このブログを検索

2021年10月17日日曜日

「財務省の犬」対「八百屋のオッサン」


大衆とは無知だよな。ボクもそのひとりだ。例えば物理学者がなんやら言うとオロオロするばかりだ。とはいえ物理学者自身、その大半は無知であることも知った。みなさんも東北大震災の情報跳梁跋扈のなかでそれを実感したはずだ。


鈴木健@kensuzuki 要は専門家のもっている専門てほんとに狭くって、世界に数人~数十人しか分かる人がいない。それでも業界外に位置づけを説明するために自分が数千人から数十万人のコミュニティに属しているように説明する。素人から期待される質問に答えようとするととたんに擬似専門家になる。(2011年3月16日)


もう10年前の話だから忘れてるかなーー、《大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。》(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」)


ところで、ボクはしばしば言うんだが、ツイッターってのは衆愚装置じゃないかね、例えばまったく無知の領野にも関わらず、似非専門家の寝言ツイートを脊髄反射的にRT拡散して、互いに湿った瞳を交わし合い頷き合っているんだから。


特に自ら密かに不安を感じていることを宥めてくれる寝言だったら飛びつくんだろうな。

個人の不安は、危険の大きさ[Größe der Gefahr] によって生ずるか、感情の結びつき(リビドー備給)の喪失[Auflassen von Gefühlsbindungen (Libidobesetzungen)]によって生ずるか、のいずれかである。〔・・・〕


同様に、パニックも、すべての個人を襲う危険の増加によって起こるか、あるいは集団を統合している感情の結びつきの消失によって起こる[Ebenso entsteht die Panik durch die Steigerung der alle betreffenden Gefahr oder durch das Aufhören der die Masse zusammenhaltenden Gefühlsbindungen](フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)


だからたとえ寝言ツイートでも役には立ってるんだろうよ、パニックを起こさないためにね


集団は異常に影響をうけやすく、また容易に信じやすく、批判力を欠いている。Die Masse ist außerordentlich beeinflußbar und leichtgläubig, sie ist kritiklos, 〔・・・〕

集団にはたらきかけようと思う者は、自分の論拠を論理的に組みたてる必要は毛頭ない。きわめて強烈なイメージをつかって描写し、誇張し、そしていつも同じことを繰り返せばよい。Wer auf sie wirken will, bedarf keiner logischen Abmessung seiner Argumente, er muß in den kräftigsten Bildern malen, übertreiben und immer das gleiche wiederholen.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)


集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動は異常にたかまり、彼の知的活動[intellektuelle Leistung] はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。ein Einzelner innerhalb einer Masse durch den Einfluß derselben eine oft tiefgreifende Veränderung seiner seelischen Tätigkeit erfährt. Seine Affektivität wird außerordentlich gesteigert, seine intellektuelle Leistung merklich eingeschränkt, beide Vorgänge offenbar in der Richtung einer Angleichung an die anderen Massenindividuen; (フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)


ーーここでフロイトが言っているのが衆愚のメカニズムだな。


ま、でもしょうがないよな、たとえば経済なんてほとんどみな無知に決まってんだから。キャベツ頭の気合い系政治家やらインテリ阿呆鳥やらが、不安を宥めてくれる発言やツイートしたら、みんなしてウンウン頷いちゃうってのが大衆ってもんさ

政治家は馬鹿ではない。勝つために政策を主張する。公約をする。与野党そろってのバラマキ主張は、票を取るためには正しい戦略なのである。


したがって、バラマキの責任は政治家にあるのではなく、国民にある。つまり、批判すべきは、バラマキを受けて喜んでいる国民、有権者たちだ。政治家は飯のために、権力を取るために、それに迎合しているにすぎないのだ。


また政治家を責めるぐらいなら、もっと糾弾されるべきは、財政出動、減税を礼賛、推奨している、有識者、エコノミストたちである。彼らこそが、国を滅ぼす戦犯なのである。 (小幡績「このままでは国家財政破綻」論は1%だけ間違いだ」 2021/10/16



だからボクは、近未来に必ず訪れる「日本滅亡」の原因は国民だとはいわないよ、そうではなくあれら「戦争犯罪人」、少なくともこの十年ぐらいのあいだに、大衆にはもっともらしく聞こえたらしい嘘出鱈目を言ってきた似非「有識者、エコノミスト」だよ。


というこのボクの記事も十二分に検証すべきなのであって、でも大衆ってのは財務省の犬とかカルトとか言うしかないんだろうけどさ。


最近は東大のエライセンセまでカボチャ頭なっちまったからな、






こういう十分に情報が入ってきそうな立場のセンセたちでもこうなんだからしょうがないよ、君たちは。パニックは起こらないほうがいいからな、できるだけ先延ばししとくことさ。



とはいえあの二人、もちろんあの二人だけじゃないが、なんで今どき八百屋のオッサンやってんだろうな。


第2次大戦が終わって、日本は降伏しました。武者小路実篤という有名な作家がいましたが、戦時中、彼は戦争をほぼ支持していたのです。ところが、戦争が終わったら、騙されていた、戦争の真実をちっとも知らなかったと言いました。南京虐殺もあれば、第一、中国で日本軍は勝利していると言っていたけれども、あんまり成功していなかった。その事実を知らなかったということで、彼は騙されていた、戦争に負けて呆然としていると言ったのです。


戦時中の彼はどうして騙されたかというと、騙されたかったから騙されたのだと私は思うのです。だから私は彼に戦争責任があると考えます。それは彼が騙されたからではありません。騙されたことで責任があるとは私は思わないけれども、騙されたいと思ったことに責任があると思うのです。彼が騙されたのは、騙されたかったからなのです。騙されたいと思っていてはだめです。武者小路実篤は代表的な文学者ですから、文学者ならば真実を見ようとしなければいけません。


八百屋のおじさんであれば、それは無理だと思います。NHK が放送して、朝日新聞がそう書けば信じるのは当たり前です。八百屋のおじさんに、ほかの新聞をもっと読めとか、日本語の新聞じゃだめだからインターナショナル・ヘラルド・トリビューンを読んだらいかがですかとは言えません。BBCは英語ですから、八百屋のおじさんに騙されてはいけないから、 BBC の短波放送を聞けと言っても、それは不可能です。


武者小路実篤の場合は立場が違います。非常に有名な作家で、だいいち、新聞社にも知人がいたでしょう、外信部に聞けば誰でも知っていることですから、いくらでも騙されない方法はあったと思います。武者小路実篤という大作家は、例えば毎日新聞社、朝日新聞社、読売新聞社、そういう大新聞の知り合いに実際はどうなっているんだということを聞けばいいのに、彼は聞かなかったから騙されたのです。なぜ聞かなかったかというと、聞きたくなかったからです。それは戦前の社会心理的状況ですが、今も変わっていないと思います。


知ろうとして、あらゆる手だてを尽くしても知ることができなければ仕方がない。しかし手だてを尽くさない。むしろ反対でした。すぐそこに情報があっても、望まないところには行かないのです。(加藤周一「第2の戦前・今日」2004年)


別に学者じゃなくたってこのくらいのものは見て首を傾げ、少しは調べてみようとする筈なんだけどな。









ま、世界の常識「日本病」の話まで知るよう努力しろ、とまでは言わないでおくけどさ、どうせ最近のセンセはタコツボ学者に決まってんだから。




自由が狭められているということを抽象的にでなく、感覚的に測る尺度は、その社会に何とはなしにタブーが増えていくことです。集団がたこつぼ型であればあるほど、その集団に言ってはいけないとか、やってはいけないとかいう、特有のタブーが必ずある。


ところが、職場に埋没していくにしたがって、こういうタブーをだんだん自覚しなくなる。自覚しなくなると、本人には主観的には結構自由感がある。これが危険なんだ。誰も王様は裸だとは言わないし、また言わないのを別に異様に思わない雰囲気がいつの間にか作り出される。…自分の価値観だと思いこんでいるものでも、本当に自分のものなのかどうかをよく吟味する必要がある。


自分の価値観だと称しているものが、実は時代の一般的雰囲気なり、仲間集団に漠然と通用している考え方なりとズルズルべったりに続いている場合が多い。だから精神の秩序の内部で、自分と環境との関係を断ち切らないと自立性がでてこない。


人間は社会的存在だから、実質的な社会関係の中で他人と切れるわけにはいかない。…またそれがすべて好ましいとも言えない。だから、自分の属している集団なり環境なりと断ち切るというのは、どこまでも精神の内部秩序の問題です。(「丸山真男氏を囲んで」1966年)


日本共同体自体が蛸壺かもな、ボクはそこから離れた場にいるから、少しはよく見えのかも知れないよ。あそこに嵌ってたら「アキメクラ」のままだったかも。