◼️不快=受動性=マゾヒズム |
原初の不快の経験は受動性である。primäres Unlusterlebnis […] passiver Natur (フロイト、フリース宛書簡 Briefe an Wilhelm Fließ, Dezember 1895) |
母のもとにいる幼児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質のものである。Die ersten sexuellen und sexuell mitbetonten Erlebnisse des Kindes bei der Mutter sind natürlich passiver Natur. (フロイト『女性の性愛 』第3章、1931年) |
マゾヒズムはその根において、女性的受動的である。masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.(フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年) |
この三つの文からフロイトにおいて、乳幼児はみなマゾヒストとすることができる。 《女性的受動的》の「女性」とは、解剖学的な女性ではない。 |
男性的と女性的は、あるときは能動性と受動性の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている[Male and female are sometimes used in the sense of activity and passivity, sometimes in a biological and then also in a sociological sense.]。〔・・・〕 だが人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋な男性性または女性性[reine Männlichkeit oder Weiblichkeit]は見出されない。個々の人間はすべて、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆[Vermengung] をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との融合[Vereinigung von Aktivität und Passivität」をしめしている。(フロイト『性欲論三篇』第3章、1905年) |
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そして「不快=受動性=マゾヒズム」がラカンの享楽である。 |
◼️不快=享楽=マゾヒズム |
不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. (Lacan, S17, 11 Février 1970) |
ここでの不快=享楽とはもちろん快原理の彼岸にあるリアルな快lustである。 |
我々は、フロイトが Lust と呼んだものを享楽と翻訳する。ce que Freud appelle le Lust, que nous traduisons par jouissance. (J.-A. Miller, LA FUITE DU SENS, 19 juin 1996) |
ラカンにおいても他者の欲望の対象、つまり受動的対象におかれたら、人はみなマゾヒストとすることができる。 |
他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的である[que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste.] (ラカン、S10, 16 janvier 1963) |
したがってやはり乳幼児はみなマゾヒストということになる。 |
享楽はその基盤においてマゾヒズム的である。La jouissance est masochiste dans son fond(ラカン、S16, 15 Janvier 1969) |
享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムを含んでいる。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである。la jouissance c'est du Réel. …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert, (Lacan, S23, 10 Février 1976) |
要するに自我あるいは象徴界レベルでの不快な受動性は、身体あるいは現実界レベルでは快なのであり、母なる原大他者の享楽の対象におかれてなすがままにされたいということこそ究極の享楽の意志である。 |
大他者の享楽の対象になることが、本来の享楽の意志である。D'être l'objet d'une jouissance de l'Autre qui est sa propre volonté de jouissance… 問題となっている大他者は何か?…この常なる倒錯的享楽…見たところ、二者関係に見出しうる。その関係における不安…Où est cet Autre dont il s'agit ? […]toujours présent dans la jouissance perverse, […]situe une relation en apparence duelle. Car aussi bien cette angoisse… この不安がマゾヒストの盲目的目標である。que si cette angoisse qui est la visée aveugle du masochiste,(ラカン, S10, 6 Mars 1963) |
ーー《欲動強迫[insistance pulsionnelle ]が快原理と矛盾するとき、不安と呼ばれる不快ある[il y a ce déplaisir qu'on appelle angoisse.]》(J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6. - 02/06/2004) ラカンの発言に《二者関係》とあった。フロイトを引用して確認しておこう。 |
最初の対象(母の乳房)は、のちに、母という人物のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者ersten Verführerin」になる。[Dies erste Objekt vervollständigt sich später zur Person der Mutter, die nicht nur nährt, sondern auch pflegt und so manche andere, lustvolle wie unlustige, Körperempfindungen beim Kind hervorruft. In der Körperpflege wird sie zur ersten Verführerin des Kindes. ] この二者関係には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象として、後のすべての愛の関係性の原型としての母であり、それは男女どちらの性にとってもである。[In diesen beiden Relationen wurzelt die einzigartige, unvergleichliche, fürs ganze Leben unabänderlich festgelegte Bedeu-tung der Mutter als erstes und stärkstes Liebesobjekt, als Vorbild aller späteren Liebesbeziehungen ― bei beiden Geschlechtern. ](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、1939年) |
フロイトをよく読んでいるのが明らかな「真のフェミニスト」カミール・パーリアが、どの男も女性的領域があると言っているのはこの意味である。 |
どの男も、母に支配された内部の女性的領域に隠れ場をもっている。男はそこから完全には決して自由になれない。(カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年) |
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(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女というものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。…une dominance de la femme en tant que mère, et : - mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme. La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. (ラカン, S17, 11 Février 1970) |