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2021年11月14日日曜日

潜在的対象X [l'objet virtuel (objet = x) ]= 固着[Fixierung]=対象a [petit(a) ]

 


『差異と反復』のドゥルーズは、反復はフロイトの原抑圧に関係すると言っている。


エロスとタナトスは、次のように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的原理としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。

Érôs et Thanatos se distinguent en ceci  qu'Érôs doit être répété, ne peut être vécu que dans la répétition,  mais que Thanatos (comme principe transcendantal) est ce qui  donne la répétition à Éros, ce qui soumet Éros à la répétition.  


唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象にかかわる「正式の」抑圧の彼方に、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 、あるいは欲動が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。

Seul un tel point de vue est capable de nous faire avancer dans  les problèmes obscurs de l'origine du refoulement, de sa nature,  de ses causes et des termes exacts sur lesquels il porte. Car  lorsque Freud, au-delà du refoulement « proprement dit » qui  porte sur des représentations, montre la nécessité de poser un  refoulement originaire, concernant d'abord des présentations  pures, ou la manière dont les pulsions sont nécessairement  vécues, nous croyons qu'il s'approche au maximum d'une raison  positive interne de la répétition(ドゥルーズ『差異と反復』「序章」1968年)


そして反復の根にあると想定された潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x) ]も原抑圧にかかわる、と。


反復は、ひとつの現在からもうひとつへ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x) ]に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成される。潜在的対象は、たえず循環し、つねに自己に対して遷移するからこそ、その潜在的対象がそこに現われてくる当の二つの現実的な系列のなかで、すなわち二つの現在のあいだで、諸項の想像的な変換と、 諸関係の想像的な変容を規定するのである。潜在的対象の遷移は、したがって、他のもろもろの偽装とならぶひとつの偽装ではない。そうした遷移は、偽装された反復としての反復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。

La répétition ne se constitue pas d'un présent  à un autre, mais entre les deux séries coexistantes que ces  présents forment en fonction de l'objet virtuel (objet = x).  C'est parce qu'il circule constamment, toujours déplacé par  rapport à soi, qu'il détermine dans les deux séries réelles où  il apparaît, soit entre les deux présents, des transformations de  termes et des modifications de rapports imaginaires. Le déplacement de l'objet virtuel n'est donc pas un déguisement parmi  les autres, il est le principe dont découle en réalité la répétition  comme répétition déguisée. 〔・・・〕


そうしたことをフロイトは、抑圧という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる「原」抑圧[un refoulement dit « primaire »]と考えてしまってはいたのだが。Freud le sentait bien, quand il cherchait une instance plus profonde que celle  du refoulement, quitte à la concevoir encore sur le même mode,  comme un refoulement dit « primaire ». (ドゥルーズ『差異と反復』第2章)


さらに反復をフロイトの自動反復 [automatisme]と等置しつつ、固着によって条件付けられている、と。


固着と退行概念、それはトラウマと原光景を伴ったものだが、最初の要素である。(フロイトの)自動反復 [automatisme]概念は、固着された欲動の様相、いやむしろ固着と退行によって条件付けれた反復の様相を表現している。


Les concepts de fixation et de régression, et aussi de trauma, de scène originelle, expriment ce premier élément. …: l'idée d'un « automatisme » exprime ici le mode de la pulsion fixée, ou plutôt de la répétition conditionnée par la fixation ou la régression.(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)




以上を前提にフロイトとラカンを読んでみよう。


フロイトにおいて原抑圧は固着である。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]〔・・・〕


抑圧されたものの回帰は固着点から始まる[Wiederkehr des Verdrängten…erfolgt von der Stelle der Fixierung her]。そしてその点へのリビドー的展開の退行[Regression der Libidoentwicklung]を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察(症例シュレーバー)』1911年、摘要)


フロイトは固着点[Stelle der Fixierung]と記しているが、これがラカンのリアルな対象aである。


対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)


したがってドゥルーズの潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x) ]とは対象aである。


現代ラカン派はこのリアルな対象aを享楽の固着とも呼ぶ。


フロイトが固着と呼んだものは、享楽の固着である[c'est ce que Freud appelait la fixation…c'est une fixation de jouissance].(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)

無意識の最もリアルな対象a、それが享楽の固着である[ce qui a (l'objet petit a) de plus réel de l'inconscient, c'est une fixation de jouissance.](J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)


この享楽の固着は、フロイトのリビドーの固着[Fixierung der Libido] 、あるいは欲動の固着[Fixierung der Triebe]の言い換えにすぎない。


固着は、リビドーの固着、欲動の固着である[la fixation, la fixation de libido, la fixation de la pulsion] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


ほかにもフロイトはトラウマへの固着[Fixierung an das Trauma]とも言ったが、享楽自体、トラウマであり(参照)、「欲動の固着=享楽の固着」はトラウマの固着である。



さて上に引用したドゥルーズ が使っているフロイト用語をもうひとつ確認しよう。フロイトの自動反復[Automatismus]である。


欲動蠢動は自動反復[Automatismus]の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして(原)抑圧において固着する要素は「無意識のエスの反復強迫」であるTriebregung  … vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –… Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es,(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)


つまりは固着を通した「自動反復=無意識のエスの反復強迫」であり、これが死の欲動(タナトス)である。


われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。

Charakter eines Wiederholungszwanges … der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)


こうして、フロイトの固着概念を仲介にして、ドゥルーズの潜在的対象Xとラカンの対象aは等価であることが示された筈である。前回示したようにニーチェの永遠回帰自体、固着につながっている。


この固着は欲望とは関係がなく欲動=享楽と関係がある。ーー《欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance]》.(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)


享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である。La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)

人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する。Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)



ドゥルーズに対しての疑問は、1960年代後半に実に見事にフロイトを読解していたのに、ガタリと組んだ1970年代に、なぜ欲望機械[Les machines désirantes]などと言うようになってしまったのか、だ。



ある純粋な流体が自由状態で[un pur fluide à l'état libre] 、途切れることなく、ひとつの充実人体[un corps plein ]の上を滑走している。欲望機械[Les machines désirantes] は、私たちに有機体を与える。ところが、この生産の真っ只中で、この生産そのものにおいて、身体は組織される〔有機化される〕ことに苦しみ、つまり別の組織をもたないことを苦しんでいる。いっそ、組織などないほうがいいのだ。

こうして過程の最中に、第三の契機として「不可解な、直立状態の停止」がやってくる。そこには、「口もない。舌もない。歯もない。喉もない。食道もない。胃もない。腹もない。肛門もない[Pas de bouche. Pas de Io.Hgue. Pas de dents. Pas de larynx. Pas d'œsophage. Pas d'estomac. Pas de ventre. Pas d'anus]. 」。もろもろの自動機械装置は停止して、それらが分節していた非有機体的な塊を出現させる。この器官なき充実身体[ Le corps plein sans organes] は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能[Instinct de mort] 、これがこの身体の名前である。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』1972年)



私に言わせればこれは「知的退行」である。仮に欲望機械を欲動機械に置き換えても、上にある《ある純粋な流体が自由状態で[un pur fluide à l'état libre]》という定義に反する。むしろドゥルーズ のプルースト論に現れている《強制された運動の機械(タナトス)[machines à movement forcé (Thanatos)]》が欲動の現実界の定義である。


私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制」呼ぼう[Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …Disons que c'est un forçage.  ](ラカン、S.23, 13 Avril 1976、摘要)


欲動の現実界はトラウマへの固着に強制された運動である。『差異と反復』、『プルーストとシーニュ』のドゥルーズだけではなく、『意味の論理学』のドゥルーズもこの点において限りなく正しい、ーー《強制された運動は、タナトスもしくは反復強迫である[le mouvement forcé …c'est Thanatos ou la « compulsion»]》(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。…穴は原抑圧(=固着)と関係がある[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou.[…]La relation de cet Urverdrängt](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)



奇妙なことにドゥルーズは、1970年代に入って1960年代後半の「強制された運動の機械」から「自由流体の機械」に移行してしまった。


すこぶる残念なことに、日本のドゥルーズ学者たちにおいていまだもってーー私の知る限りだがーーこの矛盾を吟味している気配がまったく窺われない。



ラカンからセミネールを引き継いだジャック=アラン・ミレールは、最初期のセミネールで既にアンチオイディプスの問題点を指摘しているのである。


パラノイアのセクター化に対し、分裂病の断片化を対立しうる。私は言おう、ドゥルーズ とガタリの書(「アンチオイディプス」)における最も説得力のある部分は、パラノイアの領土化と分裂病の根源的脱領土化を対比させたことだ。ドゥルーズ とガタリがなした唯一の欠陥は、それを文学化し、分裂病的断片化は自由の世界だと想像したことである。

A cette sectorisation paranoïaque, on peut opposer le morcellement schizophrénique. Je dirai que c'est la partie la plus convaincante du livre de Deleuze et Guattari que d'opposer ainsi la territorialisation paranoïaque à la foncière déterritorialisation schizophrénique. Le seul tort qu'ils ont, c'est d'en faire de la littérature et de s'imaginer que le morcellement schizophrénique soit le monde de la liberté.    (J.-A. Miller, LA CLINIQUE LACANIENNE, 28 AVRIL 1982)



ーー《分裂病においての享楽は、(パラノイアのような)外部から来る貪り喰う力ではなく、内部から主体を圧倒する破壊的力である[In schizophrenia jouissance is not a devouring force coming from without, but a destructive power that overwhelms the subjects from within.]》(Stijn Vanheule, The Subject of Psychosis: A Lacanian Perspective、2011)