよい。寄る辺ない幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに分離不安がある。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを融合不安と呼びうる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villainsーーA Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)


ラカンの穴とはフロイトのエロスの引力のこと。融合引力またはブラックホール。これに引かれ過ぎたらほんとにパックリやられて死んでしまうから、タナトスという分離斥力が働く。ここがいまだほとんどのフロイト研究者でさえわかっていない(参照)。日本ラカン派だってあやしい。だからふつうの人がサッパリでもしょうがないけど。

愛と憎悪との対立は、引力と斥力という両極との関係がたぶんある。Gegensatzes von Lieben und Hassen, der vielleicht zu der Polaritat von Anziehung und AbstoBung (フロイト『人はなぜ戦争するのか Warum Krieg?』1933年)
エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけzusammenzufassenようと努める。タナトスその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第6章、1937年)
同化と反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ)の効果…an effect of S(Ⱥ) as a sucking vagina dentata, eventually as an astronomical black hole absorbing all energy; (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?、1999)
S(Ⱥ) としての母なる超自我 surmoi mère…この思慮を欠いた(法なき)超自我は、母の欲望にひどく近似している。それは、父の名によって隠喩化され支配される前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez、1996より)



ま、ここで示した解釈がゼッタイと言うつもりはないが、ボクはミレール とそしてバーハウの解釈を全面的に受け入れているってことだな。

エロス欲動は大他者と融合して一体化することを憧憬する。大他者の欲望と同一化し同時に己れの欠如への応答を受け取ることを渇望する。ここでの満足は同時に緊張を生む。満足に伴う危険とは何か?それは、主体は己自身において存在することを止め、大他者との融合へと消滅してしまうこと(主体の死)である。ゆえにここでタナトス欲動が起動する。主体は大他者からの自律と分離へと駆り立てられる。これによってもたらされる満足は、エロス欲動とは対照的な性質をもっている。タナトスの分離反応は、あらゆる緊張を破壊し主体を己自身へと投げ戻す。

ここにあるのはセクシャリティのスキャンダルである。我々は愛する者から距離をとることを余儀なくされる。極論を言えば、我々は他者を憎むことを愛する。あるいは他者を愛することを憎む。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Sexuality in the Formation of the Subject, 2005年)

➡︎「享楽=愛=死