このブログを検索

2022年7月26日火曜日

形容詞は共同体的で「他者」がない

 前回の「要約は共同体が容認する物語への「優雅な」翻訳」の補遺。

ここではまず自我じたいが共同体であることを強調しておこう。


『探究Ⅰ』において、私は、コミュニケーションや交換を、共同体の外部、すなわち共同体と共同体の「間」に見ようとした。つまり、なんら規則を共有しない他者との非対称的な関係において見ようとした。「他者」とは、言語ゲームを共有しない者のことである。規則が共有される共同体の内部では、私と他者は対称的な関係にあり、交換=コミュニケーションは自己対話(モノローグ)でしかない。一方、非対称的な関係における交換=コミュニケーションには たえず「命懸けの飛躍」がともなう。私はまた、そういう非対称関係における交通からなる世界を「社会」とよび、共通の規則をもち従って対称的関係においてある世界を「共同体」と呼んできた。

ここで、誤解をさけるために補足しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それば共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。共同体の外とか間という場合、それを実際の空間のイメージで理解してはならない。それは体系の差異としてのみあるような「場所」である。(柄谷行人『『探究Ⅱ』1989年)



…………………


さらに形容詞は共同体的ではないかという問いがある。



蓮實重彦)柄谷さんは、ものを考えたり、ものを書いたりするとき、形容詞というのをどう扱いますか。柄谷さんのなかにはあまりないんですね。形容詞というのを、僕は共同体的なものだと思うわけです。早い話が、べつに大人が見て、それを可愛いと思わなくても、若い子たちが“カワイイ”とかいっているのは、つまり“カワイイ”と表現したわけではなくて、“カワイイ”ということで共同体への所属を無邪気に確認しているわけでしょう。僕は、共同体というのは形容詞と非常に近い関係にあると思うんです。事実、ある種の申し合わせがなければ、形容詞というのは出ませんよね。それから形容詞が指示すべき対象とも違って、共同体の中で物語化されたあるイメージを使わない限り、形容詞というのは出てこないと思うんです。


その意味で、柄谷さんの文章はそれを全部廃している。つまり、共同体に対してはぶっきらぼうなんです。ところが僕の文章は非常に形容詞が多い。これはほとんど同じことをやっているんだけれども、方向ば別で、フィクションとしての形容詞を使っているわけですね。“美しい”という言葉を僕はよく使うことがあるんだけれども、その「美しい」という言葉は全部フィクションで、現実の美しさにも、共同体が容認するイメージにも絶対に到達することがないと確信しているがゆえに使っているにすぎないのです。(柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年)



バルトは形容詞批判をしているが、蓮實の念頭には必ずこのバルトがある。


彼にとって、自分自身のイマージュはどれもこれも耐えがたく、名づけられることは苦痛である。人間的なかかわりあいを完全なものにするためには、イマージュの空虚化だと彼は思っている。すなわち、人間同士のあいだで、互いに《形容詞》を廃棄することが大切なのだ。形容詞化されてしまうようなかかわりあいは、イマージュの領域に属し、支配と死の領域に属する。

Il supporte mal toute image de lui-même, souffre d’être nommé. Il considère que la perfection d’un rapport humain tient à cette vacance de l’image : abolir en soi, de l’un à l’autre, les adjectifs ; un rapport qui s’adjective est du côté de l’image, du côté de la domination, de la mort. (『彼自身によるロラン・バルト』1975年)


テクストのブリオ(これがなければ、結局、テクストは存在しない)は、享楽の意志であるだろう。ここにおいて初めて、テクストは要求を超越し、おしゃべりを乗り越え、これによって、形容詞の支配を打ち破り、外に溢れ出ようと試みるーー形容詞というのは、イデオロギー的なもの、想像界が怒涛のように流れ込む言語活動の戸口なのだ。Le brio du texte (sans quoi, en somme, il n'y a pas de texte), ce serait sa volonté de jouissance : là même où il excède la demande, dépasse le babil et par quoi il essaye de déborder, de forcer la main mise des adjectifs ― qui sont ces portes du langage par où l'idéologique et l'imaginaire pénètrent à grands flots. (ロラン・バルト『テクストの快楽』 1973 年)



………………


以下、ここでの話題と異なるが、上に享楽の意志(享楽への意志)[volonté de jouissance]とあるのでそれをめぐる。この享楽とは身体である。


私に快楽を与えたテクストを《分析》しようとする時、いつも私が見出すのは私の《主体性》subjectivitéではない。私の《個体》individuである。私の身体を他の身体から切り離し、固有の苦痛、あるいは、快楽を与える与件である。私が見出すのは私の享楽の身体[mon corps de jouissance]である。(ロラン・バルト『テキストの快楽』1973年)



そして享楽とは痛み[douleur]に関わる。


ヴァントゥイユの小楽節が突然彼に痛みをひきおこした[la douleur subite que lui avait causée la petite phrase de Vinteuil](プルースト「見出された時」)

私の享楽あるいは私の痛み[ma jouissance ou ma douleur](ロラン・バルト『明るい部屋』第11章、1980年)

疑いもなく享楽があるのは、痛みが現れ始める水準である[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur](Lacan, Psychanalyse et medecine, 1966)



バルトはこうも書いている。


(文化的)快楽と(非文化的)享楽の矛盾した働き[le jeu contradictoire du plaisir (culturel) et de la jouissance (inculturelle)](ロラン・バルト『テキストの快楽』1973年)

享楽、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである[la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. ](『彼自身によるロラン・バルト』1975年)


ラカン派的には欲望の言語(快楽の言語)と享楽の身体(欲動の身体)である。


欲望は言語に結びついている[le désir …il tient au langage](J.-A. MILLER "Le Point : Lacan, professeur de désir" 06/06/2013)

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる [Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


ーー《享楽の意志は欲動の名である[Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion]》(J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)



ラカンにとって詩(ポエジー)は享楽の身体(欲動の身体)に関わるが、これは基本的には芸術一般に当てはまるだろう。

詩は身体の共鳴が表現される[la poésie, la résonance du corps s'exprime](Lacan, S24, 19 Avril 1977)

詩は意味の効果だけでなく、穴の効果である[la poésie qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou].  (Lacan, S24, 17 Mai 1977)


身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)



プルーストのいう《ヴァントゥイユの小楽節が突然彼に痛みをひきおこした[la douleur subite que lui avait causée la petite phrase de Vinteuil]》のは、この痛みは《われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷[notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir. ]》(プルースト「逃げ去る女」)に結びついているからである(参照身体の壺に封じこめられた過去の喜びや痛みの回帰)。


ラカンの身体の穴はこの傷に他ならない。フロイトはこの欲動の身体の穴を「自己身体の出来事[Erlebnisse am eigenen Körper]=自我への傷[Schädigungen des Ichs]」、あるいは異物=異者としての身体[Fremdkörper]と表現した。



現実界は穴=トラウマをなす[ le Réel… fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。

また疑いもなく、初期の自我への傷である[gewiß auch auf frühzeitige Schädigungen des Ichs](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛みを呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。

das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)



心的痛み[psychischer Schmerz ]とあるが、これが享楽である、《疑いもなく享楽があるのは、痛みが現れ始める水準である[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur]》(Lacan, Psychanalyse et medecine, 1966)。


ラカンの享楽の回帰は、享楽のレミニサンス=痛みのレミニサンスに他ならない。《反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]》 (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)


現実界のなかの異物概念(異者としての身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne , 6  -16/06/2004)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異物=異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


フロイトのエスの起源はもちろんニーチェにある。


いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?


- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)


……………………


バルトの言う身体の記憶は、フロイトラカンの身体の出来事の記憶とすることができる。

私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である[mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など[des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières]、…失われた時の記憶[le souvenir du temps perdu]を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶[le corps et la mémoire]によって、身体の記憶[la mémoire du corps]によって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)


この失われた時の記憶が、痛み=享楽を伴いつつレミニサンスするのである。《痛み[Douleur]はただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう》(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄金のアリア』2005年)。フロイト用語なら、異者としての身体のレミニサンスである。《異者としての身体は原無意識としてエスのなかに置き残されている[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ]》(フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)


「寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ」のである。



(私の魂)といふことは言へない

しかも(私の魂)は記憶する

…………


耀かしかつた短い日のことを

ひとびとは歌ふ


私はうたはない

短かかつた耀かしい日のことを

寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ




痛みは明らかに苦痛と対立する。痛みは、消滅の・喪われた言語の、異者性・親密性・遠くにあるものの顔あるいは仮面である[la douleur, ici nettement opposée à la souffrance. Douleur qui prend les visages, ou les masques, de la disparition, du langage perdu, de l'étrangeté, de l'intime, des lointains.](ミシェル・シュネデール『シューマン 黄金のアリア』Michel Schneider La tombée du jour : Schumann 2005年)


シューマンには《遠くからやってくるように》という表記がある断章がいくつかある。ここでは最近知ったギーゼキングの演奏を貼り付けておこう、Davidsbündlertänze, Op. 6 : XVII.Wie Aus Der Ferne



……………


というわけだが、「閑話休題」の話に重点移行してしまった。


話の腰を折ることになるが、――尤、腰が折れて困るといふ程の大した此話でもないが――昔の戯作者の「閑話休題」でかたづけて行つた部分は、いつも本題よりも重要焦点になつてゐる傾きがあつた様に、此なども、どちらがどちらだか訣らぬ焦点を逸したものである。(折口信夫「鏡花との一夕 」)

閑話休題(あだしごとはさておきつ)。妾宅の台所にてはお妾が心づくしの手料理白魚の雲丹焼が出来上り、それからお取り膳の差しつ押えつ、まことにお浦山吹の一場は、次の巻の出づるを待ち給えといいたいところであるが、故あってこの後あとは書かず。読者諒せよ。ーー(永井荷風『妾宅』)



究極の異者とは実は「妾宅」にかかわる。


異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

不気味なものはかつて親しかった家、昔なじみのものである。Das Unheimliche ist also auch in diesem Falle das ehemals Heimische, Altvertraute.(フロイト『不気味なもの』第2章、1919年)


不気味な異者の原像とは、かつて独り占めし得た最も親しい家だが、九カ月ほどお邪魔させていただいた後に外に放り投げられてしまった「外にある家」であり、御浦山吹日陰の紅葉の雲丹焼つき妾宅とはその代理物に他ならない。寧ろ御浦山吹が私のけふの日を歌ふのである。もっとも妾宅はあくまで代用品であってまったく安定していないという不幸がある、「君、用心したまえ。僕ばっかりじゃないぜ、あの女にゃまだいろんな男がついている。非常な淫婦だ。」(荷風「夏すがた」)