前回の話はほんとにドッチデモイイんだよ、重要なのは固着は超自我とエスにまたがった概念だということだ。
それともうひとつ、日本ラカン業界はまだアンコールの性別化の式に依拠して享楽を語ってるんだな。ボクは読んだことはないが、松本卓也くんの『享楽社会論』、2018年に出版されているようだが、これだってそうだ。ネットで千葉雅也くんやらのツイートを遡って見る限りでだが、モロ「アンコール」の享楽だ。これはいくらかまずいんだな、後期ラカンにおいて「性別化の式のデフレ」があったんだから。間違いというわけではないが二次的なものだから。これは全然ドッチデモヨクナイコトだ。
何度も引用しているが再掲しよう。
性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路」を把握しようとした。これは英雄的試みだった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学」へと作り上げるために。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉することなしでは為されえない。[Dans les formules de la sexuation, par exemple, il a essayé de saisir les impasses de la sexualité à partir de la logique mathématique. Cela a été une tentative héroïque pour faire de la psychanalyse une science du réel au même titre que la logique mais cela ne pouvait se faire qu'en enfermant la jouissance phallique dans un symbole. ] (⋯⋯結局、性別化の式は)、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃」の後に介入された「二次的結果」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 」 、「論理なき現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。[…sexuation. C'est une conséquence secondaire qui fait suite au choc initial du corps avec lalangue, ce réel sans loi et sans logique. La logique arrive seulement après] (J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年) |
《身体とララングとのあいだの最初期の衝撃》とは、最も簡単に言えば、《母なるララングのトラウマ的効果[L'effet traumatique de lalangue maternelle]》(Martine Menès, Ce qui nous affecte, 15 octobre 2011)のこと。より詳しく知りたければ、「ララング文献集」を参照。 |
この性別化の式のデフレに伴って女性の享楽のポジションも変わっている。これはもはやたださないと世界的にみたら笑われちまうよ。松本卓也くんは準備してるのかもしれないけど、「アンコール以後のラカンの享楽」という風な形でさ。彼でなくてもいいから誰かやっとかないとな。キミなんかどうだい? まだその器じゃなさそうだな・・・
たとえば『欲望会議』なる書で、二次的な、ある意味で陳腐化した享楽概念が流通してしまっているのだから(これもネットで断片を拾う限りでのタブンということだが)、本来の享楽はホントはそうじゃないんですよ、と示しておかないと、日本における享楽概念の捉え方が固まっちまうよ。2022年になってアレばかりの流通はヤバすぎる。
確かにラカンは第一期に、女性の享楽[jouissance féminine]の特性を、男性の享楽[jouissance masculine]との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。 |
だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。〔・・・〕 |
ここでの享楽自体とは極めて厳密な意味がある。この享楽自体とは非エディプス的享楽である。それは身体の出来事に還元される享楽である[ici la jouissance comme telle veut dire quelque chose de tout à fait précis : la jouissance comme telle, c'est la jouissance non œdipienne,…C'est la jouissance réduite à l'événement de corps.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011) |
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ーーここでジャック=アラン・ミレールは女性の享楽は身体の出来事だと言っている。確認しよう。 |
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 [la jouissance féminine qui est un pur événement de corps ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2 mars 2011) |
これはラカンの次の二文の要約だ。 |
ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である![ « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! ](Lacan, S22, 21 Janvier 1975) |
症状は身体の出来事である[le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps](Lacan, JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975) |
すなわちひとりの女という症状は身体の出来事だ、と。この症状は現実界の症状であり、サントームである。 |
サントームは後に症状と書かれるものの古い書き方である[LE SINTHOME. C'est une façon ancienne d'écrire ce qui a été ultérieurement écrit SYMPTÔME.] (Lacan, S23, 18 Novembre 1975) |
したがってひとりの女というサントームは身体の出来事である。 |
ひとりの女はサントームである [une femme est un sinthome ](Lacan, S23, 17 Février 1976) |
サントームは身体の出来事として定義される[ Le sinthome est défini comme un événement de corps](J.-A. MILLER,, L'Être et l'Un, 30/3/2011) |
つまり女性の享楽とは《サントームの享楽[la jouissance du sinthome] 》(Jean-Claude Maleval , Discontinuité - Continuité 2018)だ。 |
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もう少し「身体の出来事」について確認しよう。 |
享楽は身体の出来事である。身体の出来事の価値は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。この身体の出来事は固着の対象である。la jouissance est un événement de corps. La valeur d'événement de corps est […] de l'ordre du traumatisme , du choc, de la contingence, du pur hasard,[…] elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011) |
身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する。L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021) |
トラウマ、あるいは固着とある。身体の出来事とはフロイトの定義において、トラウマへの固着と反復強迫である。 |
トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚 である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。〔・・・〕 このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ] この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印 と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen]。 (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年) |
ーーラカンのサントームとしての身体の出来事の起源は、このフロイトの『モーセ』にあるのである。しかも両性にある不変の個性刻印である。女性の享楽は解剖学的女性の享楽ではまったくなく、男女ともある身体の上への享楽の刻印である(享楽=欲動はラカンの定義において穴=トラウマ。固着も同様)。 ジャック=アラン・ミレールやコレット・ソレールが次のように言っているのは何よりもまずこの意味である。 |
ラカンのサントームとは、たんに症状のことである。だが一般化された症状(人がみなもつ症状)である。Le sinthome de Lacan, c'est simplement le symptôme, mais généralisé, (J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011) |
サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011、摘要) |
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症状のない主体はない [il n'y a pas de sujet sans symptôme](Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011) |
精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状である[l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion,](Colette Soler, Avènements du réel, 2017年) |
したがって享楽自体としての「女性の享楽=サントームの享楽」は男女両性にある不変の個性刻印としての固着の反復(トラウマへの固着の反復強迫)である。 |
われわれは言うことができる、サントームは固着の反復だと。サントームは反復プラス固着である。[On peut dire que le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation]. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06) |
もっと簡単に言えば、固着はトラウマ自体であって、女性の享楽としてのサントームはトラウマとトラウマの反復である。 |
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である[Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011) |
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. (Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
トラウマと言ってもフロイトラカンの定義において「身体の出来事」ーー身体に刻まれた不変の個性刻印ーーなのだから、中井久夫の言うように「喜ばしいトラウマの反復」もありうる。 |
PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収) |
結局、ラカンはアンコールのあと、フロイトの欲動の基本に戻ったのであり、そこは可能な限りはやく示しておかないと、日本ラカン業界チンボツしちまうよ。
結局、成人したからといって、原トラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年) |
このフロイトは次のジャック=アラン・ミレールと同じ内実をもっている。 |
享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ](Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009) |
分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る[Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation]. 〔・・・〕 分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている[dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée]( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011) |
ところでラカンはなぜひとりの女と言ったのだろう、男女両性にあるサントーム=固着なのに。 |
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ひとりの女は異者である[une femme, …c'est une étrangeté. ](Lacan, S25, 11 Avril 1978) |
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モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09 Décembre 1959) |
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976) |
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ひとりの女はモノである。したがって、 |
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ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens]。ラカンはこのモノをサントームと呼んだのである。サントームはエスの形象である[ce qu'il appelle le sinthome, c'est une figure du ça ] (J.-A.MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 4 mars 2009) |
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つまりサントーム=固着=モノである。 さらにーー |
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母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノdas Dingの場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding. ](Lacan, S7, 16 Décembre 1959) |
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このモノは忘却不可能な先史の大他者である。このモノの場の卓越性をフロイトは断言している、モノは異者化された[entfremdet]何ものか、私の核でありながら、私にとって異者の何ものかの形式にあると。 [- ce das Ding, cet Autre préhistorique impossible à oublier dont FREUD nous affirme la nécessité de la position première sous la forme de quelque chose qui est entfremdet, étranger à moi, tout en étant au cœur de ce moi] (Lacan, S7, 23 Décembre 1959) |
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先史の大他者、すなわち母なる原大他者である。このセミネールⅦの思考は後年まで変わっていない。固着としてのサントームは母の名である。 すなわち固着のベースにあるのは母への固着である。 |
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おそらく、幼児期の母への固着の直接的な不変の継続がある[Diese war wahrscheinlich die direkte, unverwandelte Fortsetzung einer infantilen Fixierung an die Mutter. ](フロイト『女性同性愛の一事例の心的成因について』1920年) |
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以上、女性の享楽は、その基盤には、母への固着の反復があるということになる。この享楽自体としての女性の享楽をモノの享楽と呼ぶミレール派のラカニアンもいる。ーー《享楽、ラカンはそれをモノと呼んだ。モノの享楽である。このモノは根源的に異者である[La jouissance Lacan nomme, Das Ding, la jouissance de La Chose…Cette Chose est …radicalement étranger] 》(BRUNO MIANI, PARADIGME III, 2011、摘要) モノ=現実界=母=固着=穴(トラウマ)であり、穴の享楽と呼んでもよいだろう。ーー《母は、その基底において、「原リアルの名」であり、「原穴の名 」である[Mère, au fond c’est le nom du premier réel, …c’est le nom du premier trou]》 (Colette Soler, Humanisation ? ,2014) ラカンは他の享楽[JA]を最終的に斜線を引いたが[J Ⱥ]、これは穴の享楽[la jouissance du Trou]と読むことができる。そしてこの穴は間違いなく固着の穴である。 フロイトも『終りある分析と終りなき分析』(1937年)にて、母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]を原トラウマ[Urtrauma]と呼んでいる。 欲望会議のメンバーでは二村ヒトシがさすがに最も見込みがあるんじゃないかね。他の享楽を菩薩の享楽と言ってるそうだから。 母なる菩薩の影はすべての女に落ちているからな、ーー《母の影は女の上に落ちている[l'ombre de la mère tombe là sur la femme.]》(J.-A. Miller, MÈREFEMME, 2016)
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