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2021年3月13日土曜日

他の女 autre femme

 


実に、女性たちが頻繁に告白する典型的な幻想がある。つまり女性たちは、享楽を獲得するために、男性の虐待の対象として自らを表象する。剥き出しにされ、打たれ、貶められること。あたかも真正な女を感じるために必要不可欠であるかのようにして。この「自らを苦しめること」は遠回りの道を取る。たとえば美しくあれという要請は、しばしば美学化されたマゾヒズムの仮面にすぎない。


Il y a bien à rendre compte des fantasmes typiques que des femmes confessent communément, à savoir que pour atteindre à la jouissance, elles se représentent en elles-mêmes comme l'objet de la persécution masculine – dépouillées, battues, déchues – comme si c'était là la condition sine qua non pour se sentir authentiquement femme. Ce “se faire souffrir” emprunte volontiers des chemins détournés. Par exemple, l'impératif d'être belle n'est souvent que le masque du masochisme esthétisé. (J.-A. Miller, Mèrefemme, 2015)


女性の場合、意識的であろうと無意識的であろうと、幻想は、愛の対象の選択よりも享楽の場のほうが決定的です。それは男性の場合と逆です。Chez les femmes, qu'ils soient conscients ou inconscients, ils sont déterminants pour la position de jouissance plus que pour le choix amoureux. 


たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりすることを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だと想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいないと想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。Par exemple, il arrive qu'une femme ne puisse obtenir la jouissance – disons, l'orgasme – qu'à la condition de s'imaginer, durant l'acte lui-même, être battue, violée, ou être une autre femme, ou encore être ailleurs, absente. (J.-A. Miller,  On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " , 2010)



Pina Bausch - Extract from the Rite of Spring



古典的に観察される男性の幻想は、性交中に別の女を幻想することである。他方、私が見出した女性の幻想は、もっと複雑で理解し難いものだが、性交中に別の男を幻想することではない。そうではなく、その性交最中の男が彼女自身ではなく別の女とヤッテいることを幻想する。その患者にとって、この幻想がオーガスムに達するために必要不可欠だった。…


この幻想はとても深く隠されている。男・彼女の男・彼女の夫は、それについて何も知らない。彼は毎晩別の女とヤッテいるのを知らない…これがラカンが指摘したヒステリー的無言劇である。その幻想ーー同時にそのように幻想することについて最も隠蔽されている幻想は(女性的)主体のごく普通の態度のなかに観察しうるがーーそれを位置付けるのは容易ではない。(Jacques-Alain Miller, The Axiom of the Fantasm)


女性性と受動性(マゾヒズム性)

 前回フロイトラカンを引用して示したように、女性性は必ずしも受動性(マゾヒズム性)ではない。解剖学的男性にも受動性がある。とはいえやはり解剖学的女性の方がはるかに受動性の生を生きているのは間違いない。


2002年11月6日(水)

私はフェミニストでありかつマゾヒストである。

フェアネスを求める私が、残酷さを愛するということ、この事態は許容されうるのか、私はそれをどう受け止めればいいのか、これは私にとって重要な問題である。

女性を抑圧し支配し利用する言説と制度に反対しながら、責め苛まれ所有され支配され犯され嬲られ殺される女性の状態を愛することは、許されるのだろうか。


2003年2月11日(火)

私が初めてタンポンを使ったのは小学校六年生の夏だった。


私は女性で、膣があり、排卵していた。私は犯されうる肉体を持ち、妊娠させられうる状態でいた。

私は、男性から性的な目で見られることが多かった。性的な目的で利用したいと思われることが多かった。

バスに乗れば触られ、図書館に行けば書架の間で性器を見せられ、部室では押し倒され、街を歩けば後をつけられる。

家に私しかいない夜にお風呂に入っていると、風呂場の窓の外でぴたりと止まる足音。

朝玄関から出ると落ちている、精液の入ったコンドーム。

雑居ビルの階段で突然後ろから駆けあがってきた男に羽交い締めされ胸を掴まれたこともある。

夜、たまたま人通りが絶えた近所の道で、四人の若い男が乗った車に突然横付けされ、無理矢理乗せられそうになったこともある。

私は常に抵抗し、警察を呼び、大声を出して相手を追いかけた、公の処分を求めた。私は今も常に催涙スプレーを携帯している。私の意志に反して私の身体を性的に利用しようとする者を私は決して許さない。

自分が性的身体を持っていることを自覚しないでいることは不可能だ。

自分が性的身体を持っていないふりをして、何も知らないで生きていくことは愚かだ。

それでは、毎日を切り抜けていけない。

私は貞操帯が好きだ。金属製の、オーダーメイドの、装着しての日常生活が可能な貞操帯を持っている。持っているだけでつけてはいないけれど、それがあるというのはうれしいことだ。

(多分それは、銃を隠し持つ人の気持ちに似ている。)

貞操帯の話をすると、好色な笑いを浮かべる男性がいる。

貞操帯は、「あなたは私に入れない」、「私を犯すことはできない」という意味なのに。拒まれていることに気がつかないほど、女性の身体は使用されうるものだと信じているのだ。鍵が与えられることを疑わないくらいに。

タンポンは便利な生理用品だ、けれども、初めてタンポンを使った私が覚えた達成感は、単にそれが便利だという理由によるものではない。

その時、膣は私がコントロールしうるものになったのだ。


無自覚なままでは無垢ではいられない。小学生の私は、「無垢」でいるために、自分の性的肉体をコントロールすることを決意していた。


ごめんなさい、無断引用してしまった。


◇「八本脚の蝶」の無断転載を禁じます。著作権は二階堂奥歯に帰属します


二階堂さんに倣ってこう言っておこう。

版権・ 著作権をお持ちの方、ご連絡頂けばすぐに削除いたします。(2002年4月8日(月))


乳幼児はみなマゾヒストである

 


◼️不快=受動性=マゾヒズム  

原初の不快の経験は受動性である。primäres Unlusterlebnis […] passiver Natur (フロイト、フリース宛書簡 Briefe an Wilhelm Fließ, Dezember 1895)

母のもとにいる幼児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質のものである。Die ersten sexuellen und sexuell mitbetonten Erlebnisse des Kindes bei der Mutter sind natürlich passiver Natur. (フロイト『女性の性愛 』第3章、1931年)

マゾヒズムはその根において、女性的受動的である。masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.(フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)


この三つの文からフロイトにおいて、乳幼児はみなマゾヒストとすることができる。


《女性的受動的》の「女性」とは、解剖学的な女性ではない。


男性的と女性的は、あるときは能動性と受動性の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている[Male and female are sometimes used in the sense of activity and passivity, sometimes in a biological and then also in a sociological sense.]。〔・・・〕


だが人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋な男性性または女性性[reine Männlichkeit oder Weiblichkeit]は見出されない。個々の人間はすべて、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆[Vermengung] をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との融合[Vereinigung von Aktivität und Passivität」をしめしている。(フロイト『性欲論三篇』第3章、1905年)



そして「不快=受動性=マゾヒズム」がラカンの享楽である。


◼️不快=享楽=マゾヒズム  

不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. (Lacan, S17, 11 Février 1970)


ここでの不快=享楽とはもちろん快原理の彼岸にあるリアルな快lustである。


我々は、フロイトが Lust と呼んだものを享楽と翻訳する。ce que Freud appelle le Lust, que nous traduisons par jouissance. (J.-A. Miller, LA FUITE DU SENS, 19 juin 1996)


ラカンにおいても他者の欲望の対象、つまり受動的対象におかれたら、人はみなマゾヒストとすることができる。


他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的である[que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste.] (ラカン、S10, 16 janvier 1963)


したがってやはり乳幼児はみなマゾヒストということになる。


享楽はその基盤においてマゾヒズム的である。La jouissance est masochiste dans son fond(ラカン、S16, 15 Janvier 1969)

享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムを含んでいる。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである。la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert, (Lacan, S23, 10 Février 1976)



要するに自我あるいは象徴界レベルでの不快な受動性は、身体あるいは現実界レベルでは快なのであり、母なる原大他者の享楽の対象におかれてなすがままにされたいということこそ究極の享楽の意志である。


大他者の享楽の対象になることが、本来の享楽の意志である。D'être l'objet d'une jouissance de l'Autre qui est sa propre volonté de jouissance…


問題となっている大他者は何か?…この常なる倒錯的享楽…見たところ、二者関係に見出しうる。その関係における不安…Où est cet Autre dont il s'agit ?    […]toujours présent dans la jouissance perverse, […]situe une relation en apparence duelle. Car aussi bien cette angoisse…


この不安がマゾヒストの盲目的目標である。que si cette angoisse qui est la visée aveugle du masochiste,(ラカン, S10, 6 Mars 1963)


ーー《欲動強迫[insistance pulsionnelle ]が快原理と矛盾するとき、不安と呼ばれる不快ある[il y a ce déplaisir qu'on appelle angoisse.]》(J.-A. MILLER,  Orientation lacanienne III, 6. - 02/06/2004)


ラカンの発言に《二者関係》とあった。フロイトを引用して確認しておこう。


最初の対象(母の乳房)は、のちに、母という人物のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者ersten Verführerin」になる。[Dies erste Objekt vervollständigt sich später zur Person der Mutter, die nicht nur nährt, sondern auch pflegt und so manche andere, lustvolle wie unlustige, Körperempfindungen beim Kind hervorruft. In der Körperpflege wird sie zur ersten Verführerin des Kindes. ]


この二者関係には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象として、後のすべての愛の関係性の原型としての母であり、それは男女どちらの性にとってもである。[In diesen beiden Relationen wurzelt die einzigartige, unvergleichliche, fürs ganze Leben unabänderlich festgelegte Bedeu-tung der Mutter als erstes und stärkstes Liebesobjekt, als Vorbild aller späteren Liebesbeziehungen ― bei beiden Geschlechtern. ](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、1939年)




フロイトをよく読んでいるのが明らかな「真のフェミニスト」カミール・パーリアが、どの男も女性的領域があると言っているのはこの意味である。


どの男も、母に支配された内部の女性的領域に隠れ場をもっている。男はそこから完全には決して自由になれない。(カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)


(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女というものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. (ラカン, S17, 11 Février 1970)


2021年3月12日金曜日

ニブクとオタク

 神経症者にもよいところは間違いなくあるだろうし、人がみなフェティシストである世界など成り立たない。フェティシストには一つのことを繰り返す習癖があり、神経症者は欲望の換喩的作用により絶えず関心が移行する。とはいえフェティシストの眼から神経症者を眺めるとニブク見えてしまうということはある。逆に神経症者からはフェティシストはたとえばオタク的に見えるんじゃないか。


◼️神経症者の囮の対象a(欲望の対象 l' objet du désir)

神経症の幻想のなかの対象a [cet objet(a) […]dans son fantasme le névrosé]…


神経症者は不安に対して防衛する。まさに「まがいの対象a[(a) postiche]」によって[défendre contre l'angoisse justement dans la mesure où c'est un (a) postiche]。…


この幻想のなかで機能する対象aは、神経症者の不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮である[Cet objet(a) fonctionnant dans leur fantasme… et qui sert de défense  pour eux contre leur angoisse …est aussi - contre toute apparence - l'appât ](Lacan, S10, 05 Décembre 1962)


◼️フェティシストの対象a(欲望の原因 la cause du désir)

対象a、欲望の原因としての対象aがある[l' objet(a), […]comme la cause du désir.]。

フェティッシュ自体の対象の相が、「欲望の原因」としての対象の相で現れる[fétiche comme tel, où se dévoile cette dimension  de l'objet comme cause  du désir]。  

フェティッシュとは、ーー靴でも胸でも、あるいはフェティッシュとして化身したあらゆる何ものかはーー、欲望される対象ではない。…そうではなくフェティッシュは欲望を引き起こす」対象である[Car ne n'est pas le petit soulier, ni le sein, ni quoi que ce soit où vous incarniez le fétiche, qui est désiré, mais le fétiche cause le désir] …


フェティシストは知っている、フェティッシュは「欲望が自らを支えるための条件」だということを[c'est que pour le fétichiste,  il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition  dont se soutient le désir. ](Lacan, S10, 16 janvier 1963)


◼️ジャック=アラン・ミレール注釈

ラカンはセミネール10「不安」にて初めて、対象-原因[objet-cause]を語った。彼はフェティシスト的倒錯のフェティッシュ[le fétiche de la perversion fétichiste]として、この欲望の原因としての対象 [objet comme cause du désir]を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである[le fétiche n'est pas désiré, mais il doit être là pour qu'il y ait désir]。これがフェティッシュとしての対象a[objet petit a]である。…


ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件としての対象[un objet qui est condition du désir]である。・・・倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、欲望自体の地位 [le statut du désir comme tel]を表している。…


不安セミネールでは、対象の両義性がある。原因しての対象[objet-cause ]と目標としての対象[objet-visée]である。前者が正当な対象[objet authentique]であり、常に知られざる対象[toujours l'objet inconnu]である。後者は偽の対象a[faux objet petit a]、アガルマ[agalma]である。(なぜならラカンが言うように《アガルマは大他者の領野に探し求められる[recherche de l'γαλμα [agalma] dans le champ de l'Autre]》(3 Juillet 1963)から)。


倒錯者の対象a(「欲望の原因 [la cause du désir])は主体の側にある。

神経症の対象a(「欲望の対象[l' objet du désir])は、大他者の側にある。


神経症者は自らの幻想に忙しいのである。彼らは夢見る。神経症者の対象aは、偽の対象a [petit a falsifié]、大他者への囮[appât pour l'Autre]である。神経症者は、まがいの対象a[petit a postiche]にて、「欲望の原因」としての対象aを隠蔽するのである。(J.-A. MILLER,  Orientation lacanienne III, 02/06/2004、摘要訳)


ーー《われわれが現実界という語を使うとき、この語の十全な固有の特徴は「現実界は原因である」となる。quand on se sert du mot réel, le trait distinctif de l'adéquation du mot : le réel est cause.》 (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 26/1/2011)


倒錯は対象a のモデルを提供する。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。


 c'est la perversion qui donne le modèle de l'objet petit a. Chez Lacan la perversion a servi aussi de modèle pour dire que dans les névroses c'est la même chose, mais que c'est brouillé, qu'on ne s'en aperçoit pas parce que c'est camouflé par les labyrinthes du désir, par le désir qui est en fait une défense contre la jouissance, et donc que dans les névroses, il faut en passer par l'interprétation.

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである。ここに、サントーム概念が見出される。


En tout cas, si on suit le modèle de la perversion, on n'en passe pas par le fantasme. La perversion met, au contraire, en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnement. Et c'est ce que retrouve le concept de sinthome. 


(神経症とは異なり倒錯においては)幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない[Ca ne se condense pas dans un lieu privilégié qu'on appelle le fantasme]。 (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)


ここでミレールは事実上、サントームと倒錯者の対象a(フェティッシュ )を等置している。1990年代にはーーおそらくミレール版のラカン不安セミネールを出版する際にこのセミネールを熟読する以前はーーフェティッシュはイマジネールな仮象としていたのだが。


対象aは現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある [l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant]。後者の対象aは、フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche]である。(J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993)


いわば「フェティッシュのインフレ」である。


サントームの定義はこうである。


サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (Miller, L'Être et l'Un- 30/03/2011)

サントームは反復享楽であり、S2なきS1[S1 sans S2](=固着Fixierung)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)


サントームとは「身体の出来事=固着」による反復享楽である。


サントームは固着である[Le sinthome est la fixation] (J.-A. Miller, L'ÊTRE ET L'UN - 30/03/2011、摘要

享楽の一者の純粋な反復をラカンはサントームと呼んだ。la pure réitération de l'Un de jouissance que Lacan appelle sinthome, (J.-A. Miller, L'ÊTRE ET L'UN - 30/03/2011)

私は、一者と享楽の結びつきが分析経験の基盤だと考えている。そしてこれが厳密にフロイトが固着と呼んだものである。je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. 〔・・・〕


フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、「享楽の一者がある」ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える。ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)



実際フロイトは、フェティッシュを記述する上で多くの場合、固着用語を使っている(参照)。


……………………


※付記


フェティッシュとはフロイトの定義上、穴埋めである。


フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である。der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) (フロイト『フェティシズム』1927年)



フェティッシュのポジションの移行についての鍵のひとつはーーいやむしろ「見せかけ semblant」という語を私が取り違えていただけでミレールは最初からわかっていたのかもしれないが、とはいえその記述は微妙でやはり曖昧なままだったように感じるーー、英語版セミネールⅩⅠの序文として1976年に書かれたオートルエクリの次の文であるだろう。


私はかつて、唯一の考えうる対象のイデー、欠如しているものとしての「欲望の原因」を生み出した。欠如の欠如が現実界を為す。それはただそこに、穴埋めとしてのみ顕われる。この穴埋めは、不可能という語によって支えられる。我々が現実界について知る僅かなことが示すのは、全ての「真の見せかけ vraisemblance」へのアンチノミーを指し示す。


Je l'ai fait d'avoir produit la seule idée concevable de l'objet, celle de la cause du désir, soit de ce qui manque. Le manque du manque fait le réel, qui ne sort que là, bouchon. Ce bouchon que supporte le terme de l'impossible, dont le peu que nous savons en matière de réel, montre l'antinomie à toute vraisemblance. (Lacan, AE573, 17 mai 1976)



コレット・ソレールの注釈を二文掲げる。


穴埋めとしての現実界、これがラカンのこのテキストが言っていることである。現実界の無意識は閉じられた無意識である。現実界の戦慄は穴埋めであり、たんに去勢の戦慄ではない。le réel comme bouchon ; c'est ce que dit le texte. […] l'inconscient réel est un inconscient fermé.[…] C'est horreur du réel bouchon et pas seulement horreur de la castration. (Colette Soler, L'acte analytique dans le Champ lacanien 2009)

疑いもなく最初の場処には、去勢という享楽喪失の穴がある。〔・・・〕しかしながら、この穴を開けられた現実界にはまた、享楽の固着という穴埋めがある。〔・・・〕この固着をラカンは時に文字と呼んだ。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. […] Dans ce réel troué, cependant il y a aussi le bouchon d'une fixion de jouissance […] que Lacan appelle lettre à l'occasion. . (コレット・ソレール Colette Soler, La passe réinventée ? , 2010)


「文字」とある。これが固着としての骨象aである。要するに身体に突き刺さった骨のことだろう。


私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字[la lettre]、文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴[trait unaire] 、つまり[einziger Zug]について話した時からである。


…quelque chose que j'appellerai dans cette occasion : « osbjet  », qui est bien ce qui caractérise  la lettre dont je l'accompagne cet « osbjet  », la lettre petit a.   …que j'ai en somme promue  la première fois que j'ai parlé du trait unaire  :  einziger Zug  dans FREUD.  (Lacan, S23, 11 Mai 1976)

後年のラカンは「文字理論」を展開した。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは、身体の上への欲動の刻印[inscription of the drive on the body]を理解するラカンなりの方法である。(Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)



コレット・ソレールは最近でも繰り返している。


精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状・シニフィアンと享楽の結合としての症状である。〔・・・〕現実界の到来は文字固着を通して起こる。l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion, coalescence de signifant et de jouissance;[…] L' avènement de réel se fait par sa lettre-fixion〔・・・〕


現実界のすべての定義は次の通り。常に同じ場かつ象徴界外に現れるものーーなぜならそれ自身と同一化しているため--であり、反復的でありながら、差異化された他の構造の連鎖関係なきものである。Toutes les définitions du réel s'y appliquent : toujours à la même place, hors symbolique, car identique à elle-même ; réitérable mais sans rapport de chaîne à d'autre Sa(Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)


つまり常に同じ場処に回帰する固着=穴埋めとしての現実界についてラカン派内でさえまだ十分には認知されていないということだ。上に引用したミレール2011にもあったように、《固着点は…常に同じ場処に回帰する》、これが現実界の定義の核である。


現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる。le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »  (Lacan, S16, 05  Mars  1969 )



そして日常的観察レベルでは、「常に同じ場処に回帰するもの」とはフェティッシュが代表的なものなのではないか。ミレール2009には《神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮によって偽装され曇らされているから。》とあったが、明らかに神経症だなと思われる人でも、ふとその人の「常に同じ場処に回帰するもの」に気づいてしまったという「錯覚に閉じ籠もり得る」ときがある。それをフェティッシュと呼ぶべきか否かは保留するとしても。




2021年3月11日木曜日

唐津の道祖神

 世界はこういう風に出来上がってんだよ、唐津の道祖神みたいにさ。




ようするにこうだな



問題はファルスでヴァギナ埋めするけど、

女という残滓(異者)が必ずあるってことだな




簡単にいってしまえば、フロイトラカン理論ってこういうことだよ

➡︎「ファルスの意味作用と残滓


でも上から考えるか下から考えるかの相違はある。アンコールの性別化の式は上からの思考。ファルスの彼岸には女性の享楽があるってわけだから。


アンコール以後の晩年のラカンは下から考えるようになった。つまりファルスはヴァギナに対する防衛。

これは誰も言ってる人はいないが、いくらか上品な言い方をすれば、


ファルス享楽は女性の享楽に対する防衛[la jouissance phallique est defense contre la jouissance féminine]


だな。こっちが正当的だね


女性の享楽は究極的には穴の享楽だ。こんなの彼岸にあるわけじゃない、ベースはこっちだ。


神経症的ラカン派だけだ、いまだ上から考えてるのは。


2021年3月10日水曜日

精神統一病文献


統合失調症は解体の危機をかけてでも一つの人格を守ろうとする悲壮なまでの努力です。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

「精神分裂病」〔・・・〕。精神科医の神田橋條治氏は,精神を無理にでも統一しようとして失調するのだから「精神統一病」と名づけるべきだと主張していたが、これは単なる逆説ではなく,「統合失調症」の思想を先取りしていた。(中井久夫「「統合失調症」についての個人的コメント」初出「精神看護」2002年3月号)


………………


外界とはもはや何の交流もない最も重度の分裂病者は、彼ら自身の世界に生きている。彼らは、叶えられたと思っている願望や迫害されているという苦悩を携えて繭の中に閉じこもるのである。彼らは可能なかぎり、外界から自らを切り離す。この「内なる生 」の相対的、絶対的優位を伴った現実からの遊離を、われわれは自閉症と呼ぶ。


Die schwersten Schizophrenien, die gar keinen Verkehr mehr pflegen, leben in einer Welt für sich; sie haben sich mit ihren Wünschen, die sie als erfüllt betrachten, oder mit den Leiden ihrer Verfolgung in sich selbst verpuppt und beschranken den Kontakt mit der Außenwelt so weit als möghch. Diese Loslösung von der Wirklichkeit zusammen mit dem relativen und absoluten Uberwiegen des Binnenlebens nennen wir Autismus.(オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)


註)自閉症はフロイトが自体性愛と呼ぶものとほとんど同じものである。Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt.


しかしながら、フロイトが理解するリビドーとエロティシズムは、他の学派よりもはるかに広い概念なので、自体性愛という語はおそらく多くの誤解を生まないままでは使われえないだろう。Da absr für diesen Autor Libidound Erotismus viel weitere Begriffe sind als für andere Schulen, so kann das Wort hier nicht wohl b3nutzt werden, ohne zu vielen Mißverständnissen Anlaß zu geben.  (オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)


………………


ナルシシズム的精神神経症、つまり分裂病 [narzißtischen Psychoneurosen: der Schizophrenien](フロイト『欲動とその運命』1915年)

ナルシシズム的とは、ブロイラーならおそらく自閉症的と呼ぶだろう[narzißtischen ― Bleuler würde vielleicht sagen: autistischen] (フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)



ナルシシズムと呼ばれるものの深淵な真理[la vérité profonde de ce que nous appelons le narcissisme]。享楽自体は、自体性愛・自己身体のエロスに取り憑かれている[La jouissance comme telle est hantée par l'auto-érotisme, par l'érotique de soi-même]。そしてこの根源的な自体性愛的享楽[cette jouissance foncièrement auto-érotique]は、障害物によって徴づけられている。根底は、去勢と呼ばれるものが障害物の名である。この去勢が自己身体の享楽の徴である。[Au fond, ce qu'on appelle la castration, c'est le nom de l'obstacle qui marque la jouissance du corps propre. ](J.-A. Miller, Introduction à l'érotique du temps, 2004)

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである。〔・・・〕ラカンはこの自体性愛的性質を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体に拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である。Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance, et plus précisément, comme je l'ai accentué cette année, par sa jouissance, qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme. […] Lacan a étendu ce caractère auto-érotique  en tout rigueur à la  pulsion elle-même. Dans sa définition lacanienne, la pulsion est auto-érotique. (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)



享楽は去勢である [la jouissance est la castration](Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

超自我を除いては、何ものも人を享楽へと強制しない。超自我は享楽の命令である、 「享楽せよ jouis!」と。Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi.  Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : jouis ! 〔・・・〕


「享楽せよ!」と命令する超自我は、去勢と相関関係がある。le surmoi, tel que je l'ai pointé tout à l'heure du « jouis ! », est corrélat de la castration  (Lacan, S20, 21 Novembre 1972 )



症状の享楽は自体性愛的である。この症状が超自我の核である。La jouissance du symptôme est auto-érotique. […]C'est ce nexus-là qu'on a appelé le surmoi. (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 MARS 1982)

症状は固着である。Le symptôme, c'est la fixation (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 - 26/03/2008)


➡︎固着=我々の存在の核[ Kern unseres Wesen]



超自我と原抑圧(=固着)との一致がある。il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire.    . (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)

抑圧の第一相ーー原抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe]ーーは、固着[Fixierung]である。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


ーー《私は病気だ。なぜなら、皆と同じように、超自我をもっているから。j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde》(Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


超自我は斜線を引かれた主体$と書きうる le surmoi peut s'écrire $ (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)

ラカンの主体はフロイトの自我分裂を基盤としている。Le sujet lacanien se fonde dans cette « Ichspaltung » freudienne.  (Christian Hoffmann Pas de clinique sans sujet, 2012)


欲動要求と現実の拒否のあいだに矛盾があり、この二つの相反する反応が自我分裂の核として存続する。Es ist also ein Konflikt zwischen dem Anspruch des Triebes und dem Einspruch der Realität. …Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen. (フロイト『防衛過程における自我分裂』1939年)


自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (J.-A. MILLER, -Lacan- 07/03/2007)

享楽の核は自閉症的である。Le noyau de la jouissance est autiste   (Françoise Josselin『享楽の自閉症 L'autisme de la jouissance』2011)




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オイゲン・ブロイラーが生きていたら、「統合失調症」に賛成するだろう。彼の弟子がまとめたブロイラーの基本障害である四つのAすなわちAmbivalenz(両価性)は対立する概念の、一段階高いレベルにおける統合の失調であり、Assoziationslockerung(連合弛緩)は概念から概念への(主として論理的な)「わたり」を行うのに必要な統合の失調を、Affektstorung(感情障害)は要するに感情の統合の失調を、そして自閉(Autismus)は精神心理的地平を縮小することによって統合をとりもどそうと試みて少なくとも当面は不成功に終わっていることをそれぞれ含意しているからである。 

ブロイラーがこのように命名しなかったのは、よいギリシャ語を思いつかなかったという単純な理由もあるのかもしれない。「統合失調症」を試みにギリシャ語にもとずく術語に直せば、syntagmataxisiaかasyntagmatismusとなるであろう。dyssyntagmatismusのほうがよいかもしれない。「統合失調症」は「スキゾフレニア」の新訳であるということになっているが無理がある。back translation(逆翻訳)を行えばこうだと言い添えるほうが(一時は変なギリシャ語だとジョークの種になるかもしれないが)結局は日本術語の先進性を示すことになると思うが、どうであろうか。(中井久夫『関与と観察』2002年)


サリヴァンは「人間は意識と両立しないものを絶えずエネルギーを注いで排除しているが、排除するエネルギーがなくなると排除していたものがいっせいに意識の中に入ってくるのが急性統合失調症状態だ」と言っています。自我の統一を保つために排除している状態が彼の言う解離であり、これは生体の機能です。この生体の機能は免疫学における自己と非自己維持システムに非常に似ていて、1990年代に免疫学が見つけたことを先取りしています。解離されているものとは免疫学では非自己に相当します。これを排除して人格の単一性(ユニティ)を守ろうとするのです。統合失調症は解体の危機をかけてでも一つの人格を守ろうとする悲壮なまでの努力です。統合失調症はあくまで一つの人格であろうとします。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)






◼️「統合失調症」についての個人的コメント(中井久夫、2002年3月18日)

「精神分裂病」の名を改めることは以前から日本精神神経学会で決められていたが,「スキゾフレニア」「クレペリン・ブロイラー症候群」「統合失調症」の中から「統合失調症」が選ばれた。本年8月に横浜で開かれる世界精神医学会で公表して本決まりになるという。しばらくは過渡期で2つの用語が並べて書かれるだろうが,世代が新しくなるとともに新しい用語が浸透していくのが趨勢であろう。


選ばれたいきさつを詳しくは知らないが,患者・家族の希望が強かったと聞いている。一面大の新聞広告を打って広く社会に意見を求めたのもこれまでになかったことで,プロセスをまず評価したい。


なるほど「スキゾフレニア」は国際的な呼称に足並みを揃えるという点では他に抜きんでている。しかし,患者,家族,一般公衆には呪文のように感じられるであろう。それに,形容詞にするとどうなるか。「スキゾフレニア的」「スキゾフレニック」,いずれも冗長に過ぎないか。おそらく時間の経つうちに「スキゾ的」「S的」となっていくのではないか。それならば名称も最初から「スキゾ障害」とすればよいのではと思って提案してみたこともある(『最終講義』みすず書房,1998年)。もっとも,「スキゾ的」ということばは,フランスの哲学者がすでに少し違った意味に使っていて,勉強している精神科医は知っているから,それが妨げになるだろう。いずれも,公衆から遊離しているという批評は甘受せねばならなかったところだ。


「クレペリン・ブロイラー症候群」は,創見者の名をとったもので「ハンセン病」と同じ手法である。これは「ブロイラー」がカナ書きでは食用鶏と同じであるから困ると,患者・家族側からの他に食用鶏飼育業の協会から異論があったと聞いている。もう1つ,クレペリンの概念は狭く,ブロイラーの概念は広い。だからドイツの大学の回診ではMorbus Kraepelin(Morbusはラテン語で「病い」)とMorbus Bleulerということばを使って区別しているそうである(木村敏氏の教示による)。この場合も形容詞に困り,おそらく「KB病的」となっていくのではないか。


 「統合失調症」については,異論はいろいろありうるだろう。躁病もうつ病も統合の失調ではないか。神経症や人格障害はどうなんだ,というふうに。また,認知行動障害として精神障害をとらえる見方に偏りすぎていないかという考え方もあるだろう。

しかし,私はいま,全体として進歩であると評価する立場に立つ。


 いかにも,統合失調はこれまで「分裂病」と呼んできたものに限らない。しかし,では「不安」は「不安神経症」に限られたものであるか。「糖尿病」など,尿に糖が出るかどうかは第二義的なことではないか。しょせん病名とはそういうものと割り切るしかなく,あまりな見当はずれや社会的に差別偏見を助長するものを避ければよいのである。「精神分裂病」はSchizophreniaの「直訳」とはいえ,日本語にすると,多重人格と受けとられかねない。見当はずれと偏見助長の2つの罪は,やはりまぬがれなかったであろう。精神科医の神田橋條治氏は,精神を無理にでも統一しようとして失調するのだから「精神統一病」と名づけるべきだと主張していたが,これは単なる逆説ではなく,「統合失調症」の思想を先取りしていた。


「統合失調症」とともに,この障害のとらえ方の重心は,はっきり機能的なものに移った。この重心移動は当面は名目的なものであるかもしれないが,やがてじわじわと効いてくるだろう。


 「失調」は,「発病」「発症」の代わりにすでに使われていたことばである。患者・家族への説明,あるいは治療関係者同士の会話では日常語であったと言ってよい。「失調」は「精神のバランスが崩れる」という意味である。「回復の可能性」を中に含んでいることばである。「希望」を与えることばは,患者・家族の士気喪失を防ぐ力がある。治療関係者も希望を示唆することばを使うほうが,治療への意欲が強まるだろう。


実を言うと,カルテに,診断書に,文章に「精神分裂病」と書くたびに,これは書く私の心臓にもよくないと思ったものであった。患者・家族に告げる時には「健康なところもいっぱいあるよ」という当たり前のことをわざわざ付け加えなければならなかった。


 患者・家族の身になってみると,「精神分裂病」が絶望を与えるのに対して,「統合失調症」は,回復可能性を示唆し,希望を与えるだけでなく,「目標」を示すものということができる。


「統合」とは,ひらたく言えば「まとまり」である。まず「考えのまとまり」であり,「情のまとまり」であり,「意志のまとまり」である。その「バランス」を回復するという目標は,「幻覚や妄想をなくする」という治療目標に比べて,はるかによい。まず「幻覚・妄想をなくする」という目標に対しては,患者・家族はどう努力してよいかわからなくて,困惑し,受身的になってしまう。これが病いをいっそう深くする悪循環を生んでいたのではないか。これに対して,「知情意のまとまりを取り戻してゆこう」という目標設定に対しては,患者ははるかに能動的となりうる。家族・公衆の困惑も少なくなるだろう。患者と医療関係者との話し合いも,患者の自己評価も,家族や公衆からの評価も,みな同じ平面に立って裏表なしにできる。誰しも時には考えのまとまりが悪くなり,バランスを失うことがあるはずであるから,病いへの理解も一歩進むだろう。


また,治療関係者間のコミュニケーションも,この比重移動によって格段によくなるのではないか。看護日誌も幻聴や妄想の変動を中心にすることから,「考えのまとまり」をたずね,「感情のまとまり」「したいこと(意志)のまとまり」をたずねるほうが前面に出てくるだろう。そうなれば,医師や臨床心理士,ケースワーカーとのコミュニケーション,あるいは家族との語り合いも,同じ平面に立ち,実りあるものとなっていくと思う。


 せっかく名を変えるのである。これは名を変えることの力がどれだけあるかという,1つの壮大な実験である。実験であるが,同時にキャンペーンでもある。できるだけ稔りあるものにしたいと思う。


時間を50年遡って,垢だらけで来る日も来る日も病棟の片隅に突っ立ったり,うずくまっている患者たち,隔離室でまるで軽業のような極端な姿勢を何年もつづけている患者たちを「分裂病」の典型とみていた時には「統合失調症」という名称は思いつかなかったであろう。

 

確かに何かが変わった。「分裂病の軽症化」は,すでに1960年ごろから,その徴候があった。軽症化の原因にはあれこれがあげられているが,一般に物事の改善は何か1つの突出した変化では起こらず,多種多様な条件が次第に揃っていくことによって起こる。手さぐりもあり,迷いもあり,逆流があっても,患者,治療者,家族,公衆の改善への努力と,環境の変化があってのことであろう。それが逆戻りしないように,私たちは気を抜かないでいこうではないか。


そして名称が楽観主義的に変わっても,「失調」の時の恐怖――「それに比べれば神戸の地震など何でもない」ような恐怖――,そしてこれに続くやりきれない疲労,さらに長年病む者に起こる心の萎縮(ちぢかみ)を決して軽視しないようにしたい。


 私たち医療関係者は,「統合失調症」患者の知情意の「再統合」を妨げる要因を見定めて,できるだけそれを取り除いていくことが大きな課題となってくる。もう1つの大きな課題は,患者の病いにともなって普段よりこうむりやすくなっている心の傷を最小限にすることである。これは医療関係者とともに家族,公衆の課題でもある。

最後に,軽症化と言っても,すでに慢性状態に入り込んだ方々の失われた時間を取り戻すことはできない。「失調」を起こす人の全部が軽症にとどまるという保証もまだない。せめてこの人たちの生活の質(QOL)を高めていくこともまた,名称変更の際に忘れては決してならない課題である。(中井久夫「「統合失調症」についての個人的コメント」初出「精神看護」2002年3月号)


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治療はいつも成功するとは限らない。古い外傷を一見さらにと語る場合には、防衛の弱さを考える必要がある。〔・・・〕統合失調症患者の場合には、原外傷を語ることが治療に繋がるという勇気を私は持たない。


統合失調症患者だけではなく、私たちは、多くの場合に、二次的外傷の治療を行うことでよしとしなければならない。いや、二次的外傷の治療にはもう少し積極的な意義があって、玉突きのように原外傷の治療にもなっている可能性がある。そうでなければ、再演であるはずの二次的外傷が反復を脱して回復することはなかろう。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)



一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



異物概念自体、フロイトではなくブロイラー起源である。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 [Fremdkörper] のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß.(フロイト&ブロイラー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

疎外(異者分離Entfremdungen)は注目すべき現象である。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察される。現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自己自身が異者のように現れるかである。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, […] Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs.(フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年)


現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


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(心的装置に)同化不能の部分モノdas Ding)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案Entwurf einer Psychologie』1895年)

現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式の下にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン, S11, 12 Février 1964)

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

このモノは分離されており、異者の特性がある。ce Ding […] isolé comme ce qui est de sa nature étranger, fremde.  …モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)



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異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

いかに同一のものの回帰という不気味なものが、幼児期の心的生活から引き出しうるか。〔・・・〕心的無意識のうちには、欲動蠢動から生ずる反復強迫の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。〔・・・〕不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫を思い起こさせるものである。


Wie das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr aus dem infantilen Seelenleben abzuleiten ist  […]Im seelisch Unbewußten läßt sich nämlich die Herrschaft eines von den Triebregungen ausgehenden Wiederholungszwanges erkennen, der wahrscheinlich von der innersten Natur der Triebe selbst abhängt, stark genug ist, sich über das Lustprinzip hinauszusetzen, gewissen Seiten des Seelenlebens den dämonischen Charakter verleiht,[…] daß dasjenige als unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年)


異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)




エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異物は内界にある自我の異郷部分である。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)