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2022年6月15日水曜日

わたしの心のうぶ毛

 前回の強者の「心のうぶ毛」ってのは分裂病親和者の特徴かも知れないよ。


どこへ行ったのだ、わたしの目の涙は? わたしの心のうぶ毛は?Wohin kam die Thräne meinem Auge und der Flaum meinem Herzen? (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部「夜の歌」1883年)

わたしの所有している最も傷つきやすいものを目がけて、人々は矢を射かけた。つまり、おまえたちを目がけて。おまえたちの膚はうぶ毛に似ていた。それ以上に微笑に似ていた、ひとにちらと見られるともう死んでゆく微笑に。Nach dem Verwundbarsten, das ich besass, schoss man den Pfeil: das waret ihr, denen die Haut einem Flaume gleich ist und mehr noch dem Lächeln, das an einem Blick erstirbt!  (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部「墓の歌」1883年)



中井久夫は主著で連発してるね



分裂病者の社会「復帰」の最大の壁は、社会の強迫性、いいかえれば強迫的な周囲が患者に自らを押しつけて止まないこと、である。われわれはそれを日々体験している。われわれは社会の強迫性がいかに骨がらみかを知っており、その外に反強迫性的ユートビアを建設することはおそらく不可能である。ただ言いうることは、私がかつて分裂病者の治癒は「心の生ぶ毛」を失ってはならないといったが、実はそれこそは分裂病者の微分(回路)的認知力であり、それが磨耗してはすべてが空しいことである。少なくともそれは、分裂病者あるいは S親和者から彼らが味わいうる生の喜びを奪うだろう。(中井久夫『分裂病と人類』第1章)

たまさかの治療場面で、治療者が感じる、慎しみを交えたやさしさへの敏感さにあらわれているような―――きわめて表現しにくいものではあるけれどもあえて言えば―――一種の「心の生ぶ毛」あるいはデリカシーというべきものは、いったん失われたら取り戻すことがむつかしい。


このことをわざわざ述べる必要があるのは、慢性分裂病状態からの離脱の途がどうも一つではないらしいからである。自然治癒力それ自体が、新しい、多少とも病的な展開を生む原動力となりうることは、自己免疫病や外傷性ショックをはじめ、身体疾患においては周知のとおりであるが、慢性分裂病状態からの離脱過程においても、一見、性格神経症、あるいは“裏返しの神経症”という意味でのいわゆる精神病質的な状態にはまり込むことが少なくない。


これらは、いわば「心の生ぶ毛」を喪失した状態である。「心の生ぶ毛」を喪失すること自体は何も分裂病と関係があるわけでなく、そういう人は世に立ち交っている人のなかにも決して少なくないけれども、「高い感覚性」をかけがえのないとりえとする分裂病圏の人にとって、この喪失の傷手はとくに大きい。(中井久夫『分裂病と人類』第1章)




日本ではことさら「強者」はいじめられるんだろうよ、農耕民的強迫社会、つまりムラ社会の「弱者」が跳梁跋扈してるからな。





労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)


…………………



以下、まとめ図の内容を示す文をーー今まで何度も掲げているがーー抜粋再掲しておこう。


◼️祭りのあと=あとのまつり(post festum)と祭りの前 (ante festum)

メランコリー者の体験は、それが自責の形をとるか妄想の形をとるかを問わず、もはや手遅れで回復不可能な「あとのまつり」という性格を帯びた基礎的事態の表現と見ることができる。私はこの基礎的事態をラテン語の post festum(祭りのあと=「あとのまつり」、「手遅れ」、「事後の」)を用いて言い表しておこうと思う。〔・・・〕

(他方)未来先取的、予感的、先走り的な時間性の構造は、さきの「ポスト・フェストゥム」概念と対置する意味で、ラテン語で「祭の前」を意味する ante festum の語で言い表せるのではないかと思う。(木村敏『自己・あいだ・時間』1981年)


◼️分裂病親和性=祭りの前(ante festum)

分裂病親和性を、木村敏が人間学的に「ante festum(祭りの前=先取り)的な構えの卓越」と包括的に捉えたことは私の立場からしてもプレグナントな捉え方である。別に私はかつて「兆候空間優位性」と「統合指向性」を抽出し、「もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する」と述べた(兆候が局所にとどまらず、一つの全体的な事態を代表象するのが「統合指向性」である)。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年)


◼️強迫症親和性=あとの祭(post festum)

農耕社会の強迫症親和性〔・・・〕彼らの大間題の不認識、とくに木村の post festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある--この小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年)

カタストロフが現実に発生したときは、それが社会的変化であってもほとんど天災のごとくに受け取り、再び同一の倫理にしたがった問題解決の努力を開始する〔・・・〕。反復強迫のように、という人もいるだろう。この倫理に対応する世界観は、世俗的・現世的なものがその地平であり、世界はさまざまの実際例の集合である。この世界観は「縁辺的(マージナル)なものに対する感覚」がひどく乏しい。ここに盲点がある。マージナルなものへのセンスの持ち主だけが大変化を予知し、対処しうる。ついでにいえば、この感覚なしに芸術の生産も享受もありにくいと私は思う。(中井久夫『分裂病と人類』第2章、1982年)





◼️狩猟採集民と農耕民

狩猟採集民の時間が強烈に現在中心的・カイロス的(人間的)であるとすれば、農耕民とともに過去から未来へと時間は流れはじめ、クロノス的(物理的)時間が成立した。農耕社会は計量し測定し配分し貯蔵する。ときに貯蔵、このフロイト流にいえば「肛門的」な行為が農耕社会の成立に不可欠なことはいうまでもないが、貯蔵品は過去から未来へと流れるタイプの時間の具体化物である。その維持をはじめ、農耕の諸局面は恒久的な権力装置を前提とする。おそらく神をも必要とするだろう。

 

狩猟採集民が全く宗教を持たないとはいわない。しかし一般に複雑な祭儀は彼らのものではない。おそらく他の動物たちに劣等感を抱きつづけていた時代の採集民は神を必要としなかっだであろう。狩られるものから狩るものへの転化とともに、今日も一部ブッシュマンの信じる「犠牲となった獣たちの天国」が考想されたのかもしれない。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年)




◼️微分回路的認知と積分回路的認知

ここで先取り的な構えの長所と短所をもう少し具体的にみるために、一次近似的モデルとして、入力の時間的変動部分のみを抽出し未来の傾向予測に用いられる「微分回路」の諸特性をとりあげてみよう。ただし私は電気工学には全く素人なので誤解がないとはいえない。また「微分回路」が一次近似にすぎないことは、回路は入力が外に発生することを前提とすることからも明らかで、人間においては入力が”回路”内部にも発生することが問題である(要するに思考や情動や、すべて認知の対象となる”内的事象”のことだ。)


系統発生的には、おそらく積分回路的認知よりも微分回路的認知のほうが古いだろう。たとえば、運動するものしか認知しないカエルの視覚を考えてみればよいが。さらに古型の知覚である嗅覚、味覚などは著しく微分的であり、変化の瞬間から知覚の強度が次第に低下する。この古型の、したがってふつうはそう揺るがない認知方式が人類に至って混乱の原因となったとすれば、「入力の内部発生」という、人類に近づくにつれて著しくなった事態によるかも知れない(微分回路はノイズの吸収力がほとんどない)。


微分回路は見越し方式ともいわれ、変化の傾向を予測的に把握し、将来発生する動作に対して予防的対策を講じるのに用いられる。まさに先取り的回路ということができる。またウオッシュ・アウト回路と言われるごとく、過渡的な現象に敏感でこれを洗いだす鋭敏さがあり、f≒0 において相手の傾向を正しく把握する。しかしこの”現実吟味力”は持続しない。すなわち出力が入力に追随するのは f≒0 付近だけで、時がたつにつれて出力は入力に追随できず、すぐ頭打ちとなり漸次低下する。増幅力の維持も不能で不定となる。中等度の増幅力では突然入力にも漸変入力にも合理的に対応できるが、ある程度以上の増幅に弱い。また過度の厳密さを追求して f≒0 における完全微分を求めようとすると相手の初動にふりまわされて全く認知不能になるという。またさきに述べたように高周波ノイズが介入すると出力が乱れる。また未来志向的な回路であって過去のメモリーが生かされない。〔・・・〕


逆に「積分回路」は、過去全体の集積であり、つねに入力が出力に追いつけず、傾向の把握にむかないが、ノイズの吸収力が抜群である。両者を対比すれば、前者の特性がいっそうよく浮き彫りされるだろう。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年)




◼️世直しと立て直し

奇妙なことは、無事平和のときには「隠れて生きることを最善」(デカルトの座右銘)とするS親和者が、非常時にはにわかに精神的に励磁されたごとく社会の前面に出で、個人的利害を超越して社会を担う気慨を示すことである。この「励磁現象」は史上数限りなくある。私は、サリヴァンについてこのことをやや詳しく述べたが、ニュートンもまた名誉革命に励磁されて国会議員となった一人であり、彼の物理学者としての活動はその時点で実質的に終わっている。ラッセルの諸活動はなお人々の記憶に新しいが、ラッセルが若き日に知的刺激を受けたライプニッツを「すぐれた知性の持ち主ながら王侯に取り入る人格成り下れる者」と罵倒しているのは、ほとんど近親憎悪に近い曲解である。なぜならライプニッツの努力は新旧両教会の和睦と統合にあり、それは十七世紀当時において、二十世紀のラッセルが直面した米ソ両大国の対立に等しい世界的大問題だったからである。

しかし、S親和者を「世直し」を唱える者として、「立て直し」路線に立つメランコリー親和者と対照させらるにしても、現実の世直し--革命--がS親和者によって遂行されるとするのは単純にすぎる。彼らのなかには革命の予言者もあるが、破局の予感に満ちみちつつ体制を守らんとする者もある。ただ、いずれにしてもS親和者が「歴史に選ばれた」気質の持ち主として行動するのは、問題解決者としてでなく主に問題設定者である。彼らは杳かな徴候から全体を推定し、それが現前するごとく恐怖しつつ憧憬する。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年)




◼️ S親和者の優位性は「徴候を読む能力」

「分裂病と人類」は分裂病の起源を、執着気質の起源を求めるのと同じ手法で探ろうとしたものである。しかし、分裂病の歴史の井戸はずっと深かった。歴史時代を越え、文化人類学の記述を辿ってついに着底したのは狩猟採集社会だった。かつてのエチオピア社会あるいはカラハリ砂漠の住人がいうS(分裂病)親和者の出番の社会だった。S親和者とは失調を起こさず少数者にも転落していないプレ分裂気質者である。〔・・・〕


たまたま、私は、航空工学者・佐賀亦男氏の著書で、航空計器に使われている微分回路と積分回路の特性を読んだ。微分回路は徴候と傾向性を読む「時進み回路」(先取り回路)で、その特性はS親和者の長所と弱点とを一次近似として表わしているのではないか。私は膝を打った。しかも、この二つの回路は認知の基本的な二面を代表しているのではないか。予感と記憶である。これほど基本的なものなら失調しても人類から消滅はしないだろうと私は考えた。統合失調症患者の認知研究は積分回路的なものばかりを取り上げているから空を打っているのではないかとひそかに思った。もっとも、過去の経験を蓄積してノイズ吸収力の抜群な積分回路のほうの麻痺によっても似た事態が起こりうる。積分回路の弱さが発病か否かを決める可能性も併せて考えた。〔・・・〕


一言にしていえば、S親和者の優位性は「徴候を読む能力」にある。少くとも狩猟採集民族には欠かせない能力である。イタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグが全く別の接近路から「徴候知」を抽出していたのとほぼ同時に独立して私も徴候知に市民権を与えたわけだ。この能力は、農耕社会の到来とともに重要性が減り、その結果、失調をおこしやすくなるかもしれないが、リーダーや気候や天災の予測に必要な能力である。雨司、呪術師はしばしば王を兼ねていたという。医師にも当然なくてはならない能力である。


しかし、職業生活だけがすべてではない。鬱病の場合と違う。徴候知は万人に必要であり、赤ん坊が母親の表情を読むことがすでにそうではないか。そして徴候的認知はとくに配偶者選択に有利である。相手が世俗的なことを考えているときに求愛しても成功はおぼつかない。状況や相手の表情や何やかやから「今だ」というタイミングを読む力は徴候知に属し、徴候知は「接合率」を高める重要因子である。だから、S親和者はなくならないーー。これはハックスリのよりもナイスな答えではないかと私は思った。


私の分裂病論の核心の一つは一見奇矯なこの論文にある。他の仕事は、この短い一分の膨大な注釈にすぎないという言い方さえできるとひそかに思う。S親和的な人、あるいは統合失調症患者の士気向上に多少程度は役ったかもしれない。家庭医学事典などは破滅的なことが書いてあるからである。(中井久夫「『分裂病と人類』について」2000年初出『時のしずく』所収)





「大破局は目に見えない」ムラ社会のみなさんは楽しみに待ってたらいいさ、もうすぐ「レミング的悲劇」のあとのまつりが訪れるから。



◼️あとの祭

国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』2005年)



財政的焼野原になったって戦後のように一致団結して「立て直し」したらいいのさ。もともと「世直し」なんてムリだよ、ムラ社会では。財政に限らず日本病ってのは結局、ムラ社会病なんだろうよ。




この二年間であらためて呆れ果てたね、医師や国際政治学者がムラビトばかりで。政治家たちももちろん。