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2022年2月22日火曜日

妄想による世界の秩序化

◼️妄想とは何か

ラカンの妄想とはフロイトの夢である。


フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。

Freud… Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)


例えば、人はみなーー男女ともーー女なるものを夢みる。


女なるものは存在しない。女たちはいる。だが女なるものは、人間にとっての夢である。[La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme](Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)


すなわち女なるものを妄想するのである。


女なるものは存在しない。しかし存在しないからこそ、人は女なるものを夢見るのです。女なるものは(ファルスの)表象の水準では見いだせないからこそ、我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を撮って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。[La femme n'existe pas, mais c'est de ça qu'on rêve. C'est précisément parce qu'elle est introuvable au niveau du signifiant qu'on ne cesse pas d'en fomenter le fantasme, de la peindre, d'en faire l'éloge, de la multiplier par la photographie, qu'on ne cesse pas d'appréhender l'essence d'un être dont,](J.-A. MILLER「エル・ピロポ El Piropo 」1979年)


ーーこの1979年のミレールは「幻想」と言っているが、晩年のラカンにとって幻想=妄想である。《幻想的とは妄想的のことであるfantasmatique veut dire délirant. 》(J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)


妄想とはーー他人に危害を与えない範囲でーー、悪いものではない。妄想とは世界を秩序化することである。


実際は、妄想は象徴的なものだ。妄想は象徴的お話だ。妄想はまた世界を秩序づけうる。En tout état de cause, un délire est symbolique. Un délire est un conte symbolique. Un délire est aussi capable d'ordonner un monde.(J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)


象徴界とは言語、あるいはファルスである。


象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978

ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない[Die Bedeutung des Phallus  est en réalité un pléonasme :  il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus.  (ラカン, S18, 09 Juin 1971


人はみな、象徴的ファルスにより世界を妄想化=秩序化するのである。


何に対して秩序化するのか。トラウマの穴に対してである。


ラカンのまさに最後の教えとして形式化された「人はみな妄想する(人はみな狂っている)」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。この意味はすべての人にとって穴があるということである[C'est la valeur que je donne au Tout le monde est fou qu'a formul é Lacan dans son tout dernier enseignement. Ça pointe vers un au-delà de la clinique, ça dit que tout le monde est traumatisé, […] Et ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )


別の言い方をすれば、享楽の穴を剰余享楽の穴埋めにて秩序化するのである。


装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

ラカンは享楽と剰余享楽を区別した[il distinguera la jouissance du plus-de-jouir]。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]であり、後者の剰余享楽は穴埋め[le bouchon]である。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要)


剰余享楽の穴埋めとは享楽の穴を廃棄しようとする試みである、ーー《剰余享楽は言説の効果の下での享楽の廃棄の機能である[Le plus-de-jouir est fonction de la renonciation à la jouissance sous l'effet du discours. ]》(Lacan, S16, 13  Novembre  1968)


享楽の穴とは、現実界の穴のことである。


人はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界は、穴=トラウマを為す[tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. …ça fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974、摘要)


剰余享楽がまがいものでも人はトラウマの穴を放っておくわけにはいかない。


剰余享楽は既に享楽の亡霊である。シニフィアンの形式の上の享楽の形式化である。反転はセミネールⅩⅩにおいて、そのシニフィアンの拘束服を投げ捨てる時に初めて起こる。そこでは(剰余享楽としての)対象aは誤魔かし的見せかけとして降格される。

c’est un plus-de-jouir qui est déjà un dégradé de la jouissance, un modelage de la jouissance sur le modèle du signifiant.

Le tournant ne sera accompli que lorsque Lacan fera sauter ce verrou dans le Séminaire XX, où nous le voyons dégrader l’objet a comme un faux-semblant. (J.-A. MILLERヘイビアス・コーパスHabeas corpus)」2016


巷間で享楽と呼ばれているものは、ほとんどが剰余享楽である。例えばーーこのところ何回か妄想事例に挙げているが、ーー松本卓也の『享楽社会論』(2018年)は「剰余享楽社会論」であり、「まがいの社会論」、「妄想社会論」に他ならない。彼は『人はみな妄想する』(2015年)という書を上梓しているのだから自覚的な筈である(自覚的でない場合のみ責められる)。



◼️妄想は享楽の自閉症に対する防衛


妄想は世界の秩序化としたが、その意味は言語により世界を貧困化することなのである。

言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


別の言い方であれば、ニブクなること、自閉症でなくなることである。


言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)


ラカンの享楽の核は自閉症である。


享楽の核は自閉症的である。Le noyau de la jouissance est autiste   (Françoise Josselin『享楽の自閉症 L'autisme de la jouissance』2011)


享楽の自閉症とは主体の故郷なのである。


ラカンは強調した、疑いもなく享楽は主体の起源に位置付けられると。[Lacan souligne que la jouissance est sans doute ce qui se place à l'origine du sujet] (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes -16/11/2005)

いわば自閉症は主体の故郷の地位にある。そして「主体」という語は括弧で囲まれなければならない、疑いもなく「話す存在 parlêtre」という語の場に道を譲るために。 l'autisme était le statut natif du sujet, si je puis dire. Et le mot de « sujet », ici, doit porter des guillemets, et céder sans doute la place au terme de parlêtre (J.-A. MILLER, - Le-tout-dernier-Lacan – 07/03/2007)


話す存在[parlêtre]とあるが、これはフロイトの、エスに置き残された原無意識としての異者身体のことである。ーー《異者身体は…原無意識としてエスのなかに置き残されたままである[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück]》.(フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)参照


ミレールは次のように言っている。


話す存在のサントーム[le sinthome d'un parlêtre]は、身体の出来事・享楽の出現である [le sinthome d'un parlêtre, c'est un événement de corps, une émergence de jouissance.](J.-A. MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)



サントーム、身体の出来事ともに、フロイトの固着のことである(参照)。


われわれは言うことができる、サントームは固着の反復だと。サントームは反復プラス固着である。[On peut dire que le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation]. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06)

身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する。L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021)


ーー《フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである[Freud l'a découvert…une répétition de la fixation infantile de jouissance.]》 (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)


したがってジャック=アラン・ミレールの言う《話す存在のサントーム[le sinthome d'un parlêtre]》とは、フロイト用語で言えば、異者身体の固着[Fixierung von Fremdkörper]と言い換えうるのを少し前に示した(参照)。




◼️妄想は異者身体に対する防衛


ここでフロイト自身に戻って確認しておこう。


病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)


妄想は回復の試みとあるが、何からの回復なのか。不安というトラウマからの回復の試みである。


不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)


フロイトにおいて妄想形成とは症状形成と同義である。


すべての症状形成は、不安を避けるためのものである[alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen](フロイト 『制止、不安、症状』第9章、1926年)


このトラウマ的不安の別名が不快であり、ラカンの享楽である。


不快(不安)[ Unlust-(Angst).](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)

不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)


ーー《われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。Nous avons affaire à une jouissance traumatisée. 》(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)


もっともフロイトにおいて症状形成(妄想形成)の試みは十全には機能しない。


結局、成人したからといって、原トラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


ラカン的に言えば、享楽の穴の穴埋めである剰余享楽は十分には機能しないのである。ーー《剰余享楽としての享楽は、穴埋めだが、享楽の喪失を厳密に穴埋めすることは決してない[la jouissance comme plus-de-jouir, c'est-à-dire comme ce qui comble, mais ne comble jamais exactement la déperdition de jouissance]》(J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


享楽の喪失は享楽の穴(享楽のトラウマ)と同義である。ーー《喪失というトラウマ的状況 Die traumatische Situation des Vermissens]》(フロイト『制止、症状、不安』第11C1926年)


つまり剰余享楽の穴埋めには常に享楽の穴の残滓がある。まがいものの剰余享楽が本来の享楽にかかわるのはこの所以である。




そしてトラウマ的不安の別名が、エスの欲動蠢動としての異者身体の症状であり、これが原症状、妄想としての象徴的症状ではなく現実界の症状(サントーム)である。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異者身体[Fremdkörper] のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、異者身体の症状 [Symptom als einen Fremdkörper]と呼んでいる。[Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

(エスに置き残された)残滓……現実界のなかの異者身体概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[Reste…une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III,-16/06/2004)


ラカンの現実界はトラウマであり、レミニサンスすると言っている。フロイトはトラウマとしての異者身体はレミニサンスする、あるいはトラウマへの固着は反復強迫する、と言っている(参照)。


結局、フロイトラカン理論において異者身体の固着[Fixierung von Fremdkörper]の反復が核心である。妄想とはこの異者身体に対する防衛に他ならない。


………………


◼️ ファルス剰余享楽[le plus-de-jouir phallique]

と異者身体の享楽[la jouissance du corps étranger]


ところでコレット・ソレールは2013年にこう言っている。


欲望は、欠如の換喩と同じ程度に、剰余享楽の換喩である[le désir est autant métonymie du plus-de-jouir que métonymie du manque. ](Colette Soler « Estado de minas », 10/09/2013)


前期ラカンは「欲望は欠如の換喩」と言ったが、それだけではなく欲望は剰余享楽の換喩だと言っているのである。換喩とはもちろん象徴的換喩、すなわち言語という換喩である。

欲望は享楽の換喩化(言語化=シニフィアン化)である。


欲望は自然の部分ではない。欲望は言語に結びついている。それは文化で作られている。より厳密に言えば、欲望は象徴界の効果である[le désir ne relève pas de la nature : il tient au langage. C'est un fait de culture, ou plus exactement un effet du symbolique.](J.-A. MILLER "Le Point : Lacan, professeur de désir" 06/06/2013)

享楽のシニフィアン化をラカンは欲望と呼んだ[la signifiantisation de la jouissance…C'est ce que Lacan a appelé le désir. ](J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


シニフィアン化とは見せかけ化、先ほど示したように誤魔かし的見せかけ[faux-semblant]である。

見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](ラカン, S18, 13 Janvier 1971)


欲望が享楽の見せかけ化とは、より厳密に言えば、欲望は享楽のトラウマ的固着の見せかけ化である。

享楽は欲望とは異なり、固着された点である[La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe.] (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)

分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る[Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation]. 〔・・・〕

われわれはトラウマ化された享楽を扱っている[Nous avons affaire à une jouissance traumatisée]( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)


ーー《トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]》(フロイト『続精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933 年)


ところで、コレット・ソレールは、2013年に「欲望は剰余享楽の換喩」と言った4年後にこう書いている。

ラカンは剰余享楽という語を使用するとき明瞭に示した。欲望はより少なく享楽することである[Lacan l'indique bien quand il utilise le terme de plus-de-jouir. Le désir est un moins-de-jouir] (Colette Soler , LE DÉSIR, PAS SANS LA JOUISSANCE Auteur :30 novembre 2017)


これはラカンの次の発言に基づいている。


剰余享楽は…可能な限り少なく享楽すること…最小限をエンジョイすることだ。[« plus-de jouir ».  …jouir le moins possible  …ça jouit au minimum ](Lacan, S21, 20 Novembre 1973)


コレット・ソレールは欲望は剰余享楽の換喩どころか、事実上、欲望は剰余享楽自体だと言っているようにさえ見える。いずれにせよ、欲望は剰余享楽の審級にある。


そしてファルス享楽は言語の享楽である。


ファルス享楽とは、身体外のものである。大他者の享楽(他の享楽)とは、言語外、象徴界外のものである。la jouissance phallique [JΦ] est hors corps [(a)],  – autant la jouissance de l'Autre [JA] est hors langage, hors symbolique(ラカン, 三人目の女 La troisième, 1er Novembre 1974)


したがってファルス享楽は事実上、ファルス剰余享楽[le plus-de-jouir phallique]と捉えうる。


こうしたら表現的に混同がなくなる。言語の享楽がファルス剰余享楽であり、身体の享楽が本来の享楽である。


享楽は、身体の享楽と言語の享楽の二つの顔の下に考えうる。on peut considérer la jouissance soit sous sa face de jouissance du corps, soit sous celle de la jouissance du langage (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 27/5/98)


大他者の享楽(他の享楽)の大他者とは大他者の性(他の性)のことであり、この大他者は身体のことである。


大他者は身体である![L'Autre c'est le corps! ](ラカン、S14, 10 Mai 1967)

大他者の享楽ーーこの機会に強調しておけば、ここでの大他者は「大他者の性」であり、さらに注釈するなら、大他者を徴示するのは身体である[la jouissance de l'Autre - avec le grand A que j'ai souligné en cette occasion - c'est proprement celle de « l'Autre sexe »,  et je commentais : « du corps qui le symbolise ». ](ラカン, S20, 19  Décembre 1972)


この身体は他人の身体ではなく、自己身体である(享楽が自閉症的というのはこの意味である)。

大他者の享楽は、自己身体の享楽以外の何ものでもない。La jouissance de l'Autre, […] il n'y a que la jouissance du corps propre. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 8 avril 2009)


この自己身体が何よりもまず異者身体なのである。


2009年に英語圏の代表的ラカン注釈者バーハウと仏語圏の代表的注釈者ミレールが同時にそれを指摘している。


享楽はどこから来るのか? 大他者から、とラカンは言う。大他者は今異なった意味をもっている。厄介なのは、その意味は変化したにもかかわらず、ラカンは彼の標準的な表現、《大他者の享楽》を使用し続けていることだ。新しい意味は、自己身体を示している。それは最も根源的な大他者である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者[the most intimate stranger]である。

where does this jouissance come from? From the Other, says Lacan. The "Other" now has a different meaning. The trouble is that Lacan continues to use his standard expression-"the jouissance of the Other"-although its meaning has changed. Here, it indicates one's own body as the most fundamental Other, in fact our real organism as the most intimate stranger.(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villainsーーA Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)

自己身体の享楽はあなたの身体を異者にする。あなたの身体を大他者にする。ここには異者性の様相がある。[la jouissance du corps propre vous rende ce corps étranger, c'est-à-dire que le corps qui est le vôtre vous devienne Autre. Il y a des modalités de cette étrangeté. ](Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)


すなわち、《われわれにとって異者としての身体 un corps qui nous est étranger》(ラカン、S23、11 Mai 1976)、これが大他者の享楽(他の享楽)の意味であり、女性の享楽=固着の享楽=異者身体の享楽[la jouissance du corps étranger]のことである。


ひとりの女は異者である[une femme, … c'est une étrangeté.]  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (Lacan, S23, 17 Février 1976)

サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011、摘要)



異者とは究極的には出生とともに喪われた女性器(母胎)である[参照]。この意味で(例えば月に一度一週間弱はダイレクトに異者の蠢きを感じざるを得ない)解剖学的女性のほうが男性よりもいっそう過剰な防衛(ファルス化)が起こる場合が多い。


女が事実上、男よりもはるかに厄介なのは、子宮あるいは女性器の側に起こるものの現実をそれを満足させる欲望の弁証法に移行させるためである。Si la femme en effet a beaucoup plus de mal que le garçon, […] à faire entrer cette réalité de ce qui se passe du côté de l'utérus ou du vagin, dans une dialectique du désir qui la satisfasse  (Lacan, S4, 27 Février 1957)

ヒステリーにおけるエディプスコンプレクス…何よりもまずヒステリーは過剰なファルス化を「選択」する、ヴァギナについての不安のせいで。the Oedipus complex in hysteria,…that hysteria first of all 'opts' for this over-phallicisation because of an anxiety about the vagina. . (PAUL VERHAEGHE,  DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)



女性が男性よりもパロール享楽(オシャベリ享楽)に耽溺する傾向がある遠因は、おそらくこのヴァギナ不安にかかわる。


ラカンは、大胆かつ論理的に、パロール享楽をファルス享楽と同じものとしている。ファルス享楽が身体と不一致するという理由で。jouissance de la parole que Lacan identifie, avec audace et avec logique, à la jouissance phallique en tant qu'elle est dysharmonique au corps. (J.-A. Miller, L'inconscient et le corps parlant, 2014)



…………

以上、ここでの私の書き物も言語を使用しているのだから、もちろん妄想である。

フロイトラカン的精神分析においては、それを自覚しているか否かが最も重要である。

あなた方は精神分析家として機能しえない、もしあなた方が知っていること、あなた方自身の世界は妄想だと気づいていなかったら。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである。分析家であることは、あなた方の世界、あなた方が意味を為す仕方は妄想的であることを知ることである。Vous ne pouvez pas fonctionner comme psychanalyste si vous n'êtes pas conscient que ce que vous savez, que votre monde, est délirant – fantasmatique peut-on-dire - mais, justement, fantasmatique veut dire délirant. Etre analyste, c'est savoir que votre propre fantasme, votre propre manière de faire sens est délirante (J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)