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2022年2月23日水曜日

私は私ではない(ヘーゲル、ヘルダーリン、ニーチェ)


ヘーゲルは1807年に自我分裂と否定的なものを結びつつ次のように書いている。


精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を絶対的分裂のうちに見出すときのみである[Geistes. Er gewinnt seine Wahrheit nur, indem er in der absoluten Zerrissenheit sich selbst findet].〔・・・〕精神は、この否定的なものを見すえ、否定的なものに留まるからこそ、その力をもつ[er ist diese Macht nur, indem er dem Negativen ins Angesicht schaut, bei ihm verweilt. ](ヘーゲル『精神現象学』「序論」1807年)


そしてこの分裂こそ魂だと言っている。

意識において自我とその対象である実体との間におこるズレ(不等性[Ungleichheit])は両者の区別であり、全き否定的なもの[das Negative]である。この否定的なものは両者の欠如[Mangel]とも見なされることはできるけれども、しかし両者の魂[Seele]であり両者を動かすものである。そこに若干の古人が空虚[das Leere]をもって動かすものと解した所以である。もっとも彼らは動かすものを確かに否定的なものとして把握しはしたが、しかし、まだこの否定的なものをもって自己[das Selbst]としてはとらえなかった。

Die Ungleichheit, die im Bewußtsein zwischen dem Ich und der Substanz, die sein Gegenstand ist, stattfindet, ist ihr Unterschied, das Negative überhaupt. Es kann als der Mangel beider angesehen werden, ist aber ihre Seele oder das Bewegende derselben; weswegen einige Alte das Leere als das Bewegende begriffen, indem sie das Bewegende zwar als das Negative, aber dieses noch nicht als das Selbst erfaßten. (ヘーゲル『精神現象学 Phänomenologie des Geistes 』 Kapitel 5、1807年)


この自我分裂のエキスを10年後にはもっと簡潔に言っている。


AはAと同じではない[A nicht gleich A](ヘーゲル『大論理学(Wissenschaft der Logik』第2章、1816年)



ラカンは同一化のセミネールでこのヘーゲルを参照しつつ次のように言っている。


あなたがたは気づいていないわけではないだろう、仮にすぐには核心を言い当てられないにしろ。われわれは、思考にとって「AはAである[A est A]」ということが昔からいかなる困難を引き起こしてきたかを知っている。「AはAである」というとき、AがかくもAならば、そこに留まったらよろしい! なぜAを自分自身から切り離し、すぐに置き戻すのであろうか?

Vous n'êtes pas sans savoir, même sans pouvoir assez vite repérer, quelles difficultés depuis toujours pour la pensée nous offre ceci : A est A.  Si l'A est tant A que ça, qu'il y reste !  Pourquoi le séparer de lui-même pour si vite le rassembler ?  (ラカン, S9, 15  Novembre  1961)


ヘーゲルの《AはAと同じではない[A nicht gleich A]》とは、何よりもまず「私は私ではない」である。私が私だと思っている人間は思い上がりに過ぎない。


教授連中にとって「我思う」が簡単に通用するのは、彼らがそこにあまり詳しく立ち止まらないからにすぎない。

「私は思う Je pense」に「私は嘘をついている Je mens」と同じだけの要求をするのなら次の二つに一つが考えられる。まず、それは「私は考えていると思っている Je pense que je pense」という意味。

これは想像的な、もしくは見解上の「私は思う」 、 「彼女は私を愛していると私は思う Je pense qu'elle m'aime」と言う場合にーーつまり厄介なことが起こるというわけだがーー言う「私は思う」以外の何でもない。…


もう一つの意味は「私は考える存在である Je suis un être pensant」である。この場合はもちろん、 「我思う」から自分の存在に対して思い上がりも偏見もない立場をまさに引き出そうとすることをそもそも台無しにすることになる。


私が「私はひとつの存在です Je suis un être」と言うと、それは「疑いもなく、私は存在にとって本質的な存在である Je suis un être essentiel à l'être, sans doute」ということで、ただのおもいあがりである。(ラカン、S9, 15 Novembre 1961)


これはヘーゲルの友人だったヘルダーリンがヘーゲルに先行して1795年に言っていることでもある。


もし私が、私は私だというとき、主観(自我)と客観(自我)とは分離さるべきものの本質が損なわれることなしには分離が行われえないように合一されているのではない。逆に、自我は、自我からの自我のこの分離を通じてのみ可能なのである。私は如何にして自己意識なしに、自我!と言い得るのか? しかし自己意識は如何にして可能なのか?


Aber dieses Seyn muß nicht mit der Identität verwechselt werden. Wenn ich sage: Ich bin Ich, so ist das Subject (Ich) und das Object (Ich) nicht so vereiniget, daß gar keine Trennung vorgenommen werden kann, ohne, das Wesen desjenigen, was getrennt werden soll, zu verlezen; im Gegenteil das Ich ist nur durch diese Trennung des Ichs vom Ich möglich. Wie kann ich sagen: Ich! ohne Selbstbewußtseyn?

私は私に私自身を対立させることによって、私を私自身から分離するが、しかしこの分離にもかかわらず私を対立の中で同一のものとして認識する。しかしどの程度まで同一のものとしてなのか? そのように私は問い得るし、問わねばならない。というのは、別の観点においては、それは自分に対立しているからである。それゆえ、この同一性は、端的に生じるような主観と客観との合一ではなく、それゆえ、この同一性は、絶対的存在には等しく(=)ない。


Wie ist aber Selbstbewußtseyn möglich? Dadurch daß ich mich mir selbst entgegenseze, mich von mir selbst trenne, aber ungeachtet dieser Trennung mich im entgegengesezten als dasselbe erkenne. Aber in wieferne als dasselbe? Ich kann, ich muß so fragen; denn in einer andern Rüksicht ist es sich entgegengesezt. Also ist die Identität keine Vereinigung des Objects und Subjects, die schlechthin stattfände, also ist die Identität nicht = dem absoluten Seyn. (ヘルダーリンFriedrich Hölderlin, “Über Urtheil und Seyn” 1795)




…………………



ラカン1978年の「人はみな妄想する」はフロイトに準拠して語っている。


フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。

Freud… Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)


フロイトにもヘーゲルと同様、自我分裂[Ichspaltung]概念ーー自我とエスの分裂ーーがあり、一般的にはラカンの主体$は、この自我分裂にあると言われる、《ラカンの主体はフロイトの自我分裂を基盤としている[Le sujet lacanien se fonde dans cette « Ichspaltung » freudienne.  ]》(Christian Hoffmann Pas de clinique sans sujet, 2012)


自我分裂の事実は、個人の心的生に現前している二つの異なった態度に関わり、それは互いに対立し独立したものであり、神経症の普遍的特徴である。もっとも一方の態度は自我に属し、もう一方はエスへと抑圧されている。

Die Tatsachen der Ichspaltung, …Dass in Bezug auf ein bestimmtes Verhalten zwei verschiedene Ein-stellungen im Seelenleben der Person bestehen, einander entgegengesetzt und unabhängig von einander, ist ja ein allgemeiner Charakter der Neurosen, nur dass dann die eine dem Ich angehört, die gegensätzliche als verdrängt dem Es. (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


だが真の根はヘーゲルにあるのではないか。

ラカンは《AはAではない[A nicht gleich A]》のヴァリエーションとしてこう言っている。

すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン, S14, 16  Novembre  1966)


最も代表的なシニフィアンは《シニフィアン私[signifiant « je » ]》(Lacan, S14, 24  Mai  1967)である。これを「主語私」と言い換えれば「主語私は私ではない」という当たり前のこととなる。


つまり主語私は見せかけである。


見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](ラカン, S18, 13 Janvier 1971)


見せかけとは、前回しめしたように、誤魔化し-見せかけ[faux-semblant]であり、つまりは言語は嘘である。


象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

象徴界は厳密に嘘である[le symbolique, précisément c'est le mensonge.](J.-A. MILLER, Le Reel Dans L'expérience Psychanalytique. 2/12/98)



結局、この嘘を妄想と呼んだのである。


私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと[Je dois dire que dans son dernier enseignement, Lacan est proche de dire que tout l'ordre symbolique est délire](J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)


〈私〉やら〈僕〉やらと言ってそれが「この私」と同一なものと見做している連中はみな妄想家である。人は言語という嘘に気づかなければならない。


言語とは本来的に虚構である[le langage est, par nature, fictionnel](ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)


例えばツイッターに書き込むこと自体、小説の登場人物(虚構の登場人物)として書くぐらいの心構えが必要ではないか。


ここにあるいっさいは、小説の登場人物によって語られているものと見なされるべきである[Tout ceci doit être considéré comme dit par un personnage de roman] (『彼自身によるロラン・バルト』1975年)


バルトはこうも言っているーー《「自我」がもはや「自身」でない以上、私が「自我」について語っていけない理由はないではないか。pourquoi ne parlerais-je pas de «moi». puisque «moi» n'est plus «soi»? 》(『彼自身によるロラン・バルト』)。「自我は自身ではない」ことに自覚的であることが重要なのであり、自我を語るなとは言っていない。自我はフィクションに過ぎない。



このバルトの言っていることは、シェイクスピアが既に1623年に言っていることとほとんど等価である。


この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず、すべてこれ役者にすぎぬ[All the world's a stage, And all the men and women merely players.](シェイクスピア「お気に召すまま」1623年)


「人はみな妄想する」とはその根を探れば実は古くからの話であり、「私は私である」と思い込んでいる人間が何よりもまず究極の妄想家である。


ここでニーチェを引こう。


一方で、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、という条件の下にある。われわれは服従する者としては、強迫、強制、圧迫、抵抗 などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになる。しかし他方でまた、われわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、意志するということに関してまつわりついてきたのである。

insofern wir im gegebenen Falle zugleich die Befehlenden und Gehorchenden sind, und als Gehorchende die Gefuehle des Zwingens, Draengens, Drueckens, Widerstehens, Bewegens kennen, welche sofort nach dem Akte des Willens zu beginnen pflegen;insofern wir andererseits die Gewohnheit haben, uns ueber diese Zweiheit vermoege des synthetischen Begriffs "ich" hinwegzusetzen, hinwegzutaeuschen, hat sich an das Wollen noch eine ganze Kette von irrthuemlichen Schluessen und folglich von falschen Werthschaetzungen des Willens selbst angehaengt, - dergestalt, dass der Wollende mit gutem Glauben glaubt, Wollen genuege zur Aktion.(ニーチェ『善悪の彼岸』第19番より、1886年)




とはいえ、まずはヘルダーリン、ヘーゲル、ニーチェのように難しく言わなくてもよい。例えば谷川俊太郎の書いている次のような感覚をもったことのない者を妄想家と呼ぶ。


言葉に愛想を尽かして と

こういうことも言葉で書くしかなくて

紙の上に並んだ文字を見ている

からだが身じろぎする と

次の行を続けるがそれが真実かどうか


これを読んでいるのは書いた私だ

いや書かれた私と書くべきか

私は私という代名詞にしか宿っていない

のではないかと不安になるが

脈拍は取りあえず正常だ


ーー「朝」より、谷川俊太郎『詩に就いて』所収(2015年)




別の言い方をすれば、言葉を信用しているか否かである。


俊太郎)僕は詩を書き始めた頃から、言葉というものを信用していませんでしたね。一九五〇年代の頃は武満徹なんかと一緒に西部劇に夢中でしたから、あれこそ男の生きる道で、原稿書いたりするのは男じゃねぇやって感じでした(笑)。言葉ってものを最初から信用していない、力があるものではないっていう考えでずーっと来ていた。詩を書きながら、言葉ってものを常に疑ってきたわけです。疑ってきたからこそ、いろんなことを試みたんだと思います。だから、それにはプラスとマイナスの両面があると思うんです。(谷川俊太郎&谷川賢作インタビュー、2013年)


ここで谷川俊太郎は事実上、言語なんて妄想だと言っているのである。


……………



最後にラカン的思考を簡単に示しておこう。


現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet]. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)

幻想が主体にとって根源的な場をとるなら、その理由は主体の穴を穴埋めするためである[Si le fantasme prend une place fondamentale pour le sujet, c'est qu'il est appelé à combler le trou du sujet]   (J.-A. Miller, DU SYMPTÔME AU FANTASME, ET RETOUR, 8 décembre 1982)


この穴埋めをするのがシニフィアンの主体、あるいはシニフィアン私(主語私)である。

そして幻想は晩年のラカンにとって妄想になった。


我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである[fantasmatique peut-on-dire - mais, justement, fantasmatique veut dire délirant.](J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)


つまり主語私は主体の穴を穴埋めする妄想である。


穴とは何か。

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

欲動の現実界がある 。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou.](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


つまり欲動の身体のことであり、これがフロイトのエスの身体である。


エスの欲求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


言語の妄想シニフィアン「私」でエスの身体の穴を穴埋めする。これがラカン流のフロイトの自我分裂ーー自我とエスの分裂ーーをめぐる思考である。






……………


※付記


「私とは何か」という問いは詩人たちのあいだでも常になされてきた、問いの仕方は上記に示した話とは若干異なるにしろ。


《私はひとりの他者だ JE est un autre》(ランボー)

《私は他者だ Je suis l'autre 》(ネルヴァル)


人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。


かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。


自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳)




俺たちのなかみはからっぽ

俺たちのなかみはつめもの

俺たちはよりそうが

頭のなかは藁のくず、ああ!

We are the hollow men

We are the stuffed men

Leaning together

Headpiece filled with straw. Alas!

(エリオット「うつろな人間 the hollow men」)