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2021年9月17日金曜日

いまも生きる「歴史の終わりと最後の人間」

 フランシス・フクヤマの『歴史の終わりと最後の人間 』(Fukuyama1992))とサミュエル・ハンティントンの『文明の衝突と世界秩序の再形成』(Hungtington1996))という1990年代に出版された書物があって、フクヤマのほうは市場経済と自由主義の勝利」、ハンティントンのほうは「民族宗教紛争、そしてイスラムのテロと米国の戦争」を主に語っていることになっている(私は読んだことがないが)。

この二書は、かつては世界の政治経済をめぐる論議の準拠枠となっていたことは確かだが、今でもそういう部分があるようだ。国際政治学者の中山俊宏はこう書いている。


9.11戦争」の終焉と20年に及ぶ介入主義の徒労感 アメリカはどこで間違ったのか ~アフガンから消えた米軍、消えぬ国際テロへの脅威~ (中山俊宏、2021910日)

9.11テロ攻撃は「歴史からの小休止」といわれたポスト冷戦時代に終止符を打った事件だった。90年代は歴史の終焉論が唱えられ、歴史が終わった世界では、もはや世界史的な事件は起きず、非歴史的な日常の連続で、人々は倦怠感と共に生きていく術を学んでいくしかないといわれた。


フランシス・フクヤマが唱えた歴史の終焉論は、冷戦におけるアメリカの勝利を礼賛したものと解されたが、実はフクヤマはこうした倦怠の中から生まれてくるであろう「末人」の危険性についても論じていた。末人はニーチェ哲学の中核にある概念だが、ここでは単に単調な日常を淡々と繰り返すことに満足する「意味を模索しない人間」とでもしておく。



Youtubeでも、細谷雄一を司会とした「911テロかいうら20年」という議論で、中山俊宏、池内恵、篠田英朗は、フクヤマの名を出している。この四人とも1970年前後に生まれ専門研究者として出発しつつあった時期に911が起こったわけで、911世代の同窓会の議論だとも口にしている。


で、フクヤマの『歴史の終わり』ってのは何だっけな。浅田彰は1992年のたぶん末だと思うが、フクヤマと対談しており、『「歴史の終わり」と世紀末の世界』の第1章に「歴史の終わり?ーーフランシス・フクヤマとの対話」との名で掲げられている。

冒頭に実にすぐれて簡潔な紹介文がある。

1989年の夏、一篇の論文が世界的なセンセーションを巻き起こした。フランシス・フクヤマの「歴史の終わり?」(「ナショナルインタレスト」夏期号)である。へーゲルによれば、歴史とは、異なったイデオロギーを奉ずる者たちの繰り広げる闘争の歴史である。したがって、そのような闘争が終われば、歴史は終わる。さて、自由主義は全体主義と共産主義を相手に闘争を続けてきたが、第二次世界大戦で全体主義が敗北し、旧ソ連東欧ブロックの崩壊で共産主義が敗北しつつあるいま、その闘争は事実上終局に達した。むろん、今後も局地的な戦いはあるだろうが、全体主義や共産主義のように自らの普遍性を主張するイデオロギーに基づいたグローバルな闘争はもうないだろう。とすれば、歴史は自由主義の勝利をもって終わったと言うことができる。実のところ、このような議論は、戦前へーゲル哲学をフランスに導入したアレクサンドル・コジェーヴがすでに展開していたもので、フクヤマはコジェーヴに学んだ師のアラン・ブルームを経由してそれを継承したのだとも言える。


それにしても、フクヤマ論文の発表はいかにもタイムリーだった。その直後に東欧諸国がなだれをうって民主化し、やがて旧ソ連さえ共産主義体制の崩壊を迎えたからである。さらに、著者のフクヤマがアメリカ国務省の政策立案スタッフだったことも、その論文に特別な意味を与えた。つまり、それは冷戦に勝ち抜いた自由主義陣営の「勝利宣言」として世界に受け取られたのである。


いささかアイロニカルなのは、そのフクヤマ自身が日系人だということだろう。ちなみに、祖父は大阪商科大学(大阪市立大学の前身)の初代学長をつとめた河田嗣郎であり、フクヤマが相続することになるその蔵書はマルクスの「資本論」の初版を含んでいるという。1952年にシカゴで生まれたフクヤマは、コーネル大学で西洋古典学、イェール大学で比較文学を修めたあと、ハーヴァード大学でソ連問題の研究に従事した。国務省を退いたあとは、有力なシンク・タンクであるランド・コーポレーションに移って研究を続け、論文で提出した論点をさらに展開して、1992年には 『歴史の終わりと最後の人間』(邦訳「歴史の終わり」三笠書房)という書物をまとめるにいたっている。(浅田彰『「歴史の終わり」と世紀末の世界』第1章 歴史の終わり?「フランシス・フクヤマとの対話」1993年)



そしてこの対話の最後は次のように終わる。


フクヤマ)こうして話してきてはっきりしたことですが、私は「歴史の終わり」を今もって仮説として考えているということを強調しておく必要があります。私の最初のエッセイのタイトルは「歴史の終わり?」だったのに、本のタイトルは疑問符なしの「歴史の終わり」になっているものだから、「フクヤマは自分の意見への確信を深め、もはや問いではなく肯定命題を述べている」と受けとめる人たちがいる。それは間違いです。「歴史の終わり」は今も基本的に未解決の問いなのです。


今までに見てきた通り、現代の世界にはさまざまな不確定要因があります。また、自由民主主義が本当に満足すべき最終解決がどうか、それに代わり得る別の根本的なシステムをわれわれがまだ予見できないでいるだけなのかどうかも、わかりません。ただ、人間の本性とこれまでの歴史を考察したかぎりでは、それが最終解決ではないかという問いを提起すべき理由がある。それはわれわれの社会の基本にかかわる重要な問いである以上、現代の中心的問題として問われるべきだと思ったのです。それが私の議論の核心です。


浅田) ミネルヴァのフクロウは黄昏時に飛ぶ、とヘーゲルは言っています。何かを理解すること、それも、それまでの過程の必然的結果として目的論的に理解することは、それを終わったあとから見ることなのです。しかし、それは観念論的な倒錯ではないか。本当は終わりのない過程をそのつど終わったことにして考えているだけではないか。実際、「歴史の終わり」を、ヘーゲルはナポレオンによるイエナの戦いに見たし、コジェーヴは第二次世界大戦の終わりに見たし、あなたは冷戦の終わりに見たわけですが、これは同じ観念論的結論の絶えざる繰り延べのようにも見えます。


フクヤマ)しかし、私たちはみな同じことを言っているのだと思います。重要なのは、自由民主主義の原理がフランス革命によって打ち立てられ、ナポレオンによってヨーロッパに広められたということです。イエナの戦いは、それ自体として重要なのではなく、そのシンボルとして重要なのです。そして、コジェーヴの言ったのは、イエナの戦いに「歴史の終わり」を見たヘーゲルは基本的に正しかった、それ以後のさまざまな革命や世界大戦にもかかわらず、原理の面では本質的に何も変わっていない、ということでした。私の言っていることもコジェーヴとまったく同じで、一九八九年という年に特別なことが起こったと言っているのではないのです。もちろん冷戦の終わりは大きな歴史的事件ですが、世界史を通してみればこの規模の事件は他にもたくさんあります。ただ、そこで起こったことは、フランス革命の提起した解決が二百年をへてなお唯一ひろく受け入れられる解決だということがはっきりした、ということなのです。


浅田 )ただ、 あなたの場合、それも仮説であって、結論ではない。


フクヤマ)そう、私の議論は基本的にオープンです。歴史は終わったと信ずべき強力な根拠があるけれど、それが誤った結論である可能性にも目を閉ざしてはならない。こう言うだけでは哲学的に満足のいく答えとは言えないかもしれません。しかし、知的な誠実さから言えば、私はそれが唯一可能な答えだと思うのです。

(「SAPIO 一九九三年一月一四日号。一月二八日-二月一一日合併号。二月二五日号)




五歳違いだけのフクヤマと浅田だが、浅田はフクヤマにかなり突っ込んだ批判的問いを提出しており、いま読んでも面白い。ボクはこの対話を読んで、『歴史の終わり』はもう読まなくていいな、と思ってしまったね。


ま、でも世界は最後の人間(末人)ばかりになっちまったというのは、政治学者でも一緒だな、ジジェクの観点では、と付記しておくが。


フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』をバカにするのが流行だが、現実には左翼でさえフクヤマ主義者ではないだろうか。資本主義の継続、国家機構の継続を疑う者はいない。かつては「人間の顔をした社会主義」を求めたのに、今の左翼は「人間の顔をした世界資本主義」で妥協する。それでいいのか?(ジジェク インタビュー、by AMY GOODMAN, 2008


あの同窓会の四人組ーー相対的にはきわめて優れた政治学者たちだがーー、連中も末人だよ、結局。浅田彰も自らを末人に過ぎないと言ってるいる。



私は君達に言う、踊る星を生むことが出来るためには、人は自分のうちに混沌を持っていなければならない。私は君達に言う、君達は自分のうちにまだ混沌を持っている。


Ich sage euch: man muß noch Chaos in sich haben, um einen tanzenden Stern gebären zu können. Ich sage euch: ihr habt noch Chaos in euch.


災いなるかな! 人間がいかなる星も生まなくなる時代が来る。

災いなるかな! 自分自身を軽蔑できない、最も軽蔑すべき人間の時代が来る。


Wehe! Es kommt die Zeit, wo der Mensch keinen Stern mehr gebären wird. Wehe! Es kommt die Weit des verächtlichsten Menschen, der sich selber nicht mehr verachten kann.


見よ! 私は君達に末人を示そう。

『愛って何? 創造って何? 憧憬って何? 星って何?』こう末人は問い、まばたきをする。


Seht! Ich zeige euch den letzten Menschen.

«Was ist Liebe? Was ist Schöpfung? Was ist Sehnsucht? Was ist Stern» – so fragt der letzte Mensch und blinzelt.


そのとき大地は小さくなっている。その上を末人が飛び跳ねる。末人は全てのものを小さくする。この種族はノミのように根絶できない。末人は一番長く生きる。


Die Erde ist dann klein geworden, und auf ihr hüpft der letzte Mensch, der Alles klein macht. Sein Geschlecht ist unaustilgbar, wie der Erdfloh; der letzte Mensch lebt am längsten.


『われわれは幸福を発明した』こう末人たちは言い、まばたきをする。

彼らは生き難い土地を去った、温かさが必要だから。彼らはまだ隣人を愛しており、隣人に身体を擦りつける、温かさが必要だから。


«Wir haben das Glück erfunden» – sagen die letzten Menschen und blinzeln.

Sie haben den Gegenden verlassen, wo es hart war zu leben: denn man braucht Wärme. Man liebt noch den Nachbar und reibt sich an ihm: denn man braucht Wärme.


病気になることと不信をもつことは、かれらにとっては罪である。かれらは歩き方にも気をくばる。石につまずく者、もしくは人につまずく者は愚者とされる。


Krankwerden und Mißtrauen-haben gilt ihnen sündhaft: man geht achtsam einher. Ein Thor, der noch über Steine oder Menschen stolpert!


ときおり少しの毒、それは快い夢を見させる。そして最後は多量の毒、快い死のために。


Ein wenig Gift ab und zu: das macht angenehme Träume. Und viel Gift zuletzt, zu einem angenehmen Sterben.


かれらもやはり働く。というのは働くことは慰みになるからだ。しかしその慰みが身をそこねることがないように気をつける。


Man arbeitet noch, denn Arbeit ist eine Unterhaltung. Aber man sorgt daß die Unterhaltung nicht angreife.


かれらはもう貧しくなることも、富むこともない。両者ともに煩わしすぎるのだ。もうだれも統治しようとしない。服従しようとしない。両者ともに煩わしすぎるのだ。


Man wird nicht mehr arm und reich: Beides ist zu beschwerlich. Wer will noch regieren? Wer noch gehorchen? Beides ist zu beschwerlich.


飼い主のいない、ひとつの畜群! 誰もが同じものを欲し、誰もが同じだ。考え方が違う者は、自ら望んで気ちがい病院に向かう。


Kein Hirt und Eine Heerde! Jeder will das Gleiche, Jeder ist gleich: wer anders fühlt, geht freiwillig in's Irrenhaus.


「むかしは、世界をあげて狂っていた」ーーそう洗練された人士は言って、まばたきする。


«Ehemals war alle Welt irre» – sagen die Feinsten und blinzeln.


かれらはみな怜悧であり、世界に起こったいっさいのことについて知識をもっている。だからかれらはたえず嘲笑の種を見つける。かれらも争いはする。しかしすぐに和解するーーそうしなければ胃をそこなうからだ。


Man ist klug und weiß Alles, was geschehn ist: so hat man kein Ende zu spotten. Man zankt sich noch, aber man versöhnt sich bald – sonst verdirbt es den Magen.


かれらはいささかの昼の快楽、いささかの夜の快楽をもちあわせている。しかし健康をなによりも重んずる。


Man hat sein Lüstchen für den Tag und sein Lüstchen für die Nacht: aber man ehrt die Gesundheit.


「われわれは幸福を発明した」ーーそう末人たちは言う。そしてまばたきする。ーー

«Wir haben das Glück erfunden» – sagen die letzten Menschen und blinzeln –

(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「序」第5節)



…………………


ジジェクにとってはアフガニスタンのタリバンーー、連中はヤクザ集団でありうるがーーは厄災を起こしたんだよな、最後の人間ではない出来事を(事実上、日本にジジェクを導入したのは浅田彰だが、彼は2000年前後からこのジジェクの立場は受け入れることが難しいと言っている)。


われわれの戦いの相手は、現実の堕落した個人ではなく、権力を手にしている人間全般、彼らの権威、グローバルな秩序とそれを維持するイデオロギー的神秘化である。この戦いに携わることは、バディウの定式 「何も起こらないよりは厄災が起きた方がマシ mieux vaut un désastre qu'un désêtre 」を受け入れることを意味する。つまり、たとえそれが大破局に終わろうとも、あれら終わりなき功利-快楽主義的生き残りの無気力な生を生きるよりは、リスクをとって真理=出来事への忠誠に携わったほうがずっとマシだということだ。この功利-快楽主義的生き残りの仕方こそニーチェが「最後の人間(末人)」と呼んだものだ。(ジジェク『終焉の時代に生きるLiving in the End Times 2010年)

現代における究極的な敵に与えられる名称が資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である[the name of the ultimate enemy today is not capitalism, empire or exploitation, but democracy]というバディウの主張は、正しい。それは、資本主義的諸関係の根源的な変革を妨げる究極的な枠組みとして「民主的な機構」を捉えることを意味している。 (ジジェク「永遠の経済的非常事態」2010年)


タリバンの成功、フーコーがイランにおいて探し求めたもの(そしてこの今、アフガニスタンにおいて我々を魅惑しているもの)は、どんな宗教的原理主義を伴った事例ではなく、たんにより良い生のための集団的関与だ。

the success of Taliban, …what Foucault was looking for in Iran (and of what fascinates us now in Afghanistan), an example which did not involve any religious fundamentalism but just a collective engagement for a better life. 


世界資本主義の大勝利の後、この集団的関与の精神は抑圧された。そして今、この抑圧された立場は宗教的原理主義の装いの下に回帰しているように見える。

After the triumph of global capitalism, this spirit of collective engagement was repressed, and now this repressed stance seems to return in the guise of religious fundamentalism.


われわれは抑圧されたものの回帰を想像しうるだろうか、その集団的な解放関与の正当的な形式のなかに? それを想像しうるだけではない、既にその偉大な力でわれわれの扉を叩いている。

Can we imagine a return of the repressed in its proper form of collective emancipatory engagement? Indeed. Not only can we imagine it, it is already knocking on our doors with great force. Slavoj Zizek: The real reason why the Taliban has retaken Afghanistan so quickly, which Western liberal media avoids mentioning, 17 Aug, 2021



上に、浅田彰はジジェクの立場は受け入れることが難しいと言っているとしたが、厳密には次のような言い方をしている。


悪役の責めを負うことを覚悟してあえてドグマティックな現実 への介入を行なわなければならないというジジェクの立場は、分かりすぎるほどよく分かる。しかし、それが60年代のヨーロッパのマオイズムと同じ極端な主観主義のネガなのではないか、あるいは、現在支配的なポストモダン相対主義のネガなのではないかという疑いを、われわれはどうしても払拭することができないのである。(浅田彰「パウロ=レーニン的ドグマティズムの復活?ージジェクの『信仰について』」2001年)





2021年9月16日木曜日

サリンドローンが起こらない可能性

 そうかあ、安いもんなんだな

たった500ドルで暗殺が可能に AI研究の第一人者が危惧する「ドローン兵器が人類を滅ぼす日」

「これは遠い将来の話ではありません」

マックス・テグマーク Max Erik Tegmark

マサチューセッツ工科大学教授理論物理学者、2020/01/29

「もしあなたが、腹の立つ相手を殺したいと思ったら、iPhoneと同じくらいの価格の小さなドローンに相手の顔と位置情報を入力すればよい。それだけで誰にも知られることなく相手を殺害できます。


このような自動兵器を作るだけのテクノロジーは既に我々の世界に存在しています。これから数年の内にその脅威について対策を打たないと、すべての大国が自動兵器を大量生産するクレイジーな軍拡競争に入る可能性すらあるでしょう。そうなればブラックマーケットで自動兵器が安価で手に入るようになるまでさほど時間はかからないはずです。



これからの若いのは女に恨まれないようにしなくちゃな。アンチフェミなんてマガオでやってる連中は皆殺しになるぜ。



「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」(クンデラ『不滅』)







こういったカワイイのじゃなくて、大きいドローンでサリンのたぐいの生物兵器を噴霧するってのはそろそろあるんじゃないかね。これが起こらない可能性はゼロに近いよ。





・・・と思って探してみたらやっぱりあったよ、あと10年ぐらいだね、もう核兵器みたいなケチなもんの時代
じゃないんだ。


ロボット兵器の自律性に関する一考察

―LAWS(自律型致死兵器システム)を中心として

上野 博嗣  海幹校戦略研究 2019 7 (9-1) 防衛省 PDF 

はじめに


近年の戦場における無人兵器の使用は、火薬、核弾頭に次ぐ第 3 の軍事 革命と言われており1、無人兵器、すなわち「ロボット兵器(robotic weapons) 2、人工知能(Artificial Intelligence: AI)との融合により3、自動化から「自 律化」へと進化している4。また、ロボット兵器のうち特に自律型兵器システム(Autonomous Weapon Systems: AWS)の導入は、将来の戦争の本質に大きな影響を与えることが予想されている5。このように、ロボット兵器と AI の結合が、戦場の様相を変えつつあるのである。


中国は 2030 年までに「最高のグローバル AI イノベーションセンターになる」という目標を掲げ、その過程で AI 技術が米国を上回る可能性が指摘されている6。また、現ロシア軍参謀総長ゲラシモフ(Valery Gerasimov) 将軍は、2013 年に「戦争の未来」(future of warfare)という記事の中で、 AI 研究の重要性を挙げ、「近い将来、完全にロボット化された部隊が作られ、独立して軍事作戦を遂行することが可能になるであろう」と予測している7


これらに対し、2016 6 月に米国国防科学委員会(Defense Science Board: DSB)がまとめた『自律性に関する夏季研究報告書』(Summer Study on Autonomy)では、ロボット兵器に自律性を持たせることが「接近阻止/ 領域拒否(Anti-Access and Area-Denial: A2/AD)」を強化する主要な例として挙げられており ジャミング 等の敵対的環境下 (adversarial environment)でも任務が遂行できる自律性を持ったロボット兵器の重要性を指摘している8


このようななか、自律型兵器による危険な軍拡競争が進行中であると指摘されている9。特に、ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)とハーバード ロースクール国際人権クリニックは、2012 11 月に『失われつつある人間性: 殺人ロボットに反対する論拠』(以下、「HRW 報告書」という。) おいて、今後 AI を含む科学技術の発展により、20 年から 30 年以内に人間の意思が介入することなく、標的を自ら選択し攻撃できる完全自律型兵器(fully autonomous weapons)、いわゆる「殺人ロボット(killer robots) が開発されると予想している10





いないいないばあ遊びと剰余価値

 前回引用した、ラカンの剰余享楽、マルクスの剰余価値、フロイトの快の獲得の等価性を指摘するラカンの発言を再掲することからまず始める。


◼️剰余享楽a=剰余価値

装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ]〔・・・〕


剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン, Radiophonie, AE434, 1970

永遠にマルクスに声に耳を傾けるこの貝殻[Lacoquille à entendre à jamais l'écoute de Marx……この剰余価値は経済が自らの原理を為す欲望の原因である。拡張生産の、飽くことを知らない原理、享楽欠如[manque-à-jouir の原理である[la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.](Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年)


◼️剰余享楽=快の獲得

フロイトの快の獲得[Lustgewinn]、それはまったく明瞭に、私の「剰余享楽 」のことである。[Lustgewinn… à savoir, tout simplement mon « plus-de jouir ». ]〔・・・〕


剰余享楽は可能な限り少なく享楽すること最小限をエンジョイすることだ。[« plus-de jouir ».  …jouir le moins possible  …ça jouit au minimum ](Lacan, S21, 20 Novembre 1973



前回はこう示して、最晩年のフロイトの「快の獲得=おしゃぶりの快」とする文を掲げたのだが、ここではフロイトにおける別の「快の獲得」の叙述を掲げる。名高い糸巻き遊びーー「いないいないばあ遊び(fort-da)」をめぐる箇所に「経済論的」という言葉を使いながら、三箇所「快の獲得」Lustgewinnが出現する。ここにはある意味で、フロイトラカン理論のエキスのひとつがある。


小児の遊戯に関する諸学説は、子供たちの遊戯の動機を推測しようとつとめているが、そのさい経済論的観点[ökonomische Gesichtspunkt]、つまり快の獲得[Lustgewinnにたいする考慮に重きをおいていない。私は、これらの現象をことごとく究めようと考えたのではないが、あるめぐまれた機会を存分に利用して、生後一年六ヵ月の男児が最初に自分でみつけた遊戯を、明らかにしようと思った。それは一時的な観察以上のものであった。なぜならば、私は数週間にわたって、子供やその両親とひとつ屋根の下に暮らしたのであり、たえず繰りかえされている謎めいた行為の意味が私に分かるまで、かなりながく観察をつづけたからである。


その子供は、知的な発達の点ではけっして早熱ではなかった。生後一年半で、ようやく、ごくわずかの明瞭な言葉をしゃべり、そのほかは身近の者だけに理解される、いくつかの意味のある音声をあやつっていた。だが、その子は両親と一人っきりの女中になじんでいたし、「お行儀のよい」性質のせいでほめられていた。夜間、両親を困らせもせず、いいつけをよくまもっていろいろな道具をいじったりしないし、禁じられた部屋へ行ったりしなかった。とりわけ、母親が何時間も傍にいないことがあっても、けっして泣いたりはしなかった。といっても、この子は母親がじぶんの乳でそだてたうえに、他人の手をいっさい借りずに世話してきたので、心から母親になついていた。


この感心な子が、ときおり困った癖を現わしはじめた。つまり、何でも手に入るこまごましたものを、部屋のすみや寝台の下などに、遠くほうり投げるので、そのおもちゃを捜し集めるのがひと苦労になるしまつだったのである。そのさい、子供は興味と満足の表情を表わして、高い、長く引っぱった、オーオーオーオ[o-o-o-o ]という叫び声を立てた。母親と私の一致した判断によるとそれは間投詞ではなくて、「いない」fortの意味であった。私はついに、それは一種の遊戯であって、自分のおもちゃを、みな、ただ「いない、いない」fortsein 遊びにだけ利用していることに気づいた。


ある日、私はこの見解をたしかめる観察をした。子供は、ひもを巻きつけた木製の糸巻きをもっていた。子供には、糸巻きを床にころがして引っぱって歩くこと、つまり、車ごっこをすることなどは思いつかず、ひもの端をもちながら蔽いをかけた自分の小さな寝台のへりごしに、その糸巻きをたくみに投げこんだ。こうして糸巻きが姿を消すと、子供は例の意味ありげな、オーオーオーオをいい、それからひもを引っぱって糸巻きをふたたび度台から出し、それが出てくると、こんどは嬉しげな「いた」Daという言葉でむかえた。これは消滅と再来[Verschwinden und Wiederkommen]を現わす完全な遊戯だったわけである。そのうち、たいていは前者の行為しか見ることができなかった。第二の行為にいっそう大きな快[größere Lust ]がともなったのは疑いないのだが、第一の行為がそれだけでも倦むことなく繰りかえされたのである。

こうなれば遊戯の意味は、ほぼ解かれたもおなじである。それは子供のみごとな躾の効果と関係があった。つまり母が立ち去るのを、さからわずにゆるすという欲動断念(欲動満足に関する断念)[Triebverzicht (Verzicht auf Triebbefriedigung)]を子供がなしとげたことと関係があった。子どもは自分の手のとどくもので、同じ消失と再来[Verschwinden und Wiederkommen]を上演してみて、それでいわば欲動断念を埋め合わせた[entschädigte」のである。


この遊戯を情動の面から評価[affektive Einschätzung]するさい、子供がみずから案出したのか、それとも何かに誘発[Anregung]されてわがものにしたのかは、むろん問題ではない。われわれの関心は、他の一点にむけられるであろう。母が立ち去ってしまうこと[Fortgehen der Mutter ]は、子供にとって好ましかったはずはなく、またどうでもよかったこととも考えられない以上、子供が苦痛な体験を遊戯として反復することは、どうして快原理に一致するのであろうか[Wie stimmt es also zum Lustprinzip, daß es dieses ihm peinliche Erlebnis als Spiel wiederholt?]。消滅はよろこばしい再出現の前提条件として演じられるのに相違なく、再出現にこそ本来の遊戯の目的があったはずだ、と答えたくなるかもしれない。しかし、最初の行為、つまり出発が単独で遊戯になって演出され、しかもそれが、快い結果にみちびく完全形よりも、比較にならないほどたびたび演じられたという観察は、その答に矛盾することになるだろう。


このようなただ一つだけの場合の分析から、確実な結論はみちびけない。しかし、偏見なしに観察すれば、子供は別な動機から自分の体験を遊戯にしたてたのだという印象をうける。子供はこの場合、受動的だったのであって、いわば体験に襲われたのであるが、いまや能動的な役割に身を置いて、体験が不快であったにもかかわらず、これを遊戯として反復しているのである[Es war dabei passiv, wurde vom Erlebnis betroffen und bringt sich nun in eine aktive Rolle, indem es dasselbe, trotzdem es unlustvoll war, als Spiel wiederholt. ]。


この志向は、記憶そのものが快に充ちていたかどうかには関わりのない、支配欲動[Bemächtigungstrieb]に帰することもできるかもしれない。しかしまた、別の解釈を試みることもできる。見えなくなるように、物を投げすてることは、子供のもとから立ち去った母親にたいする、日ごろは禁圧された復讐欲動[Racheimpulses]の満足でもありうる。さあ、立ち去れよ、お母さんなんかいらない、ぼくがお母さんをあっちへやっちゃうんだ、という反抗的な意味をもっているのかも知れないのだ[ Das Wegwerfen des Gegenstandes, so daß er fort ist, könnte die Befriedigung eines im Leben unterdrückten Racheimpulses gegen die Mutter sein, weil sie vom Kinde fortgegangen ist, und dann die trotzige Bedeutung haben: »Ja, geh' nur fort, ich brauch' dich nicht, ich schick' dich selber weg.]。


私が最初の遊戯を観察したときは、生後一年半だったその子は、一年ののちに、しゃくにさわっていた玩具をいつも床に投げつけては「ちぇんちょう(戦争)に行っちゃえ!」»Geh' in K(r)ieg!« といっていた。そのころ子供は、家にいない父親が戦争に行っているのを聞かされていた。そして、父親がいないのを少しもさびしがらず、かえって母親の独り占め[Alleinbesitz der Mutter]を邪魔されたくないらしい明白な徴候を示した。われわれは、他の子供たちについても、彼らが同様の敵意にみちた興奮[ähnliche feindselige Regungen ]を、人間のかわりに物を投げだすことによって、表現することができるのを知っている。すると、何か印象的なものを心理的に加工して、完全にわがものにする衝動が、一次的に、快原理から独立して発現しうるものかどうかという疑いが湧いてくる。しかし、ここで論議された例では、この支配衝動が不快な印象を遊戯の中に反復したのは、この反復に、種類がちがってはいるが、ある直接的な快の獲得[direkter Lustgewinn が結びついているからこそであろう。


これ以上小児の遊戯を追求しても、二つの見解の取捨選択をきめるには役立たない。子供たちは、生活のうちにあって強い印象をあたえたものを、すべて遊戯の中で反復すること、それによって印象の強さをしずめて、いわば、その場面の支配者になることは、明らかである[daß die Kinder alles im Spiele wiederholen, was ihnen im Leben großen Eindruck gemacht hat, daß sie dabei die Stärke des Eindruckes abreagieren und sich sozusagen zu Herren der Situation machen. ]。


しかしこの反面、彼らの遊戯のすべてが、この彼らの年代を支配している願望、つまり大きくなりたい、大人のようにふるまいたいという願望の影響下にあることも充分に明白である。また、体験が不快だからといって、その不快という性格のせいで、体験を遊戯に利用できなくなるとはかぎらないことも観察されている。たとえば医者が子供の喉の中をのぞきこんだり、ちょっとした手術を加えたりすると、この恐ろしい体験は確実にすぐあとの遊戯の内容になるであろうが、そのさい他の理由からの快の獲得[Lustgewinnも見落とすわけにはいかない。子供は体験の受動性から遊戯の能動性に移行することによって、遊び仲間に自分の体験した不快を加え、そして、この代理のものに復讐するのである[Indem das Kind aus der Passivität des Erlebens in die Aktivität des Spielens übergeht, fügt es einem Spielgefährten das Unangenehme zu, das ihm selbst widerfahren war, und rächt sich so an der Person dieses Stellvertreters. ](フロイト『快原理の彼岸』第2章、1920年)




消滅と再来[Verschwinden und Wiederkommen]、受動性と能動性[Passivität und Aktivität]等、ここに症状概念の起源がある。すべて「抑圧されたものの回帰」にかかわる。



それはマルクスの『資本論』冒頭の価値形態論あるいは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』においても同様である。



症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、私は何度か繰り返し示してきたが、マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.Laca,.S.18,16 Juin 1971)


みなマルクスが示した症状をこの今もやっている。マルクスの価値形態論を読み込むことにより、われわれは人間の奇妙さが実に鮮明に感知できるようになる筈である。


この症状のひとつを、小林秀雄がすでに早い時期に指摘している。


吾々にとつて幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。〔・・・〕


脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける「物」とは、飄々たる精神ではない事は勿論だが、又固定した物質でもない。(小林秀雄「様々なる意匠」1929年)


ーー27歳の小林秀雄である。


マルクスは商品の奇怪さについて語ったが、われわれもそこからはじめねばならない。商品とはなにかを誰でも知っている。だが、その「知っている」ことを疑わないかぎり、商品の奇怪さはみえてこないのである。たとえば、『資本論』をふるまわすマルクス主義者に対して、小林秀雄はつぎのようにいっている。


《商品は世を支配するとマルクス主義は語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせる力をもつものなのである。》(小林秀雄「様々な意匠」)


むろん、マルクスのいう商品とは、そのような魔力をもつ商品のことなのである。商品を一つの外的対象として措定した瞬間に、商品は消えうせる。そこにあるのは、商品形態ではなく、ただの物であるか、または人間の欲望である。言うまでもなく、ただの物は商品ではないが、それなら欲望がある物を商品たらしめるのだろうか。実は、まさにそれが商品形態をとるがゆえに、ひとは欲望をもつのだ。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)



ーーここで37歳の柄谷は、小林秀雄に依拠しつつ事実上、欲望の原因としてのフェティッシュを語っている。


そして75歳の柄谷はこう書いた。


株式資本にて、フェティシズムはその至高の形態をとる。ヘーゲルの「絶対精神」と同様に株式とは「絶対フェティッシュ absolute fetish」である。(柄谷行人、Capital as Spirit, Kojin Karatani, 2016, PDF、私訳)


ラカンのフェティッシュの定義のひとつは次の通り。


対象a、欲望の原因としての対象aがある[l' objet(a), […]comme la cause du désir.]。フェティッシュ自体の対象の相が、「欲望の原因」としての対象の相で現れる[fétiche comme tel, où se dévoile cette dimension  de l'objet comme cause  du désir]。

フェティッシュとは、ーー靴でも胸でも、あるいはフェティッシュとして化身したあらゆる何ものかはーー、欲望される対象ではない。そうではなくフェティッシュは欲望を引き起こす」対象である[Car ne n'est pas le petit soulier, ni le sein, ni quoi que ce soit où vous incarniez le fétiche, qui est désiré, mais le fétiche cause le désir


フェティシストは知っている、フェティッシュは「欲望が自らを支えるための条件」だということを[c'est que pour le fétichiste,  il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition  dont se soutient le désir. ](Lacan, S10, 16 janvier 1963


ーー《私が対象aと呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである。[celui que j'appelle l'objet petit a .. ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche 》(Lacan, AE207, 1966年)



「享楽の対象」は、「防衛の原因」かつ「欲望の原因」としてある。というのは、欲望自体は、享楽に対する防衛の様相があるから。l'objet jouissance comme cause de la défense et comme cause du désir, en tant que le désir lui-même est une modalité de la défense contre la jouissance.(J.-A. Miller, L'OBJET JOUISSANCE, 2016/3)

われわれが現実界という語を使うとき、この語の十全な固有の特徴は「現実界は原因である」となる[quand on se sert du mot réel, le trait distinctif de l'adéquation du mot : le réel est cause. J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 26/1/2011



………………


最後に、より厳密な、剰余享楽をめぐる注釈をいくつか抽出して掲げておく。


ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。対象aは穴と穴埋めなのである[petit a est …le trou et le bouchon]。われわれは(穴としての)対象aを去勢を含有しているものとして置く[Nous posons l'objet a en tant qu'il inclut (-φ) (J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)

間違いなくラカン的な意味での昇華の対象は、厳密に剰余享楽の価値である[au sens proprement lacanien, des objets de la sublimation.… : ce qui est exactement la valeur du terme de plus-de-jouir] J.-A. Miller, L'Autre sans Autre, May 2013


フロイト自身の「欲動の昇華」にかかわる記述は➡︎穴の昇華」を参照。


剰余享楽としての享楽は、穴埋めだが、享楽の喪失を厳密に穴埋めすることは決してない[la jouissance comme plus-de-jouir, c'est-à-dire comme ce qui comble, mais ne comble jamais exactement la déperdition de jouissance(J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)

反復は享楽回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。〔・・・〕フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste :  que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある。これがフロイトだ[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD.   〔・・・〕フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽」への探求の相がある。conçu seulement sous cette dimension de la recherche de cette jouissance ruineuse, que tourne tout le texte de FREUD. Lacan, S17, 14 Janvier 1970


仏語の「剰余享楽 le plus-de-jouir」は、「もはやどんな享楽もない」と「もっと享楽を !」[both as "not enjoying any more" and as "more of the enjoyment." ]の両方の意味をもっている。(PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains , 2009

《剰余享楽 plus-de-jouir》のなかの« plus » には二つの意味があり、第一の意味は《もはや享楽は全くない 》である。[Dans « plus-de-jouir », le « plus » a deux sens, et veut d’abord dire « plus du tout » de jouissance(Gisèle Chaboudez, Le plus-de-jouir, 2013)