さてそろそろ蚊居肢ブログの本来の姿に戻らねばならない。
人間とはこのように出来上がっている。地階に欲動(欲動の身体)があり、その身体的な欲動を言語を通して上階へと昇華する。 フロイトにおいて欲動の昇華[Sublimierung der Triebe]の別名は欲動の抑圧[Triebverdrängung]である。残滓[Reste」とは、欲動の昇華しきれない残り物であり、この残滓はすべての人間にある。 欲動の昇華の代表は、欲望と愛である(とはいえ欲望にも愛にも欲動の残滓が常に居残っている)。哲学、芸術、宗教、文化的制度などもすべて欲動の昇華である。 |
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ニーチェの力への意志はこの欲動のことである。 |
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すべての欲動力[alle treibende Kraft]は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない[Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt... ](ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888) |
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ニーチェが力への意志は諸科学の女王(人間学の女王)と言ったとき、欲動が人間学の女王と言ったのである。 |
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これまで全ての心理学は、道徳的偏見と恐怖に囚われていた。心理学は敢えて深淵に踏み込まなかったのである。生物的形態学 morphologyと力への意志 Willens zur Macht 展開の教義としての心理学を把握すること。それが私の為したことである。誰もかつてこれに近づかず、思慮外でさえあったことを。〔・・・〕 心理学者は…少なくとも要求せねばならない。心理学をふたたび「諸科学の女王 [Herrin der Wissenschaften]」として承認することを。残りの人間学は、心理学の下僕であり心理学を準備するためにある。なぜなら,心理学はいまやあらためて根本的諸問題への道だからである。(ニーチェ『善悪の彼岸』第23番、1886年) |
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ニーチェは、事実上の最後の年1888年に、力への意志と欲動の飼い馴らされていない暴力を等置している。 |
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私は、ギリシャ人たちの最も強い本能、力への意志を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力[unbändigen Gewalt dieses Triebs]」に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための防衛手段から生じたものであることを見てとった。 Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen.(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第3節『偶然の黄昏』所収、1888) |
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人間のあらゆる制度は「欲動の飼い馴らされていない暴力」に対する防衛とあるが、この防衛が欲動の昇華あるいは抑圧である。 |
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欲動の防衛あるいは欲動の昇華とは、欲動の家畜化である。 |
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荒々しい「自我によって飼い馴らされていない欲動蠢動 」を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である[Das Glücksgefühl bei Befriedigung einer wilden, vom Ich ungebändigten Triebregung ist unvergleichlich intensiver als das bei Sättigung eines gezähmten Triebes.] (フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年) |
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人はみな何らかの仕方で、欲動の暴動を飼い馴らさねばならない。 |
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欲動蠢動、この蠢動は刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである [la Triebregung …Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute](ラカン、S10、14 Novembre 1962) |
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とはいえ家畜化されない野獣が常にいる。
欲動の別名は攻撃欲動・自己破壊欲動である。ここでもまたニーチェの言い方を先に示しておこう、《より深い本能としての破壊への意志、自己破壊の本能、無への意志[der Wille zur Zerstörung als Wille eines noch tieferen Instinkts, des Instinkts der Selbstzerstörung, des Willens ins Nichts]》(ニーチェ遺稿、den 10. Juni 1887) |
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われわれとしては、いつの日か、この種の文化共同体病理学[Pathologie der kulturellen Gemeinschaften ]という冒険をあえて試みる人が現われることを期待せずにはいられない。〔・・・〕 私の見るところ、人類の宿命的課題は、人間の攻撃欲動ならびに自己破壊欲動[Aggressions- und Selbstvernichtungstrieb]による共同生活の妨害を文化の発展によって抑えうるか、またどの程度まで抑えうるかだと思われる。この点、現代という時代こそは特別興味のある時代であろう。いまや人類は、自然力の征服の点で大きな進歩をとげ、自然力の助けを借りればたがいに最後の一人まで殺し合うことが容易である[Die Menschen haben es jetzt in der Beherrschung der Naturkräfte so weit gebracht, daß sie es mit deren Hilfe leicht haben, einander bis auf den letzten Mann auszurotten.]。現代人の焦燥・不幸・不安のかなりの部分は、われわれがこのことを知っていることから生じている。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第8章、1930年) |
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フロイトはここで「文化共同体病理学」の文脈でこのように言っている。すなわちすべての社会的制度とは、フロイトにおいて先に引用した『偶像の黄昏』のニーチェと同様に、欲動の飼い馴らされていない暴力に対する防衛なのである。 |
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例えば国際法とは実は人間の破壊欲動に対する防衛である。 |
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いくら国際法で破壊欲動を抑圧しても常に残滓がある。これがわかっていない国際政治学者の別名をマヌケ呼ぶ。 イケネ、どうしても罵倒に回帰しちまうな・・・ |