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2021年4月24日土曜日

夢の臍という聖痕

 


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。欲動は身体の空洞に繋がっている。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou. C'est-à-dire ce qui fait que la pulsion est liée aux orifices corporels.


原抑圧との関係、原起源にかかわる問い。私は信じている、フロイトの「夢の臍」を文字通り取らなければならない。それは穴である。それは分析の限界に位置する何ものかである。…臍は聖痕である。La relation de cet Urverdrängt, de ce refoulé originel, puisqu'on a posé une question concernant l'origine tout à l'heure, je crois que c'est ça à quoi Freud revient à propos de ce qui a été traduit très littéralement par ombilic du rêve. C'est un trou, c'est quelque chose qui est à la limite de l'analyse. …l'ombilic est un stigmate.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)


この原抑圧の穴(夢の臍)、聖痕は、以下の用語と等価である。




◼️夢の臍 Nabel des Traums、菌糸体 mycelium

どんなにうまく解釈しおおせた夢にあっても、ある箇所は暗闇のなかに置き残す im Dunkel lassenことを余儀なくさせられることがしばしばある。それは、その箇所にはどうしても解けない「夢思想の結び玉 Knäuel von Traumgedanken」があって、しかもその結び玉は、夢内容 Trauminhalt になんらそれ以上の寄与をしていないということが分析にさいして判明するからである。これはつまり「夢の臍 Nabel des Traums」、夢が未知なるもののうえにそこに坐りこんでいるところの、その場所なのである。

解読においてわれわれがつき当る夢思想Traumgedankenは、一般的にいうと未完結なままにしておく他ないのである。そしてそれは四方八方に向って「われわれの観念世界の網の目のごとき迷宮 netzartige Verstrickung unserer Gedankenwel」に通じている。この編物のいっそう目の詰んだ箇所から夢願望 Traumgedanken が、ちょうど菌類の「菌糸体 mycelium」から菌が頭を出しているように頭を擡げているのである。(フロイト『夢判断』第7章、1900年)


◼️我々の存在の核 Kern unseres Wesens

私は心の装置Seelenapparatにおける心的過程psychischen Vorgangの一方を「一次的なもの primären」と名づけたが、私がそう名づけたについては、序列や効果を顧慮したばかりではなく、命名によって時間的関係をも同時にいい現わそうがためであった。


「一次過程 Primärvorgang」しか持たないような心的装置psychischer Apparatは、なるほどわれわれの知るかぎりにおいては存在しないし、また、その意味でこれは理論的仮構 Fiktionにすぎない。しかし二次的な sekundären 過程が人間生活の歴史上で漸次形成されていったのに反して、一次過程 Primärvorgänge は人間の心のうちにそもそもの最初から与えられていたということだけは事実である。そしてこの二次過程は一次過程を阻止してそれを覆い隠し、そしておそらくは人生の頂上をきわめる頃においてはじめて完全に一次過程を支配するにいたるものなのである。


「二次過程 sekundären Vorgänge 」の、こういう遅まきの登場のために、無意識的願望衝動からなっているところの「我々の存在の核 Kern unseres Wesens」は、無意識に発する願望衝動 Wunschregungenにもっとも合目的的な道を指し示すという点にのみその役割を制限されているところの前意識Vorbewußteにとっては把握しがたく、また、阻止しがたいものとなっている。(フロイト『夢判断』第7章、1900年)


◼️欲動の根 Triebwurzel 

たとえ分析治療が成功したとしても、その結果治癒した患者を、その後に起こってくる別の神経症、いやそれどころか前の病気と同じ欲動の根 Triebwurzel から生じてくる神経症、つまり以前の疾患の再発に苦しむことからさえも患者を守ってあげることが困難であることがこれで明らかになった。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第7章、1937年)



ーーこの原抑圧としての夢の臍について、ドゥルーズは《潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x)]》という表現を使ってほぼ把握していた(参照)。



ラカンは原抑圧が穴にかかわることを繰り返しいる。


私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


原抑圧とは事実上、固着である。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)

原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年、摘要)


したがって現代ラカン派は次のように言う。


私は、分析経験の基盤はフロイトが固着と呼んだものだと考えている。je le suppose, …est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状である。l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion(Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)


固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。Une fixation qui … fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, (Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)


ーー《身体は穴である。le corps…C'est un trou》(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)


穴とはトラウマのことである。


現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974)

ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)


夢が夢の臍にかかわるか否かの目安は次のことである。


夢は反復的夢となる時その地位を変える。夢が反復的なら夢はトラウマを含意する。le rêve change de statut quand il s'agit d'un rêve répétitif. Quand le rêve est répétitif on implique un trauma. (J.-A. Miller, Lire un symptôme, 2011)



この固着にかかわる反復もドゥルーズは掴んでいた。


固着と退行概念、それはトラウマと原光景を伴ったものだが、最初の要素である。自動反復=自動機械 [automatisme] という考え方は、固着された欲動の様相、いやむしろ固着と退行によって条件付けれた反復の様相を表現している。


Les concepts de fixation et de régression, et aussi de trauma, de scène originelle, expriment ce premier élément. […] : l'idée d'un « automatisme » exprime ici le mode de la pulsion fixée, ou plutôt de la répétition conditionnée par la fixation ou la régression.(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)


おしいねえ、現代ドゥルーズ 研究者がいまだフロイト音痴のままで。


欲動蠢動は「自動反復=自動機械Automatismus」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして抑圧において固着する要素は「無意識のエスの反復強迫」であり、これは通常の環境では、自我の自由に動く機能によって排除されていて意識されないだけである。


Triebregung  […] vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –[…] Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es, der normalerweise nur durch die frei bewegliche Funktion des Ichs aufgehoben wird. (フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)



ドゥルーズここまでは実にスバラシイんだよ、ラカンはさておいて現代ラカン派よりも少なくとも20年は先行したフロイト把握だ(ミレールが固着に真に注目し出したのは1990年前後だ)。


ところがーー、


ドゥルーズ のアンチオイディプスの「とってもおバカ」は既にマゾッホ論にあることもわかるんだがな(参照)。


ダニエル・ラガーシュは、最近、自我/超自我のかかる分裂の可能性を強調したことがある。つまり彼は、ナルシシズム的自我-理想自我 moi narcissique - moi idéalという体系と、超自我-自我理想 surmoi - idéal du moi という体系とを識別し、事と次第によっては対立させてさえいるのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』第11章「サディズムの超自我とマゾヒズムの自我 Surmoi sadique et moi masochiste」1967年)

否認は超自我を忌避し、純粋で、自律的で、超自我から独立した「理想自我」を生む権利を母に委託する。La dénégation récuse le surmoi et confère à la mère le pouvoir de faire naître un moi idéal, pur/autonome/indépendant du surmoi. (ドゥルーズ『マゾッホとサド』第11章「サディズムの超自我とマゾヒズムの自我 Surmoi sadique et moi masochiste」1967年)



当時の仏精神分析学界のエディプス的「雄」ラガーシュなんかに依拠して、超自我=自我理想としちまったとってもおバカなドゥルーズ!



要するに自我理想は象徴界で終わる。言い換えれば、自我理想は何も言わない。何かを言うことを促す力、言い換えれば、私に教えを促す魔性の力、それは超自我だ。

l'Idéal du Moi, en somme, ça serait d'en finir avec le Symbolique, autrement dit de ne rien dire. Quelle est cette force démoniaque qui pousse à dire quelque chose, autrement dit à enseigner, c'est ce sur quoi  j'en arrive à me dire que c'est ça, le Surmoi.  (ラカン, S24, 08 Février 1977)


エディプス的父というのは自我理想にすぎない。超自我ではまったくない。


父の名は象徴界にあり、現実界にはない。le Nom du père est dans le symbolique, il n'est pas dans le réel( J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 23/03/2005)




※母の名については➡︎「父の名と母の名



で、超自我ってのは原抑圧ってことだ(参照)。

超自我と原抑圧との一致がある。il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire.   (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)




ああ、不幸なドゥルーズ! 最悪の誤謬! フェミニストたちの家父長制の彼岸には自由があるなんていう「とんでも錯誤」もドゥルーズの誤謬が大いに貢献している。ああ、1972年以降の思想界のウンコちゃん!