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2020年6月16日火曜日

ナルシシズム概念の難解さ

フロイトのナルシシズム概念ってのは難しいよ、ほとんどの愛がナルシシズムでいいのだけれど。

前にも引用したーーって思ってたら、その部分を抜いているから、次の中井久夫のナルシシズムの箇所は初めての引用だな。



ナルシシズム概念一つを取り上げても相互に矛盾した記述が同時的にすら存在し、フロイト自身それを意識していなかった
無意識はライプニッツによって公式に“発見”されたのであり、ショーペンハウアーやニーチェはほとんど無意識による人間心性の支配に通じた心理家であった。後二者のフロイトに対する影響は、エランベルジェの示唆し指摘するとおりであろう。

オーストリアにおけるユダヤ人医師第一世代としてはじめ神経学者を指向したフロイトは、しかし、はやくブリュッケの下での発生学研究をもって医学研究をはじめており、その延長としてダーウィンの進化論に深く浸透されていた。彼は、神経学者シャルコーやブロイアー、フリースと、個人的危機(父の死という危機でもあるが、父となる危機でもあり、フロイトは一八九〇年代初期においてほとんど同時交錯的にそれを経験する)の時期に邂逅し、ほとんど科学的な心的装置のモデルを構想する。しかし、フロィトの業績の核心は、彼自身の体験と治療体験であった。さりとて彼はモデルをもって思考するこ とを放棄しなかった。〔無意識/前意識/意識〕なる初期のモデルは〔エス/自我/超自我〕なる中期のモデルとなり、〔エロス/タナトス〕なる後期のモデルとなる。

実は、彼のつくり上げたモデル間の相互関係は、彼の著作によるかぎり明らかとはとうてい言いがたい。ナルシシズム概念一つを取り上げても相互に矛盾した記述が同時的にすら存在し、フロイト自身それを意識していなかったことは、M・バリントのの論証するとおりであろう。防衛機制の臨床的観察による記述は、彼の夢研究(十九世紀には夢への熱烈な関心と膨大な夢研究が持続的に存在した)、あるいは失策行為の研究と表裏 一体であるが、この研究の治療的活用は一部の患者を除いては必ずしもきわめて説得力のあるものとならなかった。おそらく治療者としてのフロイトは、十九世紀末において断然催眠術を採らなかった敢為によって、後世最も特筆されるべきものとなるかもしれない。(…)
しかし、フロイトの影響はなお今日も測深しがたい。一九三九年の彼の死に際してイギリスのある詩人は「フロイトよ、おんみはわれわれの世紀そのものであった」と謳ったが、それすらなお狭きに失するかもしれない。本稿においてはフロイトを全面的にとりあげていないが、それは、私見によれば、フロイトはいまだ歴史に属していないからであり、精神医学背景史とはなかんずく時間的背景を含意するからである。

フロイトは本質的に十九世紀人であると考える。二十世紀は、文学史におけると同じく第一次大戦後とともに始まると考えるからである。フロイトはマルクスやダーウィンなどと同じく、十九世紀において、具体的かつ全体的であろうとする壮大なプログラムのもとに数多くの矛盾を含む体系的業績を二十世紀に遺贈した ”タイタン族"の一人であると思う。彼らは巧みに無限の思索に誘いこむ強力なパン種を二十世紀のなかに仕込んでおいた連中であった。このパン種の発酵作用とその波及は今日もなお決して終末すら見透かせないのが現実である。二十世紀思想史の重要な一面は、これらの、あらわに矛盾を含みつつ不死身であるタイタン族との、しばしば鋭利ながら細身にすぎる剣をもってする二十世紀知性との格闘であったといえなくもない。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年)


むかしからこう言われてきたわけで。

で、この難解さをラカンが、あるいはラカン派が、ある程度整理したということ。

原ナルシシズム=自体性愛
愛は欲動蠢動の一部を器官快感の獲得によって自体性愛的に満足させるという自我の能力に由来している。愛は原ナルシズム的である。Die Liebe stammt von der Fähigkeit des Ichs, einen Anteil seiner Triebregungen autoerotisch, durch die Gewinnung von Organlust zu befriedigen. Sie ist ursprünglich narzißtisch(フロイト『欲動とその運命』1915年)
二次ナルシシズム=自我のナルシシズム
自我のナルシシズムNarzißmus des Ichs は二次的なもの sekundärer(二次ナルシシズムsekundärer Narzißmus )である。(フロイト『自我とエス』第4章、1923年)

自体性愛=享楽
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
自我のナルシシズム=想像的自我の享楽
自我は想像界の効果である。ナルシシズムは想像的自我の享楽である。Le moi, c'est un effet imaginaire. Le narcissisme, c'est la jouissance de cet ego imaginaire(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)



ーー欲望については「欲望のデフレ」を参照。

このボロメオの環自体、三分類だけじゃなく、環が重なった箇所が肝腎で、享楽観点から言えば、二次ナルシシズムと原ナルシシズムの重なり目が最も重要。

ラカン語彙で示せば次のような形になる。


愛の三相


さらにここで難解なのは、自体性愛(=自己身体の享楽)とは実際は自分の身体への愛ではなく、喪われた自己身体への愛だということ、

自体性愛=喪われた対象(去勢された身体)の享楽
われわれは口唇欲動 pulsion oraleの満足と純粋な自体性愛 autoérotisme…を区別しなければならない。自体性愛の対象は実際は、空洞 creux・空虚 videの現前以外の何ものでもない。…そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a [l'objet perdu (a)) ]の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964, 摘要)
ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、自己身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)
享楽は去勢である la jouissance est la castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
私は常に、一義的な仕方façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)
原去勢=喪われた母の身体
乳児にいちばん強烈な印象を与えるものは、興奮源泉 Erregungsquellen のうちのある種のものは ーーそれが自己身体器官seine Körperorganeに他ならないということが分かるのはもっとあとのことであるーーいつでも自分に感覚 Empfindungen を供給してくれるのに、ほかのものーーその中でも自分がいちばん欲しい母の乳房 Mutterbrust――はときおり自分を離れてしまい、助けを求めて泣き叫ばなければ自分のところにやってこないという事実であるに違いない。ここにはじめて、自我にたいして 「対象 Objekt」が、自我の「そと außerhalb」にあり、自我のほうで特別の行動を取らなければ現われてこないものとして登場する。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自己身体の一部分Körperteils の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)

リビドーの控除=享楽の控除=去勢
リビドー libido は、…人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


ラカン自身は、後年になればなるほど、原ナルシシズム概念よりも原マゾヒズム概念を好んだけれど、「去勢された対象=喪われた身体」を取り戻す欲動という相においては、この二つは同じ内実を持っている。



喪われた子宮内生活
症状の発生の重要な要因としての生物学的要因は、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間の子宮内生活 Die Intrauterinexistenz des Menschen は、たいていの動物にくらべて短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界realen Außenwelt の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

喪われた母胎
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…
享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…
大他者の享楽? 確かに!  [« jouissance de l'Autre » ? Certes !   ]

享楽の対象としてのフロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
モノは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン, S7, 16 Décembre 1959)
例えば胎盤 placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondを徴示すする。(ラカン, S11, 20 Mai 1964)

享楽回帰=母胎回帰
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)



で、要するにあらゆる欲動は、実質的に死の欲動。

死の欲動=以前の状態を回復しようとする欲動
すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)



ヒトは通常、この「エスの力」、あるいは「エスの意志」ーー享楽の意志 volonté de jouissance ーーに対して防衛して人生を送っているのだけれど、防御壁ーーフロイトは「ダム」と言っている、幼児期の古く脆いダムに対する「新しいダム neuen Dämme 」(1937)ーーが弱い人がいたり、そうでなくてもエスの意志に従う場合がある。

自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)