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2022年6月14日火曜日

人は強者を弱者たちの攻撃から常に守らなければならない

 


ニーチェの「強者」とは、いまだ誤解されているが、既存システムのなかでの社会的強者ではまったくない。そうではなく「心のうぶ毛」を持った者である。


どこへ行ったのだ、わたしの目の涙は? わたしの心のうぶ毛は?Wohin kam die Thräne meinem Auge und der Flaum meinem Herzen? (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部「夜の歌」1883年)



他方、「弱者」とは徒党を組んで心のうぶ毛をもった強者に矢を放つ者たちである。

わたしの所有している最も傷つきやすいものを目がけて、人々は矢を射かけた。つまり、おまえたちを目がけて。おまえたちの膚はうぶ毛に似ていた。それ以上に微笑に似ていた、ひとにちらと見られるともう死んでゆく微笑に。Nach dem Verwundbarsten, das ich besass, schoss man den Pfeil: das waret ihr, denen die Haut einem Flaume gleich ist und mehr noch dem Lächeln, das an einem Blick erstirbt!  (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部「墓の歌」1883年)



したがってニーチェは次のように言うのである。


人は強者を弱者たちの攻撃から常に守らなければならない[man hat die Starken immer zu bewaffnen gegen die Schwachen](ニーチェ『力への意志』草稿、Anfang 1888 - Anfang Januar 1889)


より弱い者はより強い者に対して群れる[Das Schwächere drängt sich zum Stärkeren](ニーチェ『力への意志』草稿、 1882 - Frühjahr 1887)

強者の独立に対する群れの本能[der Instinkt der Heerde gegen die Starken Unabhängigen]…例外に対する凡庸の本能[der Instinkt der Mittelmäßigen gegen die Ausnahmen](ニーチェ『力への意志』草稿、 Herbst 1887 - Anfang 1888 )

最も強い者は、最もしっかりと縛られ、監督され、鎖につながれ、監視されなければならない。これが群れの本能である[Die Stärksten müssen am festesten gebunden, beaufsichtigt, in Ketten gelegt und überwacht werden: so will es der Instinkt der Heerde.](ニーチェ『力への意志』草稿、 Herbst 1887 - Anfang 1888)



民主主義的社会では弱者が社会的強者になりうる社会である。


ある意味で、民主主義的社会において最も容易に維持され発展させられることがある。…それは、強者を破滅しようとすること、強者の勇気をなくそうとすること、強者の悪い時間や疲労を利用しようとすること、強者の誇らしい安心感を落ち着きのなさや良心の痛みに変えようとすること、すなわち、いかに高貴な本能を毒と病気にするかを知ることである。

In einem gewissen Sinne kann dieselbe sich am leichtesten in einer demokratischen Gesellschaft erhalten und entwickeln:…Daß es die Starken zerbrechen will, daß es ihren Muth entmuthigen, ihre schlechten Stunden und Müdigkeiten ausnützen, ihre stolze Sicherheit in Unruhe und Gewissensnoth verkehren will, daß es die vornehmen Instinkte giftig und krank zu machen versteht](ニーチェ『力への意志』草稿、 Herbst 1887 - Anfang 1888)



さらにまた、弱者は強者に宿る寄生虫である。


寄生虫。それは君たちの病みただれた傷の隅々に取りついて太ろうとする匍い虫である。

Schmarotzer: das ist ein Gewürm, ein kriechendes, geschmiegtes, das fett werden will an euren kranken wunden Winkeln. 


 そして、登りつつある魂にどこが疲れているかを見てとるのが、このうじ虫の特殊な技能である。そして君たちの傷心と不満、感じやすい羞恥などのなかへかれはそのいとわしい巣をつくる。

Und _das_ ist seine Kunst, dass er steigende Seelen erräth, wo sie müde sind: in euren Gram und Unmuth, in eure zarte Scham baut er sein ekles Nest.  


強者のもつ弱い個所、高貴な者におけるあまりにも柔軟な個所、ーーそこにうじ虫はそのいとわしい巣をつくる。寄生虫は、偉大な者のもつ小さい傷に住みつく。

Wo der Starke schwach, der Edle allzumild ist, - dahinein baut er sein ekles Nest: der Schmarotzer wohnt, wo der Grosse kleine wunde Winkel hat.  


 あらゆる存在する者のうち、最も高い種類のものは何か。最も低い種類のものは何か。寄生虫は最低の種類である。だが、最高の種類に属する者は、最も多くの寄生虫を養う。

Was ist die höchste Art alles Seienden und was die geringste? Der Schmarotzer ist die geringste Art; wer aber höchster Art ist, der ernährt die meisten Schmarotzer.  


つまり、最も長い梯子をもっていて、最も深く下ることのできる魂に、最も多くの寄生虫の寄生しないはずがあろうか。--

Die Seele nämlich, welche die längste Leiter hat und am tiefsten hinunter kann: wie sollten nicht an der die meisten Schmarotzer sitzen? -  


 自分自身のうちに最も広い領域をもっていて、そのなかで最も長い距離を走り、迷い、さまようことのできる魂、最も必然的な魂でありながら、興じ楽しむ気持から偶然のなかへ飛びこむ魂。

- die umfänglichste Seele, welche am weitesten in sich laufen und irren und schweifen kann; die nothwendigste, welche sich aus Lust in den Zufall stürzt: -  


存在を確保した魂でありながら、生成の河流のなかへくぐり入る魂。所有する魂でありながら、意欲と願望のなかへ飛び入ろうとする魂。ーー

- die seiende Seele, welche in's Werden taucht; die habende, welche in's Wollen und Verlangen _will_: -  


 自分自身から逃げ出しながら、しかも最も大きい孤を描いて自分自身に追いつく魂。最も賢い魂でありながら、物狂いのあまい誘惑に耳をかす魂。ーー

- die sich selber fliehende, die sich selber im weitesten Kreise einholt; die weiseste Seele, welcher die Narrheit am süssesten zuredet: -  


 自分自身を最も愛する魂でありながら、そのなかで万物が、流れ行き、流れ帰り、干潮と満潮時をくりかえすような魂。ーーおお、こういう最高の魂がどうして最悪の寄生虫を宿さないでいよう。

- die sich selber liebendste, in der alle Dinge ihr Strömen und Wiederströmen und Ebbe und Fluth haben: - oh wie sollte _die_höchste_Seele_ nicht die schlimmsten Schmarotzer haben?

(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部「新旧の表Von alten und neuen Tafeln」1884年)




上に示したように《強者の独立に対する群れの本能[der Instinkt der Heerde gegen die Starken Unabhängigen]…例外に対する凡庸の本能[der Instinkt der Mittelmäßigen gegen die Ausnahmen]》、この群れの本能が弱者の本能であり、ニーチェのルサンチマンの本質は、独立独歩の例外者=強者に対する弱者の群れの復讐欲動に他ならない、《 復讐欲動の発展としての正義[Gerechtigkeit als Entwicklung des Rachetriebes. ]》(ニーチェ「力への意志」遺稿、1882 - Frühjahr 1887 )


「…もう沢山です! もう沢山です! もう我慢ができません。わるい空気です! わるい空気です! 理想が製造されるこの工場はーー真赤な嘘の悪臭で鼻がつまりそうに思われます。」

…genug! genug! Ich halte es nicht mehr aus. Schlechte Luft! Schlechte Luft! Diese Werkstätte, wo man Ideale fabriziert - mich dünkt, sie stinkt vor lauter Lügen.« - 

――だめだ! もう暫く! 貴君はあらゆる黒いものから白いものを、乳液やら無垢を作り出すあの魔術師たちの出世作についてまだ何も話さなかった。――貴君は奴らの《精巧な》仕上げ、奴らの最も大胆な、最も細微な、最も巧妙な、最も欺瞞に充ちている窖の獣どもーー奴らがほかならぬ復讐と憎悪から果たして何を作り出すか。貴君はかつてこんな言葉を聞いたことがあるか。貴君が奴らの言葉だけに信頼していたら、貴君は《ルサンチマン》をもつ人間どもばかりの間にいるのだということに感づくであろうか……

Nein! Noch einen Augenblick! sie sagten noch nichts von dem Meisterstücke dieser Schwarzkünstler, welche Weiß, Milch und Unschuld aus jedem schwarz herstellen - haben Sie nicht bemerkt, was ihre Vollendung im Raffinement ist, ihr kühnster, feinster, geistreichster, lügenreichster Artisten-Griff? Geben Sie acht! Diese Kellertiere voll Rache und Haß - was machen sie doch gerade aus Rache und Haß? Hörten Sie je diese Worte? Würden Sie ahnen, wenn Sie nur ihren Worten trauten, daß sie unter lauter Menschen des Ressentiment sind?... (ニーチェ『道徳の系譜学』 第一論文14節、1887年)



フロイトはこのニーチェを受けてこう言っているのである。


社会の中に集合精神[esprit de corps]その他の形で働いているものがあるが、これは根源的な嫉妬[ursprünglichen Neid]から発していることは否定しがたい。 だれも出しゃばろうとしてはならないし、だれもがおなじであり、おなじものをもたなくてはならない。社会的正義[Soziale Gerechtigkeit]の意味するところは、自分も多くのことを断念するから、他の人々もそれを断念しなければならない、また、 おなじことであるが他人もそれを要求することはできない、ということである。この平等要求[Gleichheitsforderung ]こそ社会的良心[sozialen Gewissens]と義務感 [Pflichtgefühls ]の根源である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第9章、1921年)



弱者という仔羊たちの社会的正義、これがルサンチマンの本質である。


ルサンチマン。おまえが悪い、おまえのせいだ……。投射的な非難と不平。私が弱く、不幸なのはおまえのせいだ。反動的な生は能動的な諸力を避けようとする[Le ressentiment : c'est ta faute, c'est ta faute... Accusation et récrimination projectives. C'est ta faute si je suis faible et malheureux.


反動的な作用は、「動かされる」ことをやめ、感じ取られたなにものかとなる。すなわち能動的なものに敵対して働く「ルサンチマン」となる。ひとは能動に「恥」をかかせようとする。生それ自身が非難され、その〈力〉から分離され、それが可能なことから切り離される。小羊はこう呟くのである。「私だって鷲がするようなことはなんでも、やろうと思えばできるはずだ。それなのに私は感心にも自分でそんなことはしないようにしている、だから鷲も私と同じようにしてもらいたい……」

 La réaction devient quelque chose de senti, « ressentiment », qui s'exerce contre tout ce qui est actif. On fait « honte » à l'action : la vie elle-même est accusée, séparée de sa puissance, séparée de ce qu'elle peut. L'agneau dit : je pourrais faire tout ce que fait l'aigle, j'ai du mérite à m'en empêcher, que l'aigle fasse comme moi... (ドゥルーズ『ニーチェ』1965年)



コロナワクチンやウクライナ戦争に関して、社会的正義を言い募ってきた仔羊たちはそろそろ食べ頃になったのではなかろうか? 


猛禽は幾らか憐憫の眼を向けながら、おそらく独り言を言うだろう、《俺たち
は奴らを、あの善良な仔羊どもを毛ほども憎んでなんかいない。俺たちは奴らを愛してさえいる、柔らかい仔羊より旨いものはないからな》と。[daß die Raubvogel dazu ein wenig spöttisch blicken werden und vielleicht sich sagen: »wir sind ihnen gar nicht gram, diesen guten Lämmern, wir lieben sie sogar: nichts ist schmackhafter als ein zartes Lamm.« ](ニーチェ『道徳の系譜』第1論文13節、1887年)


それともまだいっそう群れて抵抗し続けるのだろうか、あれら羊脳たちは?