ジャック=アラン・ミレール2016年のテキスト、翌々年の会議のためプレゼンとして「人身保護令状(Habeas corpus)」と名付けられた文がある。そこで触れられている「ラカンの夢」の箇所のみをここでは抽出する。
私には「ラカンの夢(Un rêve de Lacan)」(1999年)と表題づけた寄稿がある。何の夢か。私がラカンの夢として扱ったのは、精神分析を構造主義的言語学だけでなく、数学、特に数学的論理に結びつけようとした欲望だ[Je traitais comme un rêve de Lacan son désir d’associer la psychanalyse, non seulement à la linguistique structurale, mais aux mathématiques, et spécialement à la logique mathématique]。 この夢はラカンだけのものだっただろうか? いやそうではなかった。すべての世代、構造主義的世代、教師も生徒も同様に、同じ夢を信じた。〔・・・〕 |
事態を焦点化するためにラカンの夢を要約する定式を選び出そう。この定式はエクリの背表紙にあるテキストであり気づかれていない。…そこにはこうある、《無意識は純粋論理から来る[l’inconscient relève du logique pur ]》と。〔・・・〕 当時の無意識の主体[Le sujet de l’inconscient]、斜線を引かれた文字$にて刻印された主体は、厳密に言って、身体がない[n’a pas de corps]。というのは、身体は純粋論理からは生まれないから[Car le corps ne relève pas du « logique pur ». ](J.-A. MILLER「ヘイビアス・コーパス(Habeas corpus)」2016) |
「夢」とは、ラカン自身の定義上、妄想である。
フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。 Freud[…] Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978) |
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さてミレール冒頭のテキストと前回掲げた「性別化の式のデフレ」のテキストを読み比べてみよう。
性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路」を把握しようとした。これは英雄的試みだった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学」へと作り上げるために。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉することなしでは為されえない。[Dans les formules de la sexuation, par exemple, il a essayé de saisir les impasses de la sexualité à partir de la logique mathématique. Cela a été une tentative héroïque pour faire de la psychanalyse une science du réel au même titre que la logique mais cela ne pouvait se faire qu'en enfermant la jouissance phallique dans un symbole. ] (⋯⋯結局、性別化の式は)、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃」の後に介入された「二次的結果」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 」 、「論理なき現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。[…sexuation. C'est une conséquence secondaire qui fait suite au choc initial du corps avec lalangue, ce réel sans loi et sans logique. La logique arrive seulement après] (J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年) |
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ーー《身体とララングとのあいだの最初期の衝撃》とあるが、最も簡単に言えば、《母なるララングのトラウマ的効果[L'effet traumatique de lalangue maternelle]》(Martine Menès, Ce qui nous affecte, 15 octobre 2011)のこと。より詳しくは「ララング文献集」を参照。 性別化の式は「数学的論理の織物」の思考とあるように、結局、身体なき無意識の「ラカンの最後の夢」なのである。 いつこの夢から目覚めたのか。それは1973年5月15日、アンコールセミネールⅩⅩの最後の講義で、現実界の無意識[l'inconscient réel]として話す身体[le corps parlant]概念を提出したときからである。
※より詳しくは、➡︎ 「原無意識ーー話す存在[parlêtre]=話す身体[corps parlant]=異者身体[Fremdkörper]」 前回示した松本卓也くんの『享楽社会論』は「ラカンの最後の夢」に依拠していることはまがいようもない。 繰り返せば、私はこの書を読んでいないが、少なくとも偽日記(古谷利裕)の引用箇所が示している他の享楽(女性の享楽)は、ファルス関数に囚われた享楽である。 この箇所はファルス関数からの逸脱がテーマのようだが、ファルスあっての逸脱であり、真の後期ラカンの思考はそうではない。原初にリアルな欲動の身体の固着があり、象徴的ファルスはその身体のシニフィアン化である。つまりラカンにおいて、人間の症状を「象徴界の言語」から捉えることから、「現実界の身体」から捉えることへ、という大きな反転がある(セミネールの受講者であり仏女流分析家第一人者コレット・ソレールはアンコールセミネールの最後の講義の発言をきいて驚愕したと述懐している)。 性別化の式は象徴界の言語から現実界の身体を捉える思考であり、アンコールの最後の講義を境目に後期ラカンは現実界の身体の思考へと移行したのである。象徴界のファルスはリアルに対する防衛としての幻想に過ぎない。
ラカンは2年後の1978年にこの幻想を妄想というようになるーー《我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである[Vous ne pouvez pas fantasmatique peut-on-dire - mais, justement, fantasmatique veut dire délirant.]》(J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire; 2009)。「人はみな妄想する」とはこの意味である(参照)。 そもそも最後のラカンにとってファルスは存在しない。つまり妄想に過ぎない。
哲学的にリアルを捉えたい人には「性別化の式」は強い誘惑であるのだろうが、後期ラカンはフロイトの欲動の身体に回帰したのである。ジジェクもいまだもってアンコールにおける象徴界から現実界を捉える思考のままである➡︎「ジジェクの現実界の誤謬」 欲動のシンボルはS(Ⱥ)であり、ファルスはΦ。 上から考えるか下から考えるか。 性別化の式は上から考えている。Φから逸脱したところにあるのがS(Ⱥ)である。だがアンコール以降の後期ラカンは象徴界Φは現実界S(Ⱥ)に従属しているものとして捉えた。
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ミレールの性別化の式の注釈に「法なき現実界 (réel sans loi)」とあったが、この形式がS(Ⱥ)である。 |
私は考えている、現実界は法なきものと言わねばならないと。真の現実界は秩序の不在である。現実界は無秩序である[je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi. Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre]. (Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
法なき現実界の形式は、まさに正しくS(Ⱥ) と翻訳しうる。無法とはȺである。 [la formule le réel est sans loi est très bien traduite par grand S de A barré. Le sans loi, c'est le A barré.]( J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 13/04/2005 ) |
そしてこの無法Ⱥがフロイトの自我の治外法権にある、つまり法なきエスの欲動蠢動としての異者身体である。 |
エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、異者身体の症状 [Symptom als einen Fremdkörper]と呼んでいる。[Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |