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2021年5月14日金曜日

右翼は至高の女

 


こういったのを単純に示すと、いやそうではないという人がウジャウジャ出てくるのだろうが、とはいえ最も基本的な「左翼の定義」「右翼の定義」はドゥルーズ の次のものでいいんじゃないか。


左翼であることは、先ず世界を、そして自分の国を、家族を、最後に自分自身を考えることだ。右翼であることは、その反対である。Être de gauche c’est d’abord penser le monde, puis son pays, puis ses proches, puis soi ; être de droite c’est l’inverse(ドゥルーズ『アベセデール』1995年)


で、もちろんホンネのところでは、人はみな最初に自分自身のことを考えている。柄谷曰く《人権なんて言っている連中は偽善に決まっている》。したがって左翼は偽善者だ。


柄谷行人)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。


むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。


浅田彰)善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思います。〔・・・〕


日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』1994年)


浅田は「ホンネとタテマエ」と言っているが、要するに我々は偽善者でなくてどうするんだい、ということだ。だが少なくも現在の日本人は左翼と自ら思い込んでいる連中も含めみんな右翼だろうよ。


これまた古い話で申し訳ないが、蓮實は柄谷との対談でこう言っている。


蓮實重彦)エリート教育をやったほうが、左翼は強くなるんですよ。エリートのなかに絶対に左翼に行くやつが出るわけですよね。〔・・・〕


ところがいまは、エリート教育をやらないで、マス教育をやって、何が起こるかというと、体制順応というほうに皆行っちゃうけどね。(柄谷蓮實対談集『闘争のエチカ』1988年)


自民党を叩けば左翼だと思い込んでいる連中がいるが、反体制とはそんなものじゃない。現在の支配的イデオロギーとは、まがいようもなく世界資本主義だ。これを叩かずに左翼なんてあったもんじゃない。ジジェク が2019年に《私は左翼を信用していない[I don't trust leftists ]》と言っているのは、現在の左翼は右翼と変わらないという意味だ。


少し前に戻って、柄谷が挙げている漱石の「偽善と露悪」はよく読んでみるといくらか微妙なところがあり単純ではないが、ここではシンプルに捉えられる箇所のみを抽出しておく。


近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。〔・・・〕


昔は殿様と親父だけが露悪家ですんでいたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でもなんでもない。臭いものの蓋をとれば肥桶で、見事な形式をはぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。形式だけ見事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜爛漫としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えばさしつかえない。(夏目漱石『三四郎』)



「昔は殿様と親父だけが露悪家ですんでいた」、そしてその他は偽善者だったとあるが、20世紀後半の歴史は、殿様と親父が蒸発した歴史だ。1968年の学園紛争により家父長制の崩壊、1989年には最後の父ーーマルクスという父ーーが決定的に死んだ。で、タテマエがなくなり、新自由主義というホンネの世界になった。


これをラカン派ではファルスというタテマエから女というホンネへの移行という。


原理の女性化がある。両性にとって女がいる。過去は両性にとってファルスがあった。il y a féminisation de la doctrine [et que] pour les deux sexes il y a la femme comme autrefois il y avait le phallus.(エリック・ロラン Éric Laurent, séminaire du 20 janvier 2015)


ジジェクで補おう。


標準的な読み方によれば、女はファルスを差し引いた男である。すなわち、女は完全には人間でない。彼女は、完全な人間としての男と比較して、何か(ファルス)が欠けている。[she lacks something (Phallus) with regard to man as a complete human being]


だが異なった読み方によれば、不在は現前に先立つ。すなわち、男はファルスを持った女である[man is woman with phallus]。そのファルスとは、先立ってある耐え難い空虚を穴埋めする詐欺、囮である。ジャック=アラン・ミレールは、女性の主体性と空虚の概念とのあいだにある独特の関係性に注意を促している。


《 我々は、無と本質的な関係性をもつ主体を女たちと呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」と関係をもつあり方は、(男に比べ)より本質的でより接近している。nous appelons femmes ces sujets qui ont une relation essentielle avec le rien. J'utilise cette expression avec prudence, car tout sujet, tel que le définit Lacan, a une relation avec le rien, mais, d'une certaine façon, ces sujets que sont les femmes ont une relation avec le rien plus essentielle, plus proche.》 (J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)


ここから次のようにどうして言えないわけがあろう。すなわち究極的には、主体性自体(厳密なラカン的意味での $ 、すなわち「斜線を引かれた主体」の空虚)が女性性である、と。[subjectivity as such (in the precise Lacanian sense of $, of the void of the "barred subject") is feminine](ジジェク『『為すところを知らざればなり』第二版序文、2008年)


ラカン的に純粋に形式的観点から言えば、男は主体性=女という穴を穴埋めするファルスという偽善者なんだ、ーー《男は男であることが何であるかを信じている[Tandis que les hommes savent, croient savoir ce que c'est qu'être un homme]。そしてこの知は唯一、「詐欺師の審級 le registre de l'imposture」において得られる。》(J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, Cours du 26 novembre 2008) 



現実界のなかの穴は主体である。Un trou dans le réel, voilà le sujet. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)

父の名という穴埋め bouchon qu'est un Nom du Père  (Lacan, S17, 18 Mars 1970)


ーー父の名とは穴をファルス化する機能だ。

だが現在はタテマエとしてのファルスの詐欺師が事実上消え、ホンネとしての女が露出している。これが男の女化だ。世界は全体としてそうなっているとはいえ、浅田曰くの「善をめざすことをやめた情けない姿を共有しあっている」あれらホンネ主義者の典型としての右翼は至高の女だろうよ。


たとえばネトウヨという〈女〉が、フェミニストという〈男〉を叩いているのは、「オマエさんたち、女のくせにエラそうなタテマエいうな、ホンネのオレたちの仲間入りしろ」と言ってるようなもんだ。


フロイトは1925年にすでに言っている、男というタテマエ、女というホンネと翻訳できることを。


私は、明言を躊躇うのではあるが、女にとっての正常な道徳観のレベル[Niveau des sittlich Normalen für das Weib]は、男のものとは異なっていると思わざるをえない。〔・・・〕


女たちの性格特徴に対して、どの時代の批評も、女たちは男に比べ脆弱な正義意識 [weniger Rechtsgefühl] をもつとか、生が持つ大いなる必然に従う心構えが弱い、と非難をしてきた。女たちは愛憎感情[zärtlichen und feindseligen Gefühlen]にはるかに影響されるのである。〔・・・〕


われわれに完全なジェンダー平等と敬意 [völlige Gleichstellung und Gleichschätzung der Geschlechter ]をおしつけようとしているフェミニストたちの反対[Widerspruch der Feministen] にあったからといって、このような判断に迷う者はいないだろう。(フロイト『解剖学的な性の差別の心的帰結の二、三について』1925年)


誰もが認めるだろう、女は男に比べて愛憎関係をいっそう重視する生き物であることを。つまりーー男性側の「正義」を「偽善」に変換してーー、ここで示したことを図示すればこういうことだ。







ところで少子化対策のために女の教育の制限をしろなどというどこかの阿呆ツイートにウンウン頷いているネトウヨが跳梁跋扈しているのを見たが、まずああいった男どもの教育を制限して職業訓練に従事させたらどうだろうね、女の下働きに専念できるようにさ。もともと《父(夫)は専属の下働き、外働き要員》だったらしいぜ。


あれらネトウヨというのは「女というホンネ」が騒いでいるとしか見えないな。お前ら少しは「タテマエとしての男」を復活させたらどうだい?


※ここに記された観点は、より構造的には「アンチオイディプスという不自由」を見られたし。