このブログを検索

2022年7月10日日曜日

身体の壺に封じこめられた過去の喜びや痛みの回帰

 前々回記したことをもう少しプルーストのテキストに基づいて示しておこう(繰り返しの部分がいくらかあるが)。


プルーストは当初、『失われた時をもとめて』を『心の間歇 』les intermittences du cœurという総題にしようと考えていた。

(この小説の題は)たとえば総題が『心の間歇』、第一巻が副題『失われた時』、二巻目の副題が『永遠の崇拝』、第三巻の副題が『見出された時』です。(プルースト、ガリマールへの手紙、1912年11月)


心の間歇とは、身体の壺に封じこめられた過去の喜び[joies]や痛み[douleurs]が唐突に回帰することであり、これが最も鮮明に現れるのは『ソドムとゴモラ』の「心の間歇」の章である。


記憶の混濁 [troubles de la mémoire ]には心の間歇 [les intermittences du cœur] がつながっている。われわれの内的な機能の所産のすべて、すなわち過去のよろこびとか痛みとかのすべて [tous nos biens intérieurs, nos joies passées, toutes nos douleurs]が、いつまでも長くわれわれのなかに所有されているかのように思われるとすれば、それはわれわれの身体の存在 [l'existence de notre corps]のためであろう、身体はわれわれの霊性が封じこまれている瓶[un vase où notre spiritualité serait enclose]のように思われているからだ。(プルースト「ソドムとゴモラ」)


※より長くは「心の間歇文献集


心の間歇 [les intermittences du cœur]の間歇 intermittences という(類似)語は、例えば『花咲く乙女たちのかげに』にも《もっとも近い過去にささえられるかのように(その中間の年月はすべて抹殺されて)[appuyée comme à mon passé le plus récent, ce serait (toutes les années intermédiaires se trouvant abolies) ]》という形で現れる。

その道は、フランスでよく出会うこの種の多くの道とおなじように、かなり急な坂をのぼると、こんどはだらだらと長いくだり坂になっていた。 当時は、べつにその道に大した魅力を見出さず、ただ帰る満足感にひたっていた。ところがそののちこの道は、私にとって数々の歓喜の原因となり、私の記憶に一つの導火線として残ったのであり、この導火線のおかげで、後年、散歩や旅行の途中で通る類似の道は、どれもみんな切れないですぐにつながり、どの道も私の心と直接に通じあうことができるようになるだろう。なぜなら、ヴィルパリジ夫人といっしょに駆けまわった道のつづきであるというように見える後年のそうした道の一つに、馬車または自動車がさしかかるとき、すぐに私の現在の意識は、もっとも近い過去にささえられるかのように(その中間の年月はすべて抹殺されて)[appuyée comme à mon passé le plus récent, ce serait (toutes les années intermédiaires se trouvant abolies) ]、直接バルベック近郷の散歩の印象にーーあの午後のおわりの、バルベック近郷の散歩で、木の葉がよく匂い、タもやが立ちはじめて、近くの村のかなたに、あたかもその夕方までには到着できそうもない何か地つづきの違い森の国とでもいうように、木の間越しに夕日の沈むのが見られたとき、私が抱いたあの印象にささえられるようになるからである。(プルースト 「花咲く乙女たちのかげに」)



要するに心の間歇とは、遠い過去の記憶が唐突に現時の感覚とつながり、中間の記憶はすべて抹殺されるということである。そしてこれが身体の壺に封じこめられた過去の喜び[joies]や痛み[douleurs]に関わる。


ミシェル・シュネデールの《痛み[Douleur]はただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう》(『シューマン 黄金のアリア』2005年)とは、このプルーストの巧みな言い換えである。そしてこれがラカンの享楽の回帰である。


疑いもなく享楽があるのは、痛みが現れる始める水準である[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur](Lacan, Psychanalyse et medecine, 1966)

反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance](Lacan, S17, 14 Janvier 1970)


享楽の回帰[un retour de la jouissance]、すなわち痛みの回帰[un retour de la douleur]である。この痛みの回帰は『見出された時』にも、《ヴァントゥイユの小楽節が突然彼に痛みをひきおこした[la douleur subite que lui avait causée la petite phrase de Vinteuil]》という形で現れる。


昔スワンが、自分の愛されていた日々のことを、比較的無関心に語りえたのは、その語り口のかげに、愛されていた日々とはべつのものを見ていたからであること、そしてヴァントゥイユの小楽節が突然彼に痛みをひきおこした[la douleur subite que lui avait causée la petite phrase de Vinteuil のは、愛されていた日々そのものをかつて彼が感じたままによみがえらせたからであることを、私ははっきりと思いだしながら、不揃いなタイルの感覚、ナプキンのかたさ、マドレーヌの味が私に呼びおこしたものは、私がしばしば型にはまった一様な記憶のたすけで、ヴェネチアから、バルベックから、コンブレーから思いだそうと求めていたものとは、なんの関係もないことを、はっきりと理解するのであった。(プルースト「見出された時」)


そしてこの痛みの回帰が「異者の回帰」である。


痛みは明らかに苦痛と対立する。痛みは、消滅の・喪われた言語の、異者性・親密性・遠くにあるものの顔あるいは仮面である[la douleur, ici nettement opposée à la souffrance. Douleur qui prend les visages, ou les masques, de la disparition, du langage perdu, de l'étrangeté, de l'intime, des lointains.](ミシェル・シュネデール『シューマン 黄金のアリア』Michel Schneider La tombée du jour : Schumann 2005年)

最も近くにあるものは最も異者である。すなわち近接した要素は無限の距離にある。le plus proche soit le plus étranger ; que l’élément contigu soit à une infinie distance. . (Michel Schneider La tombée du jour : Schumann)




フロイトにおいてトラウマ[Trauma]は固着を通してエスに置き残された異者としての身体 [Fremdkörper] であり、その回帰が心的痛み[psychischer Schmerz]=レミニサンス[Reminiszenzen]である。

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛み[psychischer Schmerz]を呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。

das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)


ーー《異者としての身体は原無意識としてエスのなかに置き残される[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ]》(フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)


ここでのトラウマとは身体の出来事の意味である。


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


身体の出来事には喜ばしい身体の出来事、つまり喜ばしいトラウマもある。


PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収)


ーー中井久夫のこの文はきっとプルーストを念頭にしつつ書いている筈である。


そしてこの身体の出来事に関わる異者がラカンの現実界の享楽である。

現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)

享楽は身体の出来事である[la jouissance est un événement de corps.].(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


前回掲げたプルースト文をやはり再掲しておこう。

私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。〔・・・〕最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)[l'étranger]は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての幼児の私だった。

je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」)



《異者はかつての少年の私だった[l'étranger c'était l'enfant que j'étais alors]》である。プルーストはこの異者に相当するものを《自我でありながら自我以上のもの[moi et plus que moi ](内容をふくみながら、内容よりも大きな容器、そしてその内容を私につたえてくれる容器[le contenant qui est plus que le contenu et me l'apportait])》(『ソドムとゴモラ』「心の間歇 intermittence du cœur」1921年)という形でも表現している(参照)。


………………


プルーストには心の間歇 [intermittence du cœur]にかかわる記述がふんだんにあるが、私が好んで引用してきた文章群からわかりやすいものをいくつか掲げておこう。


◼️石鹸の広告

われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ[on peut faire d'aussi précieuses découvertes que dans les Pensées de Pascal dans une réclame pour un savon. ] (プルースト「逃げさる女」)


◼️シャンゼリゼの雪

ある時期にわれわれが見たある物、われわれが読んだある本は、われわれのまわりにあったものにだけいつまでもむすびついているわけではなく、当時のわれわれがあった状態にも忠実にむすびついている。それがふたたびわれわれの手にもどるのは、もはや当時のわれわれの感受性、または当時のわれわれ自身によってでしかありえない。私が図書室にはいって、他の思考をつづけていても、『フランソワ・ル・シャンピ』をふたたび手にとると、ただちに私のなかに一人の少年が立ちあがり、私の位置にとってかわる。そんな少年だけが、ただひとり、『フランソワ・ル・シャンピ』という表題を読む権利をもっている、そしてそのときの庭の天気とおなじ印象、土地や生活についてそのころ抱いていた夢とおなじ夢、あすへのおなじ苦悩とともに、そのときに読んだ通りに、彼はそれを読むのだ。私がもしちがったときのある事物をふたたび目に見るとしたら、そのとき立ちあがるのは、また一人の年少者であるだろう[Que je revoie une chose d'un autre temps, c'est un autre jeune homme qui se lèvera. ]


きょうの私自身は、見すてられた一つの石切場にすぎず、その私自身はこう思いこんでいる、この石切場にころがっているものは、みんな似たりよったりであり、同一調子のものばかりだと。ところが、そこから、一つ一つの回想が、まるでギリシアの彫刻家のように、無数の像を切りだすのだ。私はいおう、――われわれがふたたび見る一つ一つの事物が、無数の像を切りだす、と。


たとえば本は、その点に関しては、事物としてこんなはたらきをする、すなわち、その背の綴目のひらきかたとか、その紙質のきめとかは、それぞれそのなかに、りっぱに一つの回想を保存していたのであって、当時の私がヴェネチアをどんなふうに想像していたか、そこに行きたいという欲望がどんなだったか、といったことのその回想は、本の文章そのものとおなじほど生き生きしている。いや、それ以上に生き生きしているとさえいおう、なぜなら、文章のほうは、ときどき障害を来たすからで、たとえばある人の写真をまえにしてその人を思いだそうとするのは、その人のことを思うだけでがまんしているときよりも、かえってうまく行かないのである[comme ces photographies d'un être devant lesquelles on se le rappelle moins bien qu'en se contentant de penser à lui. ]


むろん、私の少年時代の多くの本、そして、ああ、ベルゴット自身のある種の本については、疲れた晩に、それらを手にとることがある、しかしそれは、私が汽車にでも乗って、旅先の異なる風物をながめ、昔の空気を吸って、気を休めたいと思ったのと変わりはなかった。しかも、求めてえられるその種の喚起は、本を長くよみつづけることで、かえってさまたげられることがあるものだ。ベルゴットの一冊にそんなのがある(大公の図書室にあるそれには、極端にへつらった俗悪な献辞がついていた)、それを私は、ジルベルトに合えなかった冬の一日に読んだ、そしていまは、あのように私が愛していた文章を、そこからうまく見つけだすことができない。いくつかの語が、その文章の個所を私に確信させそうだが、だめだ。私がそこに見出した美は一体どこへ行ったのか? しかしその書物自身からは、私がそれを読んだ日にシャン=ゼリゼをつつんでいた雪は、はらいのけられてはいなくて、私にはいつもその雪が目に見える[Mais du volume lui-même la neige qui couvrait les Champs-Élysées le jour où je le lus n'a pas été enlevée. Je la vois toujours. ](プルースト「見出された時」)


◼️芸術的よろこびは対象の鞘ではなく精神のなかにある

人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。


われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに[de la nature, de la société, de l'amour, de l'art lui-même]まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている[toute impression est double, à demi engainée dans l'objet, prolongée en nous-mêmes par une autre moitié]。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出されたとき」)

私はすでに理解していたが、粗雑な、あやまった知覚だけが、すべては対象のなかにあると思わせる、しかしすべては精神のなかにあるのだ[tout est dans l'esprit]。 私は実際に祖母を失ってから何か月もあとで、現実的に祖母を失ったのであった。私はすでに見てきたのだ、私または他の人々が相手からつくりあげている観念にしたがって、相手の人間の様相が一変するのを。だから、たった一人の人間も、その人間を見ていた人たちの数にしたがって何人もの人間になった。(プルースト「見出された時」)


◼️愛は過去が刻印された肉体の傷にある

ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける[Or à partir d'un certain âge nos amours, nos maîtresses sont filles de notre angoisse ; notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir. ](プルースト「逃げ去る女」)





◼️時間の外(超時間)にある過去の復活

私はそれらの幸福な印象を、現在の瞬間であると同時に遠く過ぎさった瞬間でもある場、過去を現在に食いこませその両者のどちらに自分がいるのかを知ることに私をためらわせるほどの場で感じとっていた。

je la devinais en comparant entre elles ces diverses impressions bienheureuses et qui avaient entre elles ceci de commun que je les éprouvais à la fois dans le moment actuel et dans un moment éloigné…allaient jusqu'à faire empiéter le passé sur le présent, à me faire hésiter à savoir dans lequel des deux je me trouvais ; 

じつをいえば、そのとき、私のなかで、そんな印象を味わっていた存在は、その印象がもっている、昔のある日といまとの共通域、つまりその印象がもっている超時間[extra-temporel]の領域で、その印象を味わっていたのであって、そんな存在が出現したのは、その存在が、現在と過去とのあいだの、あの一種の同 一性によって、つぎのような唯一の環境に身を置くことができたときでしかなかったのだ。それは、その存在が、事物のエッセンスによって生きることができ、それを糧として享受できるような環境、つまり時間のそと[dehors du temps]に出ることができるような環境でしかなかったのだ。


それで説明がつくのだが、プチット・マドレーヌの味を無意識に私が認めた瞬間に、自分の死についての不安がはたとやんだのは、そのとき、私という存在は、超時間の存在[un être extra-temporel]、したがって未来の転変を気にかけない存在であったからなのだ。そのような存在は、これまで私がかならず行動や直接的享楽のそとにいたときにしか、私にやってきたりあらわれたりしたことはなかった、そのたびに類推の奇蹟が私を現在から抜けださせたのであった。ただ一つ、この奇蹟だけが、私に昔の日々を、失われた時を、見出させる力をもっていた。そんな時をまえにして、私の記憶の努力、私の理知の努力は、つねに失敗してきたのであった。


もし現時の場所が、ただちに勝を占めなかったとしたら、私のほうが意識を失ってしまっただろう、と私は思う、なぜなら、そうした過去の復活[résurrections du passé] は、その状態が持続している短いあいだは、あまりにも全的で、並木に沿った線路とあげ潮とかをながめるわれわれの目は、われわれがいる間近の部屋を見る余裕をなくさせられるばかりか、われわれの鼻孔は、はるかに遠い昔の場所の空気 [l'air de lieux pourtant si lointains を吸うことを余儀なくされ[Elles forcent nos narines à respirer l'air de lieux pourtant si lointains]、われわれの意志は、そうした遠い場所がさがしだす種々の計画の選定にあたらせられ、われわれの全身は、そうした場所にとりかこまれていると信じさせられるか、そうでなければすくなくとも、そうした場所と現在の場所とのあいだで足をすくわれ、ねむりにはいる瞬間に名状しがたい視像をまえにしたときどき感じる不安定にも似たもののなかで、昏倒させられるからである。(プルースト「見出された時」)




◼️突然の幼時のある甘美な回想

突然、幼時のある甘美な回想に胸を打たれて、私は小さな窪道のなかに立ちどまった「Tout d'un coup dans le petit chemin creux, je m'arrêtai touché au cœur par un doux souvenir d'enfance : ]、私は気づいたのであった、ふちの切れこんだ、色つやの美しい葉の、しげりあって、道ばたにのびでているのが、さんざしのしげみだということに、それは春のおわりもとっくに過ぎて、ああ、その花も散ってしまったさんざしのしげみなのであった。私のまわりには、昔のマリアの月や、日曜日の午後や、忘れられたいろいろな信仰や過失などの雰囲気がただよってきた。私はその雰囲気をとらえたかった。私は一瞬のあいだ立ちどまった、するとアンドレは、私の心をやさしく占って、私がその瀧木の葉とひととき言葉を交すのを、そっと見すごしてくれた。私は花たちの消息を、それらの葉にたずねた、そそっかしくて、おしゃれで、信心深い、陽気な乙女たちにも似た、あのさんざしの花たちの消息を。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)



冒頭近くに"intermédiaires" に関わって一部引用したが、その後半も含めて。


◼️木の葉の匂の回帰

その道は、フランスでよく出会うこの種の多くの道とおなじように、かなり急な坂をのぼると、こんどはだらだらと長いくだり坂になっていた。 当時は、べつにその道に大した魅力を見出さず、ただ帰る満足感にひたっていた。ところがそののちこの道は、私にとって数々の歓喜の原因となり、私の記憶に一つの導火線として残ったのであり[Mais elle devint pour moi dans la suite une cause de joies en restant dans ma mémoire comme une amorce ]、この導火線のおかげで、後年、散歩や旅行の途中で通る類似の道は、どれもみんな切れないですぐにつながり、どの道も私の心と直接に通じあうことができるようになるだろう。なぜなら、ヴィルパリジ夫人といっしょに駆けまわった道のつづきであるというように見える後年のそうした道の一つに、馬車または自動車がさしかかるとき、すぐに私の現在の意識は、もっとも近い過去にささえられるかのように(その中間の年月はすべて抹殺されて)、直接バルベック近郷の散歩の印象に[ce à quoi ma conscience actuelle se trouverait immédiatement appuyée comme à mon passé le plus récent, ce serait (toutes les années intermédiaires se trouvant abolies) les impressions ]、ーーあの午後のおわりの、バルベック近郷の散歩で、木の葉がよく匂い、タもやが立ちはじめて、近くの村のかなたに、あたかもその夕方までには到着できそうもない何か地つづきの違い森の国とでもいうように、木の間越しに夕日の沈むのが見られたとき、私が抱いたあの印象にささえられるようになるからである。


そうした印象は、他の地方の、類似の路上で、後年私が感じる印象につながって、その二つの印象に共通の感覚である、自由な呼吸、好奇心、ものぐさ、食欲、陽気、などといった付随的なあらゆる感覚にとりまかれながら、他のものをすべて排除して、ぐんぐん強くなり、一種特別の型をもった、ほとんど一つの生活圏をそなえた、堅牢な快楽となるのであって、そんな圏内にとびこむ機会はきわめてまれでしかないとはいえ、そこにあっては、つぎつぎと目ざめる思出は、肉体的感覚によって実質的に知覚される実在の領分へ、ふだんただ喚起され夢想されるだけでとらえられない実在のかなりの部分をくりいれ、そのようにして、私がふと通りかかったこれらの土地のなかで、審美的感情などよりるはるかに多く、今後永久にここで暮らしたいという一時的なしかし熱烈な欲望を、私にそそるのであった。

そののち、ただ木の葉の匂を感じただけで、馬車の腰掛にすわってヴィルパリジ夫人と向かいあっていたことや、リュクサンブール大公夫人とすれちがって、大公夫人がその馬車からヴィルパリジ夫人に挨拶を送ったことや、グランド= ホテルに夕食に帰ったことなどが、現在も未来もわれわれにもたらしてはくれない、生涯に一度しか味わえない、言葉を絶したあの幸福の一つとして、何度私に立ちあらわれるようになった ことだろう!(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)