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2021年4月25日日曜日

アンチオイディプスの不自由

何度も繰り返してんだがな、わかんねえかな、わかんねえんだろうよ。

とはいえドゥルーズは自我理想と超自我を同じものとして扱ってオイディプスとし、その彼岸には自由があるとしたってのはいいかい? これは認めるだろ?



これを「最悪の誤謬」って言ってんだがな。フロイトラカン研究者でイキのいいヤツいないのかね、全ドゥルーズ学者のボケぶりを血祭りにあげる気概をもったヤツは。

確かにフロイトには超自我概念を初めて提出した『自我とエス』(1923年)では、自我理想と超自我の区別が十分にはなされておらず曖昧だよ。でも後年になればなるほどーー明示はしていないながらーー、歴然とした相違が読み取れる(参照)。

で、ラカンは自我理想を象徴界(言語秩序)、超自我を現実界(言語外)の審級にあると区別したんだ。これは欲望/享楽(欲動)の区別だ。




欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960)

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


フロイトは最後にはーー死の枕元にあった遺稿でーーこんな風に書いてんだぜ。固着=原抑圧であり、ミレールはラカンから引き継いだ二年目のセミネールで既に、《超自我と原抑圧の一致がある。il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire. 》 (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)と言い、さらに七年後、《超自我の真の価値は欲動の主体である。la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion.》 (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)と言っている。


こうも引用しとこうか。ミレールはアンチオイディプスを褒めてんだよ、ひとつの例外を除いてね。


パラノイアのセクター化に対し、分裂病の断片化を対立しうる。私は言おう、ドゥルーズ とガタリの書(「アンチオイディプス」)における最も説得力のある部分は、パラノイアの領土化と分裂病の根源的脱領土化を対比させたことだ。ドゥルーズ とガタリがなした唯一の欠陥は、それを文学化し、分裂病的断片化は自由の世界だと想像したことである。

A cette sectorisation paranoïaque, on peut opposer le morcellement schizophrénique. Je dirai que c'est la partie la plus convaincante du livre de Deleuze et Guattari que d'opposer ainsi la territorialisation paranoïaque à la foncière déterritorialisation schizophrénique. Le seul tort qu'ils ont, c'est d'en faire de la littérature et de s'imaginer que le morcellement schizophrénique soit le monde de la liberté.    (J.-A. Miller, LA CLINIQUE LACANIENNE, 28 AVRIL 1982)


ちょっと褒め過ぎじゃないかね、まだ遠慮してんだよ。38歳だからな。

要する自我理想の彼岸には自由などまったくない。超自我の命令という不自由、欲動=享楽の強迫運動しかない。もともと自我理想はこの超自我を飼い馴らす機能をもっている。その自我理想を取り払ってしまえば裸のままの原超自我=母なる超自我が露出してしまうんだ。


「エディプスなき神経症概念」……私はそれを母なる超自我と呼ぶ。…問いがある。父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。


Cette notion de la névrose sans Œdipe,[…] ce qu'on a appellé le surmoi maternel :   […]- on posait la question : est-ce qu'il n'y a pas, derrière le sur-moi paternel, ce surmoi maternel encore plus exigeant, encore plus opprimant, encore plus ravageant, encore plus insistant, dans la névrose, que le surmoi paternel ?    (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

エディプスの失墜において…超自我は言う、「享楽せよ!」と。au déclin de l'Œdipe …ce que dit le surmoi, c'est : « Jouis ! » (ラカン, S18, 16 Juin 1971)


ラカン及び現代ラカン派が使う区分の代表的表現群は次のとおり。



自我理想は父の名、超自我は母の名であり、母の名とは母の享楽、たとえば二者関係的な距離のない狂宴(オルギア)だ(参照)。

もっとも支配の論理に陥りがちな自我理想=父の名が望ましいわけではないよ。だが底部には更なる過酷な母の享楽=母の名が待っているんだ。

晩年のラカンは父の名を迂回しつつも父の名を使用する必要があると言っている。


人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)


これを「父の原理」と呼べばーー柄谷の「帝国の原理」のパクリだけどさーー次の形になる。




「母なるオルギア/父なるレリギオ」は中井久夫のパクリだ。

このたぐいの図は何度も示しているけど、これがラカン派に限らず、ボクに言わせれば現代の「まともな、かつ数少ない」思想家のコンセンサスだね(参照)。





こんなのもあるな、忘れてたけど。






これらは日常的レベルでも言える。かつてのフェミニストのアイコン、のちに「家父長制打倒」スローガンがいつまでたってもお好きらしいフェミニズムから距離を置いたノーベル文学賞作家ドリス・レッシングは自伝でこう書いている。


子供たちは、常にいじめっ子だったし、今後もそれが続くだろう。問題は私たちの子供が悪いということにあるのではそれほどない。問題は大人や教師たちが今ではもはやいじめを取り扱いえないことにある。 (ドリス・レッシング Doris Lessing, Under My Skin: Volume I of my Autobiography, 1994)


父の権威がなくなっちまって不自由になったってことだよ。21世紀になってもこれに気づいていない連中はたんなる阿呆に過ぎない。


権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する。Authority implies an obedience in which men retain their freedom(ハンナ・アーレント『権威とは何か』1954年)



以上。