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2020年5月28日木曜日

フェティッシュのインフレ

ここではまず、ジャック=アラン・ミレール が対象aの把握のために決定的だというラカンのセミネール10における神経症者と倒錯者(フェティシスト)の対象aの発言をすこしだけ抜き出す。


神経症者の対象a
神経症の幻想のなかの対象a …
cet objet(a) […]dans son fantasme le névrosé,  …

神経症者は不安に対して防衛する。まさに「まがいの対象a[(a) postiche]」によって。défendre contre l'angoisse justement dans la mesure où c'est un (a) postiche

この幻想のなかで機能する対象aは、神経症者の不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。

Cet objet(a) fonctionnant dans leur fantasme… et qui sert de défense  pour eux contre leur angoisse …est aussi - contre toute apparence - l'appât (ラカン、S10, 05 Décembre 1962)

フェティシストにとっての対象a
対象a…欲望の原因としての対象aがある。l' objet(a), […]comme la cause du désir.

フェティッシュ自体の対象の相が、「欲望の原因」としての対象の相で現れる。…
fétiche comme tel, où se dévoile cette dimension  de l'objet comme cause  du désir.                            

フェティッシュとは、ーー靴でも胸でも、あるいはフェティッシュとして化身したあらゆる何ものかはーー、欲望されるdésiré 対象ではない。…そうではなくフェティッシュは「欲望を引き起こす le fétiche cause le désir」対象である。…

フェティシストは知っている、フェティッシュは「欲望が自らを支えるための条件」だということを。

 c'est que pour le fétichiste,  il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition  dont se soutient le désir. (ラカン、S10、16 janvier 1963)


これを受けて、ジャック=アラン・ミレール は次の図を示している。



簡単に言えば、倒錯者の対象aは主体側にあり「欲望の原因」だが、神経症者の対象aは大他者の側にあって「欲望の対象」であり、インチキだということである。

ミレール はこの2004年以前には、フェティッシュの対象aとは見せかけ(仮象)であり、リアルなものではないといってきた。


フェティッシュとしての見せかけ
セミネール4において、ラカンはこの「無 rien」に最も近似している対象a を以て、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに彼は後年、対象aの中心には去勢[- φ]がある [au centre de l'objet petit a se trouve le - φ]と言うのである。そして対象と無 [l'objet et le rien ]があるだけではない。ヴェール voile もある。したがって、対象aは現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある [l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant]。この対象aは、フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche]である。(J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993)

見せかけは無を覆う機能である
我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien(ミレール、Des semblants dans la relation entre les sexes、1997)

フェティッシュは対象aのひとつのヴァージョンに過ぎない
対象の項において、男性側では対象は、フェティッシュの形式[la forme du fétiche]を取る。フェティッシュは基盤であり、対象aである[objet de base, l'objet petit a]。…フェティッシュはもちろん対象aの特徴を強調するが、対象aのひとつのヴァージョンに過ぎない。[Le fétiche, bien sûr, accentue le caractère de l'objet petit a. Ce n'est qu'une des versions de l'objet a]。

女性側の被愛妄想érotomanieはフェティッシュに比べ、より対象的はなくmoins objectal、愛を支える対象un objet support de l'amourであり、ラカンは穴Ⱥと徴した。ラカンは繰り返し強調している、愛があるところには、去勢の条件があると。この理由で、愛の大他者は彼が持っているものを剥奪されなければならない。  (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)


ーーかくの通りである。

ところが上の図が示されている2004年においてフェティッシュの価値高騰がある。



フェティッシュは欲望の条件である
ラカンはセミネール10「不安」にて、初めて「対象-原因 objet-cause」を語った。…彼はフェティシスト的倒錯のフェティッシュとして、この「欲望の原因としての対象 objet comme cause du désir」を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない le fétiche n'est pas désiré。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである。…これがフェティッシュとしての対象a[objet petit a]である。

ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…

倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表している。…

不安セミネールでは、対象の両義性がある。「原因しての対象 objet-cause 」と「目標としての対象 objet-visée」である。前者が「正当な対象 objet authentique」であり、「常に知られざる対象 toujours l'objet inconnu」である。後者は「偽の対象a[faux objet petit a]」「アガルマagalma」である。…

倒錯者の対象a(「欲望の原因 cause du désir)は主体の側にある。…
神経症における対象a(「欲望の対象objet  du désir)は、大他者の側にある。

神経症者は自らの幻想に忙しいのである。…彼らは夢見る。…神経症者の対象aは、偽のfalsifié、大他者への囮 appâtである。…神経症者は「まがいの対象a[petit a postiche]」にて、「欲望の原因」としての対象aを隠蔽するのである。(J.-A. MILLER,  Orientation lacanienne III, 02/06/2004、摘要訳)


さらに2009年のセミネールでは、フェティッシュはサントームと近似するとまで言うようになる。

倒錯者の対象aはサントームに近似する
倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム概念が見出されるc'est ce que retrouve le concept de sinthome. 

(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。Ca ne se condense pas dans un lieu privilégié qu'on appelle le fantasme (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)


サントームΣは現実界的シニフィアンである。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

ーーミレールはここではこう言っているが、この数週間後の講義発言を読めば(後引用)、サントームは厳密には現実界ではなく現実界の境界表象(現実界の固着)であり、この境界表象が遡及的に潜在的リアルを現勢化する。その意味での現実界である。とはいえかつて現実界と対比されて《フェティッシュとしての仮象semblant comme le fétiche》と呼ばれたフェティッシュの価値高騰はどうも間違いなさそうである。


おそらくミレールにおいて、2004年前後にラカンの対象aの把握にとって大きな転回があったのではないか。ラカンのセミネール10 Seuil版、要するにミレール 版は2004年に初めて出版されたのであり、少なくともミレール はこの機会に初めて熟読吟味することにより、対象aについて覚醒したところがある筈である。

2001年のセミネールでは、図示はしていないが、次のように示せることを言っている。



サントームΣのうえにある(a)が、フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche]の対象aと捉えることができる。

そしてΣ=S(Ⱥ) であり、数年後にはS(Ⱥ) =対象aと言っている。

シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される。c'est sigma, le sigma du sinthome, […] que écrire grand S de grand A barré comme sigma (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)
S(Ⱥ)の代わりに対象aを代替しうる。substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barré.(J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)


このS(Ⱥ) としての対象aは、主流臨床ラカン派においてさえ、2018年前後にようやく注目されるようになった、骨象aである。

私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)


そしてこの骨象=文字aが「身体に突き刺さった骨=身体の上への刻印」であり、サントーム=固着なのである。

症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel,. (Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 30/11/1974)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)




このようにみると、フェティッシュがΣに近似するというようになったミレール においてーーいやおそらくソレールなどを含めた仏臨床ラカン派の主流どころでもーー「フェティッシュのインフレ」があるのではないか。

傍目からみれば、いまだ対象aの把握に彷徨っている愚かなラカン派!ということになるのかもしれないが、対象aとはそれほど難解なのだと言っておこう。ミレール が最近、ジジェクに対してとても苛立っているのは、ジジェクはラカンのシニフィアンの論理期(セミネール11からセミネール20の4月まで)の対象aを強調し、さらにそれを哲学的に捏ね回して巷間に流通させているからである。ジジェクの《対象aは対象もどきabjetである》(ミレール 、2017)。

何はともあれ、ラカン自身が大きく移動している。前期ラカンにおいては対象aが想像的審級なのか現実界的審級なのか明示していない。現実界的対象aがあることを明示するのはセミネール13が初めてである。

対象aは現実界の審級である。(a) est de l'ordre du réel.   (Lacan, S13, 05 Janvier 1966)

もっともセミネール10前後からリアルな対象aを暗示してはいるが。いや、セミネール7のモノdas Ding、ここに後年のラカン から遡及的に読めば、既にリアルな対象aがある。だが最も重要な明示的移行は、セミネール22で純化された症状を文字lettre=対象aとした後以降かも知れない。

何はともあれ対象aの難解さは、ラカン において「欲望のデフレ」があったのと同じような経緯をもつと言ってよい。エディプス的な観点(欲望)からみた対象aから、享楽観点から見た対象a(欲望の原因≒享楽の対象)へ、と。




ラカン の原症状としてのサントームは固着だが、確かにフロイトの記述を追っていくと、フェティッシュと固着を結びつけているものが多い。

今はフロイトのフェティッシュの記述は引用せず、サントーム=固着とするミレール の発言を掲げておくだけにする。


サントームは固着である Le sinthome est la fixation
現実界のポジションは、ラカンの最後の教えにおいて、二つの座標が集結されるコーナーに到る。シニフィアンと享楽である。ここでのシニフィアンとは、「単独的な1のシニフィアンsingulièrement le signifiant Un」である。それは、S2に付着したS1ではない[non pas le S1 attaché au S2 ]。この「1のシニフィアンle signifiant Un 」という用語から、ラカンはフロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。…私は考えている、この「1と享楽の結びつきconnexion du Un et de la jouissance」が分析経験の基盤であると。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthomeと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。

この反復享楽は、S2なきS1(フロイトの固着)を通した身体の自動享楽に他ならない。la jouissance répétitive, [] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)

フロイトが固着と呼んだもの…それは享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)