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2021年9月14日火曜日

ポリコレフェミの絞首台行きを防ぐために

 2013年にフェミニスト、ナンシー・フレイザーはフェミニズムは資本主義の侍女になってしまったと言っている。たとえばツイッターなどで観察するかぎりーー資本主義のシステム的暴力に無知ということを情状酌量するとしてもーーやはりほとんどすべてのツイフェミは無意識的な新自由主義の奴隷だよ。

資本主義社会では、主観的暴力(犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。〔・・・〕暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。》(ジジェク『暴力』2007年ーー「アンチ現代思想のために」)

もちろん現代思想のインテリボク珍たちも新自由主義の掌の上で巧みに泳ぐことばかりを若い連中に教示しているわけだが、ここではあれら「重度障害者」には関わらずに、まだ見どころがいくらかは残っている気配があるポリコレフェミのお姉さん向けに記す。


フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか−−そしてどのように再生できるか[How feminism became capitalism's handmaiden - and how to reclaim it

ナンシー・フレイザー  Nancy Fraser  The Guardian, 14 Oct 2013 

わたしはフェミニストとして、女性解放のために闘うことで、より良い世界ーーより平等で、公正で自由なーーを築いているといつも考えていた。だが最近、フェミニストたちによって開拓されたそのような理想がかなり違った結果をもたらしているのではないかと不安を感じ始めた。とくに、わたしたちの性差別批判が、いまや不平等と搾取の新しい形式のための正当化を供給しているのではないかと。

As a feminist, I've always assumed that by fighting to emancipate women I was building a better world – more egalitarian, just and free. But lately I've begun to worry that ideals pioneered by feminists are serving quite different ends. I worry, specifically, that our critique of sexism is now supplying the justification for new forms of inequality and exploitation.


運命の残酷な旋回により、女性解放のための運動は自由市場の社会を築くためのネオリベラルな努力との危険な結びつきに巻き込まれてしまったのではないかとわたしは恐れている。それは、かつてはラディカルな世界観の一部を構成したフェミニストの思考がますます個人主義的な用語によって表現されているさまを説明するだろう。かつてフェミニストがキャリア至上主義を促進する社会を批判した場で、それは今や女性に「がんばる」よう助言する。かつては社会的連帯を優先した運動が今や女性の起業を称揚する。かつては「ケア」や相互依存の価値を発見した世界観がいまや、個人の達成や能力主義を奨励する。

In a cruel twist of fate, I fear that the movement for women's liberation has become entangled in a dangerous liaison with neoliberal efforts to build a free-market society. That would explain how it came to pass that feminist ideas that once formed part of a radical worldview are increasingly expressed in individualist terms. Where feminists once criticised a society that promoted careerism, they now advise women to "lean in". A movement that once prioritised social solidarity now celebrates female entrepreneurs. A perspective that once valorised "care" and interdependence now encourages individual advancement and meritocracy.


この移行の背後にあるのは、資本主義の性格の変貌だ。戦後の国家管理型資本主義は新しい形式の資本主義ーー「組織されない」、グローバルな、ネオリベラリズムーーに道を譲った。第二波フェミニズムは前者への批判として現れたが、後者の侍女になってしまった。

What lies behind this shift is a sea-change in the character of capitalism. The state-managed capitalism of the postwar era has given way to a new form of capitalism – "disorganised", globalising, neoliberal. Second-wave feminism emerged as a critique of the first but has become the handmaiden of the second.



この後、ナンシー・フレイザーはフェミニズムの再生の方法をいくらか模索的に書いているが、それは元記事を見てもらうことにして、私に言わせれば、ポリコレフェミを「公開処刑」するのがフェミニズム再生の一番早道じゃないかね。とくにアフガニスタン人に対して「女性の人権等のカードによる緩慢な公開処刑」を促す側に無意識的に組みしている連中は真っ先にだ。


………………


マルクスの名高い言い換えに、フランス革命の理念「自由、平等、友愛」(Liberté, Égalité, Fraternité)を「自由、平等、所有、そしてベンサム」というのがある。



労働力の売買がその枠内で行なわれる流通または商品交換の領域は,実際,天賦人権の真の楽園であった。ここで支配しているのは,自由,平等,所有,およびベンサムだけである。


Die Sphäre der Zirkulation oder des Warenaustausches, innerhalb deren Schranken Kauf und Verkauf der Arbeitskraft sich bewegt, war in der Tat ein wahres Eden der angebornen Menschenrechte. Was allein hier herrscht, ist Freiheit, Gleichheit, Eigentum und Bentham. 


自由! なぜなら、商品──例えば労働力──の買い手と売り手は、彼らの自由意志によってのみ規定されているのだから。彼らは、自由で法的に同じ身分の人格として契約する。契約は、彼らの意志に共通な法的表現を与えるそれの最終成果である。


Freiheit! Denn Käufer  und Verkäufer einer Ware, z.B. der Arbeitskraft, sind nur durch ihren freien Willen bestimmt. Sie kontrahieren als freie, rechtlich ebenbürtige Personen. Der Kontrakt ist das Endresultat, worin sich ihre Willen einen gemeinsamen Rechtsausdruck geben. 

平等! なぜなら彼らは商品所有者としてのみ相互に関係し、 等価物を等価物と交換するのだから。


Gleichheit! Denn sie beziehen sich nur als Warenbesitzer aufeinander und tauschen Äquivalent für Äquivalent. 


所有! なぜなら誰もみな、 自分のものだけを自由に処分するのだから。


Gleichheit! Denn sie beziehen sich nur als Warenbesitzer aufeinander und tauschen Äquivalent für Äquivalent. 

ベンサム! なぜなら双方のいずれにとっても、問題なのは自分のことだけだからである。彼らを結びつけて一つの関係のなかに置く唯一の力は,彼らの自己利益,彼らの特別利得,彼らの私益という力だけである。そして,このようにだれもが自分自身のことだけを考えて,だれもが他人のことは考えないからこそ,すべての人が,事物の予定調和に従って,またはまったく抜け目のない摂理のおかげで,彼らの相互の利得,共同の利益,全体の利益という事業をなしとげるだけである。


Bentham! Denn jedem von den beiden ist es nur um sich zu tun. Die einzige Macht, die sie zusammen und in ein Verhältnis bringt, ist die ihres Eigennutzes, ihres Sondervorteils, ihrer Privatinteressen. Und eben weil so jeder nur für sich und keiner für den andren kehrt, vollbringen alle, infolge einer prästabilierten Harmonie der Dinge oder unter den Auspizien einer allpfiffigen Vorsehung, nur das Werk ihres wechselseitigen Vorteils, des Gemeinnutzens, des Gesamtinteresses. (マルクス『資本論』第1巻第2篇第4章「貨幣の資本への転化 Die Verwandlung von Geld in Kapital1867年)



このベンサム!というのが功利主義、あるいは搾取主義だ。新自由主義側につけば必然的に搾取主義者になるんだ。自らは意識しないままにね。



言語における仮面が唯一意味をもつのは、無意識的あるいは、実際の仮面の故意の表出のときのみである。この場合、功利関係はきわめて決定的な意味をもっている。すなわち、私は他人を害することによって自分を利する(人間による人間の搾取) ということである。


Die Maskerade in der Sprache hat nur dann einen Sinn, wenn sie der unbewußte oder bewußte Ausdruck einer wirklichen Maskerade ist. In diesem Falle hat das Nützlichkeitsverhältnis einen ganz bestimmten Sinn, nämlich den, daß ich mir dadurch nütze, daß ich einem Andern Abbruch tue (exploitation de l'homme par l'homme <Ausbeutung des Menschen durch den Menschen>); (マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」1845-1846 年)

この相互搾取理論は,ベンサムがうんざりするほど詳論したものだ[Wie sehr diese Theorie der wechselseitigen Exploitation, die Bentham bis zum Überdruß ausführte, ](マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」 1846年)



比較的早い段階のこの「聖マックス」で、功利主義=搾取主義の連発がある。


功利理論[Nützlichkeitstheorie」においては,これらの大きな諸関係にたいする個々人の地位,個々の個人による目前の世界の私的搾取[Privat-Exploitation]以外には,いかなる思弁の分野も残っていなかった。この分野についてベンサムとその学派は長い道徳的省察をやった。(マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」1846年)

搾取理論[Exploitationstheorie]のさらなる展開は、英国にて、ゴドウィン、そして特にベンサムを通して起こった。ブルジョワ階級は英国とフランスの両国でますます幅を利かせるのに成功した。フランスではかつては軽んじられた経済的意義はしだいにベンサムによって再導入されたのである。ゴドウィンの『政治的正義 Political Justice』は恐怖政治時代に書かれた。そしてベンサムの主要著作は、フランス革命と英国での巨大なスケールでの産業発展のあいだとその後である。政治経済における功利理論[Nützlichkeitstheorie]の完全な統合が見出されるのは、最終的に、ミルにおいてである。(マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」1846 年)



ゴドウィンの政治的正義ってのはポリコレだろうな、ポリコレが搾取主義だってのはむかしからわかってたんだよ。



私はマルクスをたいして読んでいるわけではないが、この程度の基本的な部分ぐらいは知っとけよな、フェミニストのお姉さんたちよ。そうでないと真っ先に絞首台に送られちまうぜ。





M-M' (G─G′)において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化》である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差[class disparities]を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016, 私訳)


利子生み資本では、自動的フェティッシュ[automatische Fetisch]、自己増殖する価値 、貨幣を生む貨幣[selbst verwertende Wert, Geld heckendes Geld]が完成されている。〔・・・〕

ここでは資本のフェティッシュな姿態[Fetischgestalt] と資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 [begriffslose Form]、生産諸関係の至高の倒錯と物件化[Verkehrung und Versachlichung]、すなわち、利子生み姿態・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化[Kapitalmystifikation]である。(マルクス『資本論』第三巻第二十四節 )



いけね、前回、不寛容はよくないって記事書いたばかりなんだがな。「ポリコレフェミの公開処刑」なんてのは蚊居肢散人の意に反するんだが、この際、「挑発的に」言わざるを得ないね、あなたがたへの隠された愛のせいで。


資本主義について批判的に語りたくない者はファシズムについても沈黙すべきである。Wer aber vom Kapitalismus nicht reden will, sollte auch vom Faschismus schweigen." (マックス・ホルクハイマー Max Horkheimer「ユダヤ人とヨーロッパ Die Juden und Europa.1939年)


ホルクハイマー、すなわち「ユダヤ系ドイツ人」で1934年に米国に「亡命」し、コロンビア大学で教鞭を取っていた元フランクフルト学派代表が、このように言ったのである。

こういっておこう、ーー「新自由主義について批判的に語りたくない者は、アンチフェミニズムについても沈黙すべきだ」と。



フェミニズムは死んだ。運動は完全に死んでいる。女性解放運動は反対者の声を制圧しようとする道をあまりにも遠くまで進んだ。異をとなえる者を受け入れる余地はまったくない。まさに意地悪女のようだ。〔・・・〕フェミニストのイデオロギーは、数多くの神経症女の新しい宗教のようなものだ。


Feminism is dead. The movement is absolutely dead. The women’s movement tried to suppress dissident voices for way too long. There’s no room for dissent. It’s just like Mean Girls.  〔・・・〕Feminist ideology is like a new religion for a lot of neurotic women. Camille Paglia on Rob Ford, Rihanna and rape culture, 2013


私は全きフェミニストだ。他のフェミニストたちが私を嫌う理由は、私が、フェミニスト運動を修正が必要だと批判しているからだ。フェミニズムは女たちを裏切った。男と女を疎外し、ポリティカルコレクトネス討論にて代替したのである。

I'm absolutely a feminist. The reason other feminists don't like me is that I criticize the movement, explaining that it needs a correction. Feminism has betrayed women, alienated men and women, replaced dialogue with political correctness. Camille Paglia, Playboy interview, May 1995)



こう書いたからといってアンチフェミのネトウヨボク珍たちは図に乗るなよ,きみたちは修正不能の究極の阿呆だから相手にするつもりはないだけさ。相手にするのは「愛すべき来るべき未来の」真のフェミニストたちだけだ。



自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう![Was weiss Der von Liebe, der nicht gerade verachten musste, was er liebte! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」1883年)