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2021年2月1日月曜日

アンチ現代思想のために

 何度も示しているが、柄谷やジジェクは1960年代から70年代にかけてのいわゆる仏現代思想は、1990年以降、支配的イデオロギーと等価になってしまったと言っている。そしてこれは「正しい」と私は考えている。


私が気づいたのは、ディコンストラクションとか、知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考――私自身それに加わっていたといってよい――が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。90年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義、サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論的思考の優位――美学的なものをふくむ――である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)



ジジェク版ならたとえば次の通り。


ドゥルーズとガタリによる「機械」概念は、「転覆的 subversive」なものであるどころか、現在の資本主義の(軍事的・経済的・イデオロギー的)動作モードに合致する。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械[constant self-revolutionizing]である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク 『毛沢東、実践と矛盾』2007年)

資本主義社会では、主観的暴力(犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。〔・・・〕暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』2007年)




ドゥルーズはニーチェを引用しつつ次のように言っている。


現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来たるべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること。つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。(ドゥルーズ『フーコー』「褶曲あるいは思考の内(主体)」宇野邦一訳)


この言葉を額面通り取り、かつ上の柄谷とジジェクを受け入れるなら、21世紀の現在、資本の脱構築機械、資本の自己変革機械と等価的なものとなってしまった相のある仏現代思想に対して「アンチ現代思想」であることが、真のフーコードゥルーズデリダ的態度ということになるのではないだろうか。


彼らを真の偉大な哲学者と呼ぶか否かは判断を保留するが、この今なら彼らはどう考えるのだろうか、この今の環境においても脱構築やら機械やらとまだ言うのだろうか、ーーそれがなによもまず肝要な問いである。


真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』2009年)



事実ドゥルーズ は、死の二年前、次のように言って死んでいった。


マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。〔・・・〕


次の著作は『マルクスの偉大さ La grandeur de Marx』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。〔・・・〕私はもう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後は、絵を書くでしょう。(ドゥルーズ「思い出すこと」インタビュー1993年)



資本主義という非イデオロギー的イデオロギーはもう変えようがない、資本の欲動機械の掌の上でうまく泳ぐ方法を「現代思想的に」提示するしかない、ーーもしこの今の「現代思想」の研究者がこの態度を取っているなら上のドゥルーズに反している、と私は思う。ネット上に落ちている片言隻語を眺めるかぎりでは日本にはそんなヤツしかいないように見えてしまうが。


最後に比較的最近のジジェクを引用しておこう。


私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。


半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ [we should stop with this multitudes]、と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク 、インタヴュー、Pornography no longer has any charm" ― Part II、19.01.2018)


ーーネグリの具体的な発言内容のいくらかは「私は左翼を信用していない」を見よ。