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2021年9月1日水曜日

われわれはタリバンに魅惑されている

 前回、ジジェク の「西側のメディアが言及するのを避けている、タリバンがアフガニスタンをとても早く奪還した本当の理由 The real reason why the Taliban has retaken Afghanistan so quickly, which Western liberal media avoids mentioning,]」( 17 Aug, 2021)を部分的に粗訳したなかにこうあった。


この今、アフガニスタンにおいて我々を魅惑しているもの[what fascinates us now in Afghanistan](ジジェク、The real reason why the Taliban has retaken Afghanistan so quickly, which Western liberal media avoids mentioning, 17 Aug, 2021



私はこのところ、アフガニスタン問題に触れている政治学者やジャーナリスト等をツイッターで観察しているのだが、彼らはみなタリバンに魅惑されているんだろうな、と感じたよ。私もその例外ではないが。


ジジェクは2012年に次のように書いている。



いかにカントの再帰性[reflexivity]は、ラカンの無意識の主体にとっての場を提供するか。フロイトの「無意識」はまさにこの再帰性のなかに刻印されている。例を挙げよう。私はヒッチコックの映画における悪党のような誰かを「憎むことを愛する[love to hate]」。私は意識的にはこの悪役をたんに憎むだけだ。しかしながら無意識的には私は(彼を愛しているわけではない、しかし)彼を憎むことを愛する[yet unconsciously I (do not love him, but) love to hate him]。すなわちここでの無意識的なものは、私が再帰的に私の意識的な態度に関連させる方法である。〔・・・〕


伝統的な啓蒙主義的態度の不能性[The impotence of the traditional Enlightenment attitude]は、反レイシスト運動の連中がもっともよい例になる。彼らは理性的な議論のレベルでは、レイシストの大他者[racist Other]を拒絶する一連の説得力のある理由を掲げる。しかし、それにもかかわらず、彼らは自らの批判の対象に明らかに魅せられている[clearly fascinated by the object of his critique.]。結果として、彼らのすべての防衛は、現実の危機が発生した瞬間(たとえば、祖国が危機に瀕したとき)、崩壊してしまう。それはまるで古典的なハリウッド映画のようであり、そこでは、悪党は、――“公式的には、最終的に非難されるにしろ、――それにもかかわらず、われわれのリビドーが注ぎ込まれる(ヒッチコックは強調したではないか、映画は悪党によってのみ魅惑的になる、と)。(Zizek, LESS THAN NOTHING, 2012)



最近のジジェクは、政治的にも、精神分析プロパからも、哲学的にも、さらにジャーナリズム的観点からも強い批判を受けており、「四面楚歌」のようなところがあるし、とくにジャーナリズムで前回のような短い記事のなかでフロイトラカン概念を説明抜きで使えば、すぐさま反発がある。なにいってんだ、いまさら抑圧されたものの回帰だなんてと。でも基本的なところでは、ほとんどの政治学者よりはずっと核心に触れているんじゃないかな。


少なくとも上の文に言及されている「再帰性」は直接的に抑圧されたものの回帰にかかわり、フロイトの異者としての身体[Fremdkörper]にかかわる。


前回、抑圧されたものの回帰[Wiederkehr des Verdrängten]=享楽の回帰[le retour de jouissance]=トラウマの回帰[le retour du traumatisme]としたが、これは異者としての身体の回帰[le retour du corps étranger]のことであり、これが、対象aの回帰でもある。


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung… Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, ](フロイト『抑圧』1915年、摘要)

(原)抑圧されたものは異物(異者としての身体)として分離されている[Verdrängten … sind sie isoliert, wie Fremdkörper] 〔・・・〕抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う[Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben]。〔・・・〕


自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、原無意識としてエスのなかに置き残されたままである[das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück.] (フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)


この異物(異者としての身体)こそトラウマである。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 (異者としての身体[Fremdkörper )のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


享楽がトラウマであるとはこの意味であるーー《享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel. ]》(Lacan, S23, 10 Février 1976)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. (Lacan, S23, 13 Avril 1976)


以下、異者(異者としての身体)をめぐるラカンの発言のなかから分かりやすいものををいくつか列挙しておく。



異者としての身体問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,… absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

フロイトの異者は、残存物、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD… c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963

享楽は残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963


現実界のなかの異物概念(異者概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004



このあたりはこう引用列挙しても一般の人にはなんのことやら分からないだろうが、ジジェクの政治的な短い記事はもっと分からない筈。だから巷間の(凡庸な?)政治学者たちから強い反発を受ける。