以下、前回の「夢の臍という聖痕」の補足としてトラウマと反復強迫の基本をめぐる。
私の子ども時代といえば、明治生まれはまだ若くて、元治だとか嘉永だとか万延生まれの人がおられました。この時代、日露戦争の勇士は戦争体験を語らないと言われていました。一般に明治人は寡黙であり、これは明治人の人徳であると思われてしました。けれども、今から考えるとそうではなくて、日露戦争は、最後は白兵線つまり銃剣で戦われたわけです。それはほとんど語りえないものであったのではないだろうかと思うのです。 その一つの傍証を挙げましょう。精神科の大先輩の話ですが、軍医として太平洋戦争に参加している人です。一九七七年にジャワで会った時には、戦争初期のジャワでの暮らしが、いかに牧歌的であったかという話を聞かせてくれました。先生はその後ビルマに行かれたのですが、そちらに話を向けても「あっ、ビルマ。ありゃあ地獄だよ」と言ってそれでおしまいでした。 |
ところが一九九五年の阪神淡路大地震のあとお会いした時には、「実は、今でもイギリスの戦闘機に追いかけられる夢を毎晩見るんだ」ということを言われました。震災について講演に行くと、最前列に座っているのが白髪の精神科の長老たちで、これまであまり側に寄れなかったような人たちですが、講演がすんだら握手を求めに来て「戦争と一緒だねえ」というようなことを言われるわけですね。神戸の震災によって外傷的な体験というものが言葉で語ってもいいという市民権を得たのだなと思いました。それまでずっと黙っておられたのですね。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
何よりもまず、この「実は、今でもイギリスの戦闘機に追いかけられる夢を毎晩見るんだ」がフロイトの死の欲動である。 |
われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年) |
フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさせたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年) |
もっとも死の欲動は、究極的には実際の「死」にかかわるが(参照)。 |
死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel …la mort, dont c'est le fondement de Réel ](Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
この死の欲動がラカンの「現実界の享楽」Jouissance du réel である。 |
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance] (Lacan, S17, 26 Novembre 1969) |
反復強迫に戻ろう。フロイトの次の記述は「外傷神経症」についてだが、主に「外傷性戦争神経症」traumatischen Kriegsneurosenの臨床に基づいたものだと見なしうる。 |
外傷神経症は、外傷的出来事の瞬間への固着がその根に横たわっていることを明瞭に示している。Die traumatischen Neurosen geben deutliche Anzeichen dafür, daß ihnen eine Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles zugrunde liegt.〔・・・〕 これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況を反復する。In ihren Träumen wiederholen diese Kranken regelmäßig die traumatische Situation; また分析の最中にヒステリー形式の発作がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行に導かれる事をわれわれは見出す。wo hysteriforme Anfälle vorkommen, die eine Analyse zulassen, erfährt man, daß der Anfall einer vollen Versetzung in diese Situation entspricht. |
それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…Es ist so, als ob diese Kranken mit der traumatischen Situation nicht fertiggeworden wären, als ob diese noch als unbezwungene aktuelle Aufgabe vor ihnen stände(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte」1917年) |
フロイトは後年、このトラウマへの固着を一般化する。 |
トラウマへの無意識的固着[die unbewußte Fixierung an ein Trauma]は、夢の機能の障害のなかで最初に来るように見える。睡眠者が夢をみるとき、夜のあいだの抑圧の解放は、トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]の圧力上昇を現勢化させ、夢の作業の機能における失敗を引き起こす傾向がある。夢の作業はトラウマ的出来事の記憶痕跡を願望実現へと移行させるものだが。こういった環境において起こるのは、人は眠れないことである。人は、夢の機能の失敗の恐怖から睡眠を諦める。ここでトラウマ的神経症は我々に究極の事例を提供してくれる。だが我々はまた認めなければならない、幼児期の出来事もまたトラウマ的特徴をもっていることを[aber man muß auch den Kindheitserlebnissen den traumatischen Charakter zugestehen ] (フロイト『続精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933 年) |
要するに「幼児期の出来事もまたトラウマ的特徴をもっている」としたのである。 ここでも中井久夫を引用して確認しよう。 |
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
異物 [Fremdkörper] とあるが、この概念はフロイトが最初期から最晩年まで使用したフロイトの核心概念のひとつである。ここでは最初期の異物についての記述をまず掲げよう。 |
トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 [Fremdkörper] のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。〔・・・〕この異物は引き金を引く動因として、たとえば後の時間に目覚めた意識のなかに心的な痛みを呼び起こす。ヒステリー はほとんどの場合、レミニサンスに苦しむのである。 das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß..[…] als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz […] der Hysterische leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年) |
この異物(異者としての身体)自体、(トラウマへの)固着によって発生するものである。 |
原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年、摘要) |
この当時、フロイトはエス概念がまだなかったので「暗闇に異者が蔓延る」としているが、この暗闇とはエスのことであり、固着によってエスのなかに身体的なものが置き残されてそれが反復強迫を起こすという意味である。 次の『制止、症状、不安』の第3章と第10章の二文を同時に読むと異物についてよりよく理解できる。 |
自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである。 das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es [...] in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert. 〔・・・〕 エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異物は内界にある自我の異郷部分である。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
欲動蠢動は「自動反復」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして抑圧において固着する要素は「無意識のエスの反復強迫」であり、これは通常の環境では、自我の自由に動く機能によって排除されていて意識されないだけである。 Triebregung […] vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –[…] Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es, der normalerweise nur durch die frei bewegliche Funktion des Ichs aufgehoben wird. (フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要) |
ーー前々回触れたドゥルーズの強制された運動の機械[machines à movement forcé ]、前回触れた自動機械 [automatisme] とは、この無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es]のことである。ラカンもトラウマの反復にかんして「強制」forçageという語を使っている。 トラウマというのは、フロイトにおいて最も基本的には「自己身体の上への出来事」という意味である(ラカンの「身体の出来事」un événement de corps)。 |
病因的トラウマ、この初期幼児期のトラウマはすべて五歳までに起こる[ätiologische Traumen …Alle diese Traumen gehören der frühen Kindheit bis etwa zu 5 Jahren an]〔・・・〕このトラウマは自己身体の上への出来事 もしくは感覚知覚 である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕 これは、トラウマへの固着[Fixierung an das Trauma]と反復強迫[Wiederholungszwang]の名の下に要約される。それは、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる。Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年) |
「身体の上への出来事=トラウマへの固着=不変の個性刻印」であり、この刻印を通した反復強迫がある。この不変の個性刻印による反復強迫の別名が、フロイトにとっての「永遠回帰」である。 |
同一の体験の反復の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 [Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年) |
これらはフロイトラカン派における最も基本部分であり、ラカン及び現代主流ラカン派もまったく同じ捉え方をしている➡︎「ラカンの現実界:「トラウマの反復強迫」という当たり前の話」
最後に私が好む中井久夫のトラウマの定義を掲げておこう。「喜ばしいトラウマ」もあるというものである。 |
PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」初出1996年『アリアドネからの系』所収) |
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※付記
現代ラカン派における一致したテーゼがある。 |
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症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptôme(コレット・ソレールColette Soler, Les affects lacaniens , 2011) |
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このすべての主体がもつ症状とはトラウマに対する防衛である。 |
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すべての症状形成は、不安を避けるためのものである alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen。(フロイト 『制止、不安、症状』第9章、1926年) |
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経験された寄る辺なき状況をトラウマ的状況と呼ぶ。Heißen wir eine solche erlebte Situation von Hilflosigkeit eine traumatische; (フロイト『制止、症状、不安』第11章B) |
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不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]。(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) |
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ラカンの現実界とは事実上、「トラウマ界」であり、つまりラカン派的に言えば、すべての症状は現実界に対する防衛である。人は自ら気づいていなくても幼児期のトラウマへの固着があり、それに対する作用反作用がある。 より厳密に言えば、ポジ面とネガ面があり、ポジ面としては、出来事の想起、トラウマを反復して何度も新たに経験しようとする。そのトラウマ的経験が、初期のエロス的結びつき(とその喪失)であるなら、誰かほかの人との類似的関係においてそのエロス的結びつきを復活させようとする(一般に「愛」と呼ばれるものはこのメカニズムである)。ネガ面としては、忘却されたトラウマは何も想起されない。これが「防衛反応」Abwehrreaktionenであり、「回避」(主に制止と恐怖症)である。この回避自体、反復強迫の形を取る。
女性の場合はこれ以外に、母との同一化(母の場に自らを置くこと)により母が父(後年は父の代理人)から愛されたような「被愛妄想形式」を取ったり、母が幼児の「あたし」を愛したような「ナルシシズム形式」に向かったりする傾向が男性に比べて強い、とするのがフロイトラカンである。 |