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2022年11月18日金曜日

デリダくん、勘弁してもらいたいものだ。フェミニストのお姉さんもしかり。

 


ははあ、何やらケッタイな見解をチラ見してしまったが、日本のフェミニストの、たぶん東大のセンセのようだが、フロイトラカンを批判(吟味)するのにデリダの『絵葉書』に依拠してんだな、いまだに。


デリダのラカン批判は最近のラカン派内ではもはや触れられることもなく、初心者的なピント外れの批判としてあっさり葬られているが、チラ見した記念に10年近く前の備忘録を「引き出し」から探り出したのでここに掲げておこう。


………………


以下、ラカンのデリダ批判ーー名前は出していないが明らかにデリダに向けられているーーとしてラカニアンでは有名な箇所である。その批判は《勘弁してもらいたいものだ》Qu'on me l'épargne Dieu merci ! ーーここに収斂する。


無意識の形成物についてフロイトが言うことを再現するために、私が文字を使って書き記したことからは、無意識の形成物とは結局シニフィアンの効果であるので、 文字をシニフィアンにすることも、 さらにはシニフィアンにたいして文字に原初性を与えることも許されない。

Ce que j'ai inscrit, à l'aide de lettres, des formations de l'incons-cient pour les récupérer de ce dont Freud les formule, à être ce qu'elles sont, des effets de signifiant, n'autorise pas à faire de la lettre un signifiant, ni à l'affecter, qui plus est, d'une primarité au regard du signifiant. 


このように混乱した言説は、私を導入する[importer]ディスクールからしか生まれなかった。だが、それが私を導入するのは、 後になって私が大学人の言説として、 つまり、 見せかけから出発して使用される知として取りだしたもう一つのディスクールのなかにである。 私が扱う経験はそれとは違う言説によってしか位置づけされないという感覚が少しでもあれば、このような混乱した言説を、 言いだすことは避けられたであろう。 それが私のものだとは認めていないが、 いい加減に勘弁してもらいたいものだ。だが今言った意味で私を導入することは、私を煩わす[importune]ことには変わりない。 

Un tel discours confusionnel n'a pu surgir que de celui qui m'importe. Mais il m'importe dans un autre que j'épingle, le temps venu, du discours universitaire, soit du savoir mis en usage à partir du semblant. Le moindre sentiment que l'expérience à quoi je pare, ne peut se situer que d'un autre discours, eût dû garder de le produire, sans l'avouer de moi. Qu'on me l'épargne Dieu merci ! n'empêche pas qu'à m'importer au sens que je viens de dire, on m'importune. (ラカン「リチュラテール lituraterre」AE4, 1971年)





ジャック=アラン・ミレールはとっても優しくデリダに触れてるけどね。


ラカンとデリダの間には30年の年齢差があり、したがって、ラカンの教えの部分は、デリダがまだ一種の初心者である間にすでに行われていたという事態がある。Qu'il y ait trente années de différence d'âge entre Lacan et Derrida, et donc qu'une part de l'enseignement de Lacan était déjà advenue alors même que Derrida n'était encore qu'une sorte de commençant,(J.-A. Miller, DES REPONSES DU REEL, 2 mai 1984)





ここでもうひとつ、2000年代に哲学的ラカン派の若きリーダーと呼ばれたロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesaのデリダ批判も掲げておこう。


ラカンによる不安の定義は厳密な意味で、「欠如の欠如」 である。それは、情け容赦なくデリダの主張を論破する。デリダによれば、ラカンの「男根至上主義的」主体理論において、《何かがその場所から喪われている。しかし欠如(ファルス)は決してそこから喪われていない》(J. Derrida, Le facteur de la vérité、『絵葉書』)と。

Lacan's definition of anxiety stricto sensu in terms of the “lack of lack” pitilessly refutes Derrida's claim according to which, in Lacan's “phallogocentric” theory of the subject, “something is missing from its place, but the lack [the phallus] is never missing from it” (J. Derrida, “Le facteur de la vérité,” in The Post Card: From Socrates to Freud and Beyond [Chicago: University of Chicago Press, 1987], p. 441; emphasis added). 


デリダの問題は、ラカンの現実界の次元を全く分かっていないことだ。デリダは、欠如を、大他者の大他者を支える内-象徴界的要素として、常に考えているように見える。

Derrida's problem is that he completely misses the dimension of the Real in Lacan insofar as he always considers lack as an intrasymbolic element guaranteed by the Other of the Other. 


文学の不安誘発力を認めることに対するラカンの「恐怖」についてのデリダの考察も、同様に誤謬である。「ラカンは分身と不気味なもののこの問題を容赦なく排除している。そして、そうするのは、疑いなく、それが想像的なものに含まれていると見なすためである。…

この問題は、象徴的なものから厳格に切り離されなければならない。. .こうして制御されることになるのは、不気味なものであり、シミュラクルからシミュラクルへ、分身から分身への参照によって引き起こされうる不安の混乱である」(同書、460頁)。

His considerations on Lacan's “fear” of acknowledging the anxiety-provoking power of literature are equally belied: “[Lacan] forecloses this problematic of the double and of Unheimlichkeit without mercy. And does so, doubtless, in order to deem it contained in the imaginary . . . which must be kept rigorously apart from the symbolic. . . . What thus finds itself controlled is Unheimlichkeit, and the anguishing disarray which can be provoked . . . by references from simulacrum to simulacrum, from double to double” (ibid., p. 460). 


だがラカンは、ホフマンの物語について次のように注釈している、「虚構の場が、われわれの『不気味なもの』体験に提供する本質的な側面。現実において、不気味なものは束の間のものである。フィクションはそれをより良い形で示し、効果として生み出すことさえある。. . .これは一種の理想点だが、この効果によって幻想の機能を見ることができるので、われわれにとって非常に貴重なものだ」(Le séminaire livre X, p.61)。


For his part, in commenting on Hoffmann's tales, Lacan speaks of the “essential dimension which the field of fiction provides for our experience of the Unheimlich. In reality, the latter is fleeting. Fiction shows it in a much better way, it even produces it as an effect. . . . This is a kind of ideal point but it is very precious for us since this effect allows us to see the function of fantasy” (Le séminaire livre X, p. 61).

(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan,  2007年)





なお上で触れられているフロイトの「不気味なもの」は、ロレンゾが言うように、ラカンにとって「欠如の欠如」であり、現実界の穴(トラウマ)、欲動の身体に関わる。


不気味なものは、欠如が欠如している[L'Unheimlich c'est ce - que le manque vient à manquer.  ](ラカン、S10, 28 Novembre 1962)

欠如の欠如が現実界をなす [Le manque du manque fait le réel](Lacan, AE573、1976)



そしてこの不安をもたらす不気味な現実界は、穴、欲動の現実界、身体に関係する。


現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975、摘要)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)


ーーもともとフロイトにとって欲動の定義はトラウマである➡︎欲動はトラウマ、あるいは異者としての身体」。さらにトラウマとは喪失(身体的なものの喪失)を意味する[参照]。


他方、ファルスは欠如であり、言語、象徴界の審級にある。

ファルスはそれ自体、主体において示される欠如の印以外の何ものでもない[  (le) phallus lui-même … n'est rien d'autre que ce point de manque qu'il indique dans le sujet. ](Lacan, LA SCIENCE ET LA VÉRITÉ, E877, 1965)

ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない[Die Bedeutung des Phallus  est en réalité un pléonasme :  il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus. ](ラカン, S18, 09 Juin 1971)

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage] (Lacan, S25, 10 Janvier 1978)


ーーなおラカンにとって想像界は象徴界に常に支配されている、つまりイマージュは言語の審級にある。


欠如と穴の相違についてもう少し詳しくは、➡︎欠如と穴(外立)



……………


あまり細部に拘らず簡単に言えば、重要なのは、これはデリダに限らずドゥルーズ&ガタリにも誤謬があるが、ファルスの彼岸、オイディプスの彼岸には自由などなく、不気味なトラウマ的欲動の身体しかないことである。


パラノイアのセクター化に対し、分裂病の断片化を対立しうる。私は言おう、ドゥルーズ とガタリの書(「アンチオイディプス」)における最も説得力のある部分は、パラノイアの領土化と分裂病の根源的脱領土化を対比させたことだ。ドゥルーズとガタリがなした唯一の欠陥は、それを文学化し、分裂病的断片化は自由の世界だと想像したことである。

A cette sectorisation paranoïaque, on peut opposer le morcellement schizophrénique. Je dirai que c'est la partie la plus convaincante du livre de Deleuze et Guattari que d'opposer ainsi la territorialisation paranoïaque à la foncière déterritorialisation schizophrénique. Le seul tort qu'ils ont, c'est d'en faire de la littérature et de s'imaginer que le morcellement schizophrénique soit le monde de la liberté.    (J.-A. Miller, LA CLINIQUE LACANIENNE, 28 AVRIL 1982)


ファルス、エディプス的父、さらに言えば、家父長制は原初の欲動の身体を飼い馴らす機能がある(もちろんこの観点は、エディプス的父の支配の論理に陥りがちな悪弊を否定するものではまったくない)。ほとんどのフェミニストはいまだこの欲動の飼い馴らしという肯定面の認識がないまま議論展開しており、これは是非とも軌道修正が必要なのだが、殆どの場合、その気配がないままの「不幸」がある。



これはフロイトラカンどころかニーチェが既に言っている。人には言語的な=ファルス的な制度が必要なのである。


私は、ギリシャ人たちの最も強い本能、力への意志を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 [unbändigen Gewalt dieses Triebs]に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための保護手段から生じたものであることを見てとった。Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs – ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen. (ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第3節『偶然の黄昏』所収、1888)

欲動蠢動、この蠢動は刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである [la Triebregung …Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute](ラカン, S10, 14  Novembre  1962)



ラカンは学園紛争を契機に、 父の蒸発 [évaporation du père]、エディプス的父の失墜[déclin de l'Œdipe]を言っており、それと同時期に《レイシズム勃興の予言 prophétiser la montée du racisme》(Lacan, AE534, 1973)をしている。21世紀の現在はこれが極まった時代であるのは、この今、例えばNATO なるテロリズム集団の振舞いにおいて如実に証明されている。ミソジニーミサンドリーの猖獗は、このテロリズムの性関係版である。


……………


※付記


ロレンゾが示している不気味なものと分身。


分身、つまりドッペルゲンガー[Doppelgänger]とは単に不気味なものではない。不気味なものプラス自己イマージュである。


不気味なものの別名は異者ーーエスの欲動蠢動ーーである。

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich ](Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体の症状と呼んでいる。Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


この不気味な異者の上に覆い被さった自己イマージュ、その混淆の「分身」は漱石の『明暗』の末尾に実に見事に表現されている。温泉宿で迷子になって彷徨う主人公津田が鏡のなかに自らの「暗」の分身と出会う「百七十五」、結婚直前に《逃げられちまった》(百四十一)女、清子と廊下と階段のあいだで遭遇して互いに凍りつく「百七十六」において。自己イマージュの底に隠れている不気味な異者の深淵に慄く津田の姿。



若き加藤周一は、この『明暗』についてきわめて巧みな分析をしている。


私は、『明暗』によって、又『明暗』によってのみ、漱石は不朽であると思う。そして、『明暗』は、漱石の「知性人たる本質」によってではなく、知性人たらざる本質によって、その他のすべての小説が達し得なかった、今日なお新しい現実、人間の情念の変らぬ現実に達し得たと思う。〔・・・〕


そのデーモンは、『明暗』の作者を、捉えたのであり、生涯に一度ただその時にのみ捉えたのである。それが修繕時の大患にはじまったか、何にはじまったか、私は知らない。確実なのは、小説の世界が今日なお新しい現実を我々に示すということであり、それに較べれば、知的な漱石の数々の試みなどは何ものでもないということである。〔・・・〕

我々の憎悪や愛情やその他もろもろの情念は、しばしば極端に到り、爆発的に意識をかき乱し、ながく注意され、ながく論理的に追求されれば、意識の底からは奇怪なさまざまの物が現れるであろう。我々の日常生活にそういうことが少ないのは、我々の習慣が危険なものを避け、深淵が口を開いても、その底を見極めようとはしないからである。しかし、その底に、我々の行動を決定する現実があり、日常的意識の奥に、我々を支配する愛憎や不安や希望がある。それは、日常的生の表面に多様な形をとって現れるが、その多様な現象の背後に、常に変らざる本質があり、プラトン風に言えば、影なる現象世界の背後に、観念なる実在がなければならない。観念的なものは現実的であり得るし、むしろ観念的なもののみが現実的であり得る。なぜなら、それが、小説家に、深く体験され、動かしがたく確実に直感されたものであるからだ。(加藤周一「漱石に於ける現実 ――殊に『明暗』に就いて――」1948年)



私に言わせれば、『明暗』は現在、まともに読まれていない。カフカのいくつかの小説と同じくらいの傑作のあの小説である。


「日本の読書会級だなんて自分で思つてるんだろう?しかしてめえたちはな、漱石の文学を読んだことなんざ一度だつてねえんだぞ。てめえたちにやそもそも漱石なんか読めやしねえんだ。漱石つてやつあ暗いやつだつたんだ。陰気で気違いみてえに暗かつたんだ。」(中野重治「小説の書けぬ小説家」)


ーー《私には私の心を腐蝕するような不愉快な塊が常にあった。》(夏目漱石『硝子戸の中』)。この「不愉快な塊」を真に描き尽くそうとしたのが未完の遺著『明暗』である。