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2021年5月12日水曜日

離乳マゾヒズム

 前回に引き続きマゾヒズム をめぐる。


小児が母の乳房を吸うことがすべての愛の関係の原型であるのは十分な理由がある。対象の発見とは実際は、再発見である。Nicht ohne guten Grund ist das Saugen des Kindes an der Brust der Mutter vorbildlich für jede Liebesbeziehung geworden. Die Objektfindung ist eigentlich eine Wiederfindung (フロイト『性理論』第3篇「Die Objektfindung」1905年)

私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である。In my view[…]the introjection of the breast is the beginning of superego formation[…]The core of the superego is thus the mother's breast, (メラニー・クライン Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951年)


超自我とは事実上、固着である。➡︎超自我=原抑圧=固着=サントーム=S(Ⱥ)


そして《超自我はマゾヒズムの原因である。le surmoi est la cause du masochisme,》(Lacan, S10, 16  janvier  1963)であるなら、ラカンは前回見たようにメラニー・クラインの原超自我を受け入れているゆえに、「母の乳房はマゾヒズムの原因」とすることができる。


母の乳房の、いわゆる原イマーゴの周りに最初の固着が形成される。sur l'imago dite primordiale du sein maternel, par rapport à quoi vont se former […] ses premières fixations, (Lacan, S4, 12 Décembre 1956)

疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体とのあいだの区別をしていない[Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden]。


乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給の部分と見なす。[wenn sie vom Körper abgetrennt, nach „aussen" verlegt werden muss, weil sie so häufig vom Kind vermisst wird, nimmt sie als „Objekt" einen Teil der ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung mit sich.](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、1939年)


ーー原ナルシシズム=原マゾヒズム=母への固着(自己身体への固着)については、前回の記事の引用群を十全に参照のこと。上にあるように自己身体といっても事実上、母の身体である。

かつまた原ナルシシズム的リビドー備給[ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung]とは原マゾヒズム的リビドー 備給と言い換えうる。この前提で比較的早い時期のラカンの次の文を読んでみよう。


自殺性向とイマージュの関係は、本質的にナルシスの神話に表現されている[le rapport de l'image à la tendance suicide que le mythe de Narcisse exprime essentiellement.。この自殺性向は、私の見解では、フロイトがそのメタ心理学において、「死の本能」と「原マゾヒズム 」の名の下に[le nom d'instinct de mort ou encore de masochisme primordial]、探し求めようとしたものである。〔・・・〕これは、私の見解では次の事実に準拠している、すなわちフロイトの思考における最初期の悲惨な段階[la phase de misère originelle]、つまり出産トラウマ[traumatisme de la naissance]から、離乳トラウマ[traumatisme du sevrage]までである。 (Lacan, Propos sur la causalité psychique , Ecrits 187, 1946、摘要訳)


ジャック=アラン・ミレールの次の文はこのラカンの注釈である。


死への傾斜[tendance à la mort]。私はそれをラカンが「離乳 sevrage」を語ったときに位置付ける。死と母とのあいだの結びつき。死の幻想のすべては、自殺への性向[pente au suicide]である。これは母への傾注[le versant de la mère]に位置付けられる。母のイマーゴ[l'imago de la mère ]がこの理由を提供する。どういう意味か? 母は、原喪失・乳房の喪失の場を位置を占める[la mère préside à la perte primitive, celle du sein]。主体は、(後年の生で)享楽の喪失が起こった時には常に、異なる強度にて、母なるイマーゴを喚起する[L'imago maternelle est rappelée au sujet, avec une intensité variable, chaque fois qu'une perte de jouissance intervient.]。(J.-A. Miller, DES REPONSES DU REEL, 14 mars 1984)


上のラカンとミレールは次のフロイトとともに読むことができる。


去勢は、身体から分離される糞便や離乳における母の乳房の喪失という日常的経験を基礎にして描写しうる。Die Kastration wird sozusagen vorstellbar durch die tägliche Erfahrung der Trennung vom Darminhalt und durch den bei der Entwöhnung erlebten Verlust der mütterlichen Brust〔・・・〕


死の不安は、去勢不安の類似物として理解されるべきである。自我が反応するその状況は、保護的超自我ーー運命の力ーーに見捨てられること[das Verlassensein vom schützenden Über-Ich – den Schicksalsmächten]であり、危険に対するすべての保障が消滅してしまうことである。


die Todesangst als Analogon der Kastrationsangst aufzufassen ist und daß die Situation, auf welche das Ich reagiert, das Verlassensein vom schützenden Über-Ich – den Schicksalsmächten – ist, womit die Sicherung gegen alle Gefahren ein Ende hat. (フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)


そして去勢は固着に関わる(参照)。


◼️享楽=去勢=固着

享楽は去勢である [la jouissance est la castration](Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

享楽はまさに固着にある。人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)


たとえばフロイト《異物としての症状 Symptom als einen Fremdkörper》、この《症状の異郷性と孤立性[die Fremdheit und Isolierung des Symptoms]》(『制止、症状、不安』第3章、1926年)と書くとき、この孤立性[Isolierung]は解離[Dissoziation]されたゆえの孤立であり、この解離[Dissoziation」は排除[Verwerfung]と同じ意味を持っている(中井久夫の明言参照)。これが原抑圧=固着=排除=去勢である。


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年、摘要)

原抑圧は常に去勢に関わる。だが抑圧の様式とは別の様式に従った去勢であり、つまり排除である。refoulement originaire[…]ce qui concerne toujours la castration. mais selon un autre mode que celui du refoulement, à savoir la forclusion. (JACQUES-ALAIN MILLER , CE QUI FAIT INSIGNE COURS DU 3 JUIN 1987)



事実上、この異者(異物)ーーフロイトはこの異者をモノ[das Ding]とも呼んだーーがフロイトラカンの理論的核心である。



ーーここでの用語群は基本的にはすべて同じ意味を持っているか、少なくともすべて関連性がある参照)。

そして異者は究極的には女性器(母胎)でありうる。


ひとりの女は異者である。 une femme, […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)


この異者=女性器(母胎)は、男にとっても女にとっても究極の享楽の対象(喪われた対象)であり、原去勢された対象である。



………………


ここまでは母の乳房への固着をめぐってきたが、いま上に示唆したように、その先には別の固着がありうる。


口唇的離乳と出産の離乳(分離)とのあいだには類似性がある。il у а analogie entre le sevrage oral  et le sevrage de la naissance (Lacan, S10, 15 Mai, 1963)

乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration]、つまり、自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils] と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)


出生の器官としての女性器の機能への不快な固着は、究極的には成人の性的生のすべての神経症的障害の底に横たわっている。Die unlustvolle Fixierung an diese Funktion des weiblichen Genitales als Gebärorgan, liegt letzten Endes noch allen neurotischen Störungen des erwachsenen Sexuallebens zugrunde(オットー・ランク『出産外傷』Otto Rank "Das Trauma der Geburt" 1924年)


ーー《出産外傷[Das Trauma der Geburt]  =母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]=原抑圧[Urverdrängung]=原トラウマ[Urtrauma]》フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)


母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への隷属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)



去勢=トラウマであることに注意しながら次の三文を読もう。


不安は対象を喪った反応として現れる。…最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる。Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, […] daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand. (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]。(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)

結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない。Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz; (フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)



…………………



以上、主に離乳トラウマをめぐって記したので、三島由紀夫のあまりにも典型的な事例を思い出しておこう。



生れて四十九日目に祖母は母の手から私を奪いとった。しじゅう閉て切った・病気と老いの匂いにむせかえる祖母の病室で、その病床に床を並べて私は育てられた。(三島由紀夫『仮面の告白』)


三島の初期の母子関係は異様なものであった。多くの人がその異様さの一端として引用するが,『伜』 によれば,三島の授乳は4時間おきで,祖母・夏子によって管理されており,授乳時間も10分か15分と決まっていたという(安藤,1998)。また,早くから母親と引き離され,ヒステリー持ちの祖母のカビ臭い部屋に置かれ,祖母の世話役的な育てられ方をした。近所の男の子との遊びも悪戲を覚えてはいけないとの理由で禁止され,女の子として育てられた。祖母の名を差し置いて最初に母の名を呼ぶことが祖母のヒステリーを誘発することを恐れた幼い三島は,いつも祖母の名を先に呼ぶよう気を遣っていた(平岡, 1990)。


こうした陰鬱な時間は,三島が16歳で書いた処女作『花盛りの森(1944)』の中に,「祖母は神経痛をやみ,痙攣を始終起こした。(中略)痙攣が,まる一日,ばあいによっては幾夜さもつづくと,もっ と顕著なきざしが表れてきた。それは『病気』がわがものがおに家じゅうにはびこることである」と,幼い感受性でとらえた異常さと緊張が描写されている。ここには,①母性の早期の剥奪,②性の同一性の混乱,③依存を体験する前に大人に対する気遣いや世話を身につけてしまったことなど,世代の錯綜の問題などがすでに孕まれており,三島自身が初期に拘るようになるに十分な人生のスタートであった。(井原成男「ロールシャッハ・テストプロトコルからみた 三島由紀夫の母子関係と同性愛」2015)


幼児の最初期の出来事は、後の全人生において比較を絶した重要性を持つ。 die Erlebnisse seiner ersten Jahre seien von unübertroffener Bedeutung für sein ganzes späteres Leben,(フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)



…………………


※付記


マゾヒズム用語が意味するのは、何よりもまず死の欲動に苛まれる主体である。リビドー はそれ自体、死の欲動である。したがってリビドーの主体は、死の欲動に苦しみ苛まれる。Le terme de masochisme veut dire que c'est d'abord le sujet qui pâtit de la pulsion de mort. La libido est comme telle pulsion de mort, et le sujet de la libido est donc celui qui en pâtit, qui en souffre. (J.-A. Miller,  LES DIVINS DÉTAILS, 3 mai 1989)

享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する。この観点において、おそらく超自我の真の価値は欲動の主体である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion. A cet égard, peut-être que la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)

死の欲動は超自我の欲動である。la pulsion de mort [...], c'est la pulsion du surmoi  (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)




と引用して思い出したがーーここでに話題とダイレクトには関係がないが(?)思い出しついでに掲げれば、ーーミレールはこうも言っている。


◼️超自我=主体$=斜線を引かれた享楽=去勢

超自我は斜線を引かれた主体と書きうる le surmoi peut s'écrire $ (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)

私は、斜線を引かれた享楽を主体と等価とする。[le « J » majuscule du mot « Jouissance », le prélever pour l'inscrire et le barrer …- équivalente à celle du sujet :(- J) ≡ $ ] (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008)

私は、斜線を引かれた主体を去勢と等価だと記す。$ ≡ (-φ)  [j'écris S barré équivalent à moins phi :  $ ≡ (-φ) ] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XV, 8/avril/2009)



少し前示したが、去勢とは穴(トラウマ)のことでもある。




おそらくラカンの次の二文を念頭に置きつつ(それだけではないだろうが)、ミレールは上のように言っているのではないか。


私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。リアルであり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある。Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : (Lacan, S13, 09 Février 1966)

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。この穴としての対象aは、主体との関係において我々に問いを呼び起こす。C'est justement en ceci que l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel, qui est mis en question pour nous dans sa relation au sujet. (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)



とすれば、マゾヒストはラカンの主体$のことではないだろうか。少なくともこの記事の冒頭からの引用群を混ぜ合わせればそうなりうる・・・人はみなマゾヒストである!?


みなさん、猫をかぶっていてはダメです、「アタシはマゾヒストじゃないわ」なんて。


ラカンは強調した、疑いもなく享楽は主体の起源に位置付けられると。Lacan souligne que la jouissance est sans doute ce qui se place à l'origine du sujet(J.-A. Miller, Une lecture du Séminaire D'un Autre à l'autre, 2007)

享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである。 la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert (Lacan, S23, 10 Février 1976)



根のところでは人はみなマゾヒストではないかと疑わねばなりません、もちろん強度の差はあるでしょうが。蚊居肢子が最近知った至高のマゾヒストのひとりは・・・自殺された方なのであまり軽はずみに言及したくはありませんが・・・あまりにも美しい言葉を残されています。





(少なくともある時期までの)フロイトが気づいていなかったことは、最も避けられることはまた、最も欲望されるということである。不安の彼岸には、受動的ポジションへの欲望がある。他の人物、他のモノに服従したい欲望である。そのなかに消滅したい欲望・・・(ポール・バーハウPaul Verhaeghe 、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE 、1998)

マゾヒズム的とは、その根において女性的受動的である。masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.(フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)

他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的である[que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste.] (ラカン, S10, 16 janvier 1963))



マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。・・・そしてマゾヒズムはサディズムより古い。Masochismus […] für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. […] daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, 〔・・・〕


我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)