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2020年10月17日土曜日

愛の死刑執行人

 

愛は拷問、愛は死刑執行人

愛は拷問または外科手術にとても似ているということを私の覚書のなかに既に私は書いたと思う。だがこの考えは、最も過酷な形で展開しうる。たとえ恋人ふたり同士が非常に夢中になって、相互に求め合う気持ちで一杯だとしても、ふたりのうちの一方が、いつも他方より冷静で夢中になり方が少ないであろう。この比較的醒めている男ないし女が、執刀医あるいは死刑執行人である。もう一方の相手が患者あるいは犠牲者である。

Je crois que j'ai déjà écrit dans mes notes que l'amour ressemblait fort à une torture ou à une opération chirurgicale. Mais cette idée peut être développée de la manière la plus amère. Quand même les deux amants seraient très-épris et très-pleins de désirs réciproques, l'un des deux sera toujours plus calme ou moins possédé que l'autre. Celui-là, ou celle-là, c'est l'opérateur ou le bourreau ; l’autre, c'est le sujet, la victime. (ボードレール「火箭 Fusées」)


…………

還暦すぎの齢になっていまさら強い奇異の感をもつというのは人生経験の乏しさを白状するようなものだが、結局ニーチェの言っているようなことなのだろう。

結局誰にせよ、何事からも、従って書物からも、自分がすでに知っている以上のものを聞き出すことはできない。体験に基づいて接近していないものに対しては、人は聞く耳をもたない。Zuletzt kann Niemand aus den Dingen, die Bücher eingerechnet, mehr heraushören, als er bereits weiss. Wofür man vom Erlebnisse her keinen Zugang hat, dafür hat man kein Ohr. 


ひとつの極端な場合を考えてみよう。ある書物が、人がたびたび経験することができないばかりか、ほんの稀にも経験できないような体験ばかりを語っているとするーーつまり、その書物が、一連の新しい経験を言い表わす最初の言葉であるとする。


この場合には、全く何も耳にきこえない。そして何もきこえないところには何も存在しない、という聴覚上の錯覚が起こるのである。 In diesem Falle wird einfach Nichts gehört, mit der akustischen Täuschung, dass wo Nichts gehört wird, auch Nichts da ist – .(ニーチェ『この人を見よ』)



世界には愛は拷問であることを体験した人間とそうでない人間がいるのだ。そして後者は、例えば「愛は拷問」のことが書かれている小説を呼んでも「聞く耳をもたない」。同じ小説の導入に多くの場合書かれている「愛は夢想」のほうばかりを珍重する傾向がある。作品の核心を外して甘ったるいミルク化するのである。


この語(愛 Liebe )がこれほど頻繁にくりかえされてしかるべきものとは思えなかった。それどころか、この二音綴は、まことにいとわしきものと思えるのだった。水っぽいミルクとでもいうか、青味を帯びた白色の、なにやら甘ったるいしろもののイメージに結びついていた 。(トーマス・マン『魔の山』1924年)



さらにヴェイユ的にいえば愛の夢想家はまったく大地に足がついていない、となるがこれはいくらかコクかもしれない・・・


悪の根は夢想である。夢想はたんなる慰安であり、たんなる数多の不幸である。la racine du mal, c'est la rêverie. Elle est l'unique consolation, l'unique richesse des malheureux(シモーヌ・ヴェイユ「 空虚への注意attention à vide」)


どんな形態をとっていようと例外なく、夢想は虚偽である。夢想は愛を排除する。sous toutes ses formes sans exception elle est le mensonge. Elle exclut l'amour.  (ヴェイユ書簡ブスケ宛 Simone Weil dans une lettre à Joë Bousquet)


(ラカン的にいえば人はそれぞれの仕方でセクシャリティの妄想をしているのであり、この意味では人はみなーー死ぬまで、少なくとも性愛のレベルにおいてはーー偽の大地に足をつけているだけだとなる)。



プルーストは愛は拷問、愛の死刑執行人を最も痛切に書いた小説家の代表である。だが愛をめぐる「優れた」小説でそうでないものがあるのだろうか。私は小説の寡読者なので不詳だが、日本でいえば「愛は拷問」の作家として真っ先に安吾を思い起こす。


これは男と女の愛の形の相違というレベルの話で片付けられる話ではないように思う。ここではラカン派の「男の愛のフェティッシュ形式 la forme fétichiste」 /女の愛の被愛妄想形式 la forme érotomaniaque」やら「愛は嘘」やらの話を「かりに」外していえば真に人を愛したことがあるか否かの話であるとさえ言いたい。


若きベケットは次のように書いている。


たしかに文学全体を見渡しても、孤独と、ひとびとが愛と呼んでいる責め合いとのあの砂漠、それをあのように悪魔的な悪練さをもって持ち出し展開させた研究はない。プルーストを読んだあとでは、『アドルフ』も、せっかちな滴り、唾液分泌過度の疑似叙事詩、涙を流すカンプルメール夫人〔・・・〕に過ぎない。(ベケット『プルースト』)



プルーストの小説の「スワンの恋」から引いておこう。話者によるジルベルトやアルベルチーヌへの恋なども構造としては完全に同様である。



愛は毒の果実、愛は拷問

彼は思いだした、月のあかるかったあの夜ごと、ラ・ぺルーズ通に彼を乗せてゆくヴィクトリアのなかにぐったりからだを横たえ、恋する男のさまざまな感動を官能的に心のなかで育てながら、そうした感動がかならずむすぶであろう毒の果実を知らなかったことを。しかし、こうした思考はすべて一秒ほどのわずかなあいだしかつづかなかった、それは彼が手を胸にあて、ほっと一息つき、拷問の苦しみを顔からかくそうとほほえんだほんのわずかなあいだであった。

Il se rappela ces soirs de clair de lune, où allongé dans sa victoria qui le menait rue La Pérouse, il cultivait voluptueusement en lui les émotions de l'homme amoureux, sans savoir le fruit empoisonné qu'elles produiraient nécessairement. Mais toutes ces pensées ne durèrent que l'espace d'une seconde, le temps qu'il portât la main à son cœur, reprit sa respiration et parvînt à sourire pour dissimuler sa torture. (プルースト「スワン家のほうへ」第2部「スワンの恋」井上究一郎訳、p476)


愛の死刑執行人

あるとき彼女は、フォルシュヴィルがパリ= ムルシア祭の日に、彼女を訪ねたことをスワンに話した。「なんだって、もうそのときから知りあいだったのかい? ああ!そうだったね」と彼は、知らなかったというようすを見せまいとして、気をとりなおしながらいった。そしてにわかにふるえだした、というのは、あんなにたいせつにしまっておいた彼女の手紙、あれを受けとったあのパリ=ムルシア祭の日に、どうやら彼女はメーゾン・ドールで、フォルシュヴィルと昼食をしていたらしいと考えたからだ。彼女は誓ってそんなことはないといった。

彼は、「ところがメーゾン・ドールといえば、何かのことで、ほんとうではないとぼくにわかっていることをきかされた記憶があるんだがね」と虚を突くつもりで彼女にいった。「そうよ、あなたがプレヴォーに私をさがしにきた晩に、私はいまメーゾン・ドールから出てきたところだとあなたにいったけれど、あの晩私はあそこには行っていなかったということだわ」と彼女は(彼の態度から見て、知っているのだと思って)決心して答えたが、その決心にはふてぶてしさよりはむしろはるかに多くの臆病さと、スワンの気をわるくしないかと思ってなんとか意地を張ってかくそうとしていた心配と、いざとなればかくしだてをしないでざっくばらんなところを見せたいという希望とがふくまれていた。それで彼女は死刑執行人bourreauのようにあざやかにまた勢よく切りつけたのだが、そこには残酷さがなかった、というのは、オデットはスワンを痛めつけていることに気づいてはいなかったから、そのうえ、彼女は笑いだしさえした、なるほどそれは、おそらく彼女が何よりも、はずかしいようす、こまったようすを見せたくなかったためであっただろう。(プルースト「スワン家のほうへ」第2部「スワンの恋」井上究一郎訳、p484 )



プルーストの小説は、かなりの部分がこういった話なので、愛は拷問を体験したことのない人には面白くないということがありうる。


「自分はすこしもうらまれてはいないだろう、とあなたが思っていたら、大まちがいだよ、オデット」と、彼は本心をかくして説得しようとするときのやさしさで彼女にいった。「ぼくは自分で知っていることしかあなたに話さないし、それに、口に出していうことよりもはるかにくわしいことをいつでもつかんでいるんだ。しかしぼくがあなたをにくいと思うことも、それが他人の口からぼくにつたえられた場合にかぎられているので、あなたさえうちあけてくれたら、あとは気持がおさまるのだ。ぼくがあなたに腹を立てるのは、あなたの行動のためではない、ぼくはあなたを愛しているのだから、すべてをあなたにゆるす、しかし、ぼくが腹を立てるのは、あなたの不誠実、ぼくの知っていることをどこまでも否定してゆこうとするあなたのばかげた不誠実のためなのだ。とにかくぼくにうそだとわかっていることをあなたが言いはったり誓ったりするのを見ていて、どうしてぼくにあなたを愛しつづけてゆけると思う? 

ねえ、オデット、二人にとって拷問の苦しみであるようなこんな時間を長びかさないでくれ[Odette, ne prolonge pas cet instant qui est une torture pour nous deux]。あなたがその気になれば、こんなことはすぐにかたがつくのだし、あなたは永久に解放されるんだ。さあ、あなたのメダルにかけて、いってくれ、そうであったのか、そうでなかったのか、あんなことをあなたがやったのかどうか?」

「私は何も知らないんだったら、私は」と彼女は腹を立てて言いはなった、「もしかすると、ずいぶんまえに自分が何をやっているかも知らずに、二度か三度、やったかもしれないけれど。」(プルースト「スワン家のほうへ」第2部「スワンの恋」p474)



幸福はといえば、それはほとんど一回きりの有効性しかもたない、それは不幸を起こしうるという有効性である。幸福のなかで、われわれがむすぶ信頼と愛着の粋は、よほど甘美な、よほど強いものであるにちがいない、だから、その絆が切れると、われわれは不幸と呼ばれるあのように貴重な痛恨に見舞われるのである。たとえ空だのみにすぎなかったにしても、人が幸福でなかったとしたら、不幸には残酷さがなく、したがって不幸は実をむすぶことがないだろう。(プルースト「見出された時」p386)



さてかりにボードレールやプルースト を受け入れて「愛は拷問」が一般的真理に近いものだとすればどうしたらよいのか。プルーストは友情を嫌ったが、ニーチェ的には愛を友情に昇華することが拷問から免れる唯一の形である ➡︎「すべて愛と呼ばれるもの」。


男女の心的関係だけに限っていえば、うまくいっているカップルは、おおむね友情関係になっているはずである。


最も単純に図式化すれば、愛の関係は二項関係、友情関係は三項関係である。





とはいえここに身体的-性的問題が介入すれば、友情関係は容易にこわれる。


なお誤解のないように付け加えておけば、ボードレールプルーストのいう「愛は拷問」は、穏やかにいえば次の二者関係である。



三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性contextualityである。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」『徴候・記憶・外傷』所収)