このブログを検索

2021年10月4日月曜日

断章の美学

 いまどき長ったらしい交響曲やら協奏曲やらソナタやらをマガオで聴いてる連中ってのは、エディプス的神経症者だけだよ、音楽エディプス信者やってたら耳の感度が悪くなるぜ、音楽共同体のなかでヌクヌク生きている演奏家だって同じ。連中はニブイ。繊細さを少しでももっているなら、人は本来みな断章に行き着く筈さ。


ウェーベルンの作品九)これらの小曲の短かさが、すでに彼らの弁疏として充分に説得的なのだが、反面、この短さがかかる弁護を必要としてもいる。 かくも簡潔に自己表現するためには、どれほどの抑制が必要かを考えてみたまえ。


ひとつひとつの眼差しが一篇の詩として、ひとつひとつの溜息が一篇の小説〔ロマン〕としてくりひろげられるにたりるのである。一篇の小説をただひとつの身振りによって、ひとつの幸福をただ一回の息吹きによって表わす[Jeder Blick läßt sich zu einem Gedicht, jeder Seufzer zu einem Roman ausdehnen. Aber: einen Roman durch eine einzige Geste, ein Glück durch ein einziges Aufatmen auszudrücken:


かかる凝集は、それにふさわしい自己耽溺[Wehleidigkeit]をたちきったところにしか、見出されない。 これらの小曲は、音によっては、ただ音[Töne]を通じてのみ言い表わしうるものだけが表現できるのだという信念を保持しているひとだけが理解できるのである……(シェーンベルク「ウェーベルン作品九のスコア序文」Arnold Schoenberg, Vorwort zu Sechs Bagatellen op.  9, 1924)




実に美しいヴェーベルンへのオマージュだ、


ひとつひとつの眼差しが一篇の詩として、

ひとつひとつの溜息が一篇のロマンとして

くりひろげられるにたる。

一篇のロマンをただひとつの身振りによって、

ひとつの幸福をただ一回の息吹きによって表わすのだ


でもこういうことさ、ヴェーベルンにかぎらず音楽のエッセンスとは。



このop 9はどの弦楽四重奏団で聴くかだな、私は最初はアルバンベルクカルテットで聴いた。でも最近はむかしのジュリアードカルテットで聴くことが多くなった。ここには静謐さがある。沈黙の裂け目がいっそう際立っている。




断章は(俳句と同様に)頓理である。それは無媒介的な享楽を内含する。言説の幻想、欲望の裂け目である[Le fragment (comme le haïku) est torin, il implique une jouissance immédiate : c'est un fantasme de discours, un bâillement de désir.]。

思考フレーズ[pensée-phrase]という形をとって、断章の胚種は、場所を選ばず、あなたの念頭に現れる。それはキャフェでかもしれず、列車の中かもしれず、友人としゃべっているときかもしれない(それは、その友人が話していることがらの側面から突然出現するのだ)。そういうときには、手帳を取り出す。が、その場合書きとめようとしているものは、ある一個の「思考」ではなく、何やら刻印のようなもの、昔だったら一行の「詩句」と呼んだであろうようなものである[non pour noter une « pensée », mais quelque chose comme une frappe, ce qu'on eut appelé autrefois un « vers ».

何だって? それでは、いくつもの断章を順に配列するときも、そこには組織化がまったくありえないとでも? いや、そうではない、断章とは、音楽でいう連環形式のような考えかたによるものなのだ(『やさしき歌』、『詩人の恋』)[le fragment est comme l’idée musicale d’un cycle (Bonne Chanson, Dichterliebe)]。個々の小品は、それだけで充足したものでありながら、しかも、隣接する小品群を連結するものでしかない。作品はテクストの外[hors-texte]にしか成立しない。


断章の美学を(ウェーベルン以前に)もっともよく理解し実践した人、それはだぶんシューマンである。彼は断片を「間奏曲」と呼んでいた[L’homme qui a le mieux compris et pratiqué l’esthétique du fragment (avant Webern), c’est peut-être Schumann ; il appelait le fragment « intermezzo »


彼は自分の作品の中に、間奏曲の数をふやした。彼がつくり出したすべては、けっきょく、挿入されたもの[intercalé]であった。しかし、何と何の間に挿入されていたと言えばいいのか。頻繁にくりかえされる中断の系列以外の何ものでもないもの、それはいったい何を意味しているのか。  


断章にもその理想がある。それは高度の濃縮性だ。ただし、(マクシム〔箴言、格言〕の場合のように)思想や、知恵や、真理のではなく、音楽の濃縮性である。すなわち、「展開」に対して、「主調」が、つまり、分節され歌われる何か、一種の語法が、対立していることになるだろう。そこでは《音色》が支配するはずである。ウェーベルンの《小品》群。終止形はない。至上の権威をもって彼は《突然切り上げる》のだ! [Le fragment a son idéal : une haute condensation, non de pensée, ou de sagesse, ou de vérité (comme dans la Maxime), mais de musique : au « développement », s’opposerait le « ton », quelque chose d’articulé et chanté, une diction : là devrait régner le timbre. Pièces brèves de Webern : pas de cadence : quelle souveraineté il met à tourner court!](『彼自身によるロラン・バルト』1975年)



そう、バッハやスカルラッティじゃなければ、シューマンさ。ベートーヴェンの晩年のバカテルや、シューベルトのいくつかは許すけどさ。若いころはひどく好んだブラームスの間奏曲は、最近は意味過剰に感じるね。あそこには無媒介的な享楽はわずかしかない。もちろんないことはなく、とくにop117、118、119は貴重な作品群のひとつだが。


シューマンの『詩人の恋』だったらなによりもまずパンゼラだ、彼はバルトの歌の教師だったのだが、たしかに水際立っている。➡︎ Schumann - Dichterliebe - Panzera / Cortot 1935


ディスカウじゃぜんぜんだめだよ、1950年代のディスカウはいい演奏もあるけどーー特にカール・リヒターのもとでのバッハーー、そのあとはアマトゥール(音楽を愛する人)から職業としての「専門家」になっちまったからな。


最近だったらクヴァストホフは許しちゃうね、鳥肌立つよ➡︎Hélène Grimaud, Thomas Quasthoff - Schumann Dichterliebe -  2007


エレーヌ・グリモーはピアノ弾きながら、クヴァストホフの声に震えている。彼女の感覚が私にはよくわかる。震えるといえば、Bernarda Fink のop135 には死にそうになるな。



以上、シツレイシマシタ、勝手なことを書いて。挑発文と捉えてクダサイ。


でも音楽は瞬間芸のとことがあるから、コントロール巧みな「専門家」になると、音楽が死ぬことが多いのは間違いないよ。同じほとばしりの仕草があっても、真の迸りと芸としての迸りの差異がある。そこを超えることができるか否かだな、プロというのは。


例えばステージで倒れてからのミケランジェリはそこに至ったのさ。あのオマージュラモー。あれこそ無媒介的な享楽、享楽の身体の演奏だ。そう、ひとつひとつの眼差しが一篇の詩として、ひとつひとつの溜息が一篇のロマンとして、そして一篇のロマンをただひとつの身振りによって、ひとつの幸福をただ一回の息吹きによって表している。