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2021年3月21日日曜日

女はどうしたってコケコッコー

 

平四郎は凡そ美人というものが嫌いなのは、すぐそれを見る男の根性を卑しいと見る美人の倣慢さが、反射してくることだ、彼女にもそれがたくさんあって、平四郎はつい早くは挨拶してわかれた。〔・・・〕


ただそんな平四郎の注意力が、りさ子にとうに解っているらしく、ちょっと平四郎の方を見ていても、直ぐに外してしまい、瞳はすばやく逃げて、杏子と平之介の話にまぎれこんでいた、そのたくまない巧さは、自分の美しいことを知っていて、平四郎がその美しいことに気づいていることを、さとっているものらしい。(室生犀星『杏っ子』1957年)


とてもよくわかるけど、これはちょっと判断にむずかしいところだな。このアマ!と内心思うにしろそれで嫌いになることはないね、ボクの場合は。犀星も実際のところはそうじゃなかっただろうか。


というよりむしろこう言ったほうがいいかもしれない。


人は嫌いというところがなければ、好きになりません。この女とだけは寝たくない、という場合に限って、むずかしい関係になるものです。(古井由吉『人生の色気』)



何はともあれコチコチ女よりはずっといいよ。


隣のテーブルにいる女の匂[l'odeur de la femme qui était à la table voisine]…それらの顔は、私にとって、節操のかたいこちこちの女だとわかっているような女の顔よりもばるかに好ましいのであって、後者に見るような、平板で深みのない、うすっぺらな一枚張のようなしろものとは比較にならないように思われた[leur visage était pour moi bien plus que celui des femmes que j'aurais su vertueuses et ne me semblait pas comme le leur, plat, sans dessous, composé d'une pièce unique et sans épaisseur]。


むろん、私の揚合は、サン = ルーの揚合のようではなかったにちがいない、サン=ルーはといえば、彼を知らないふうを装っている女たちの無表情な冷淡な顔つきのかげにも、彼は相手を見透かし、他の人に向けられたかと思われる女たちの月並な挨拶を通しても、彼は自分の記憶に訴えて、寝みだれた髪のあいだにうっとりとしてあけられたロ、なかばとじられた目entre des cheveux défaits, une bouche pâmée et des yeux mi-clos, tout un tableau silencieux comme ceux que les peintres]を思いだすのであって、いま彼が目にしているのは、画家が多くのアトリエ訪問者の目をごまかすために目立たない布の被いをかけておく油絵のように、いわばものをいわない一画面なのであった。


なるほど、私のように、これまでそうした女たちのどんな女のなかにも親しくはいりこめず、またこれからも、彼女らのたどろうとしている未知の生活のどの道にも連れこまれることがないだろうと感じる者にとっては、サン= ルーとちがって、それらの顔は、ひらかれない扉であった[ces visages restaient fermés]。しかし、それらの顔が、ある価値をもったものに見えてくるためには、それらの扉がやがてひられるであろうことを知るだけで十分なのであって[ c'était déjà assez de savoir qu'ils s'ouvraient] 、もしもそれらの顔が、愛の思出を金のふたにおさめたあのロケットではなくて、単なる美しいメダルにすぎなかったならば [s'ils n'avaient été que de belles médailles, au lieu de médaillons sous lesquels se cachaient des souvenirs d'amour]、私はそれらに価値を見出すことはなかっであろう。 (プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)



そもそも女ってのは美人であろうとなかろうと

ほとんどがコケコッコーじゃないかね。



coquet という語がある。この語は coq から来ていて、一羽の雄鶏が数羽の牝鶏に取巻かれていることを条件として展開する光景に関するものである。すなわち「媚態的」を意味する。(九鬼周造『いきの構造』)

媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。(九鬼周造『いきの構造』)



何年か前、The Co(te)lette という映像作品を見て感心したことがあるが、女は意図の有無に関係なしにどうせコケットリーの存在なのだから、コケコッコーに居直ったらどう? というメッセージがあるんじゃないか。





そのご婦人は六十歳か、六十五歳くらいだったろう。ひろびろしたガラス窓を通して、パリがすっかり見えるモダンな建物の最上階にあるスポーツ・クラブのプールを前にして、長椅子に寝そべりながら、私は彼女をみつめていた。〔・・・〕


誰かに話しかけられて私の注意はそらされてしまった。そのあとすぐ、また彼女を観察したいと思ったとき、レッスンは終っていた。彼女は水着のままプール沿いに立ちさってゆくところで、水泳の先生の位置を四メートルか五メートルほど通りこすと、先生のほうをふりかえり、微笑し、手で合図した。私は胸がしめつけられた。その微笑、その仕草ははたちの女性のものだった! 彼女の手は魅惑的な軽やかさでひるがえったのだ。戯れに、色とりどりに塗りわけた風船を恋人めがけて投げたかのようだった。その微笑と仕草は魅力にみちていたが、それにたいして顔と身体にはもうそんなに魅力はなかった。それは身体の非=魅力のなかに埋もれていた魅力だった。もっとも、自分がもう美しくないと知っているにちがいなかったとしても、彼女はその瞬間にはそれを忘れていた。われわれは誰しもすべて、われわれ自身のなかのある部分によって、時間を越えて生きている。たぶんわれわれはある例外的な瞬間にしか自分の年齢を意識していないし、たいていの時間は無年齢者でいるのだ。いずれにしろ、水泳の先生のほうをふりかえり、微笑し、手を仕草をした瞬間(先生はもうこらえきらなくなり、吹きだしてしまった)、自分の年齢のことなど彼女はなにも知らなかった。その仕草のおかげで、ほんの一瞬のあいだ、時間に左右されたりするものではない彼女の魅力の本質がはっきり現われて、私を眩惑した。私は異様なほど感動した。(クンデラ『不滅』)