相手が女だと、憎しみの情に、好奇心や、親しくなりたいという欲望、最後の一線を越えたいという願望などといった、好意のあらわれを刻みつけることができる。(クンデラ『冗談』) |
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男にとって女というのはこういうもんだよ、どんなにおバカな、あるいはエラそうなこと言ってる女でも、この女、もしヤッたら、どんな声出すんだろ、猫系だろうか、それとも馬系だろうか、とか思うわけでさ。女は男に対してそういうことは少ないだろうけど。
水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く(吉岡実) |
をりふしにおとがひあげて鶴さはに鳴く(蚊居肢) |
死にますの 声に末期の 水をのみ (誹風末摘花) |
というわけで(?)、セクシャリティの世界では女の勝ちに決まってんだ。でも、男はその世界からおりるわけにはいかないさ、「聖人」だってそうだよ、稀な例外がいるようにみえても、あれはたんなる見せかけに過ぎないね。
なんたって真理は女なんだから。
真理は女である[die wahrheit ein weib](ニーチェ『善悪の彼岸』「序文」1886年) |
恐らく真理とは、その根底を窺わせない根を持つ女なるものではないか?恐らくその名は、ギリシア語で言うと、バウボ[Baubo]というのではないか?…[Vielleicht ist die Wahrheit ein Weib, das Gründe hat, ihre Gründe nicht sehn zu lassen? Vielleicht ist ihr Name, griechisch zu reden, Baubo?... ](ニーチェ『悦ばしき知』「序」第2版、1887年) |
究極の真理は喪われたバウボに決まってんだ。
要するに、去勢以外の真理はない[En somme, il n'y a de vrai que la castration ](Lacan, S24, 15 Mars 1977) |
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり、自己身体の重要な一部の喪失と感じるにちがいない。〔・・・〕そればかりか、出生行為はそれまで一体であった母からの分離として、あらゆる去勢の原像である[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration, d. h. als Verlust eines bedeutsamen, …ja daß der Geburtsakt als Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war, das Urbild jeder Kastration ist. ](フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註) |
喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年) |
ま、もしここまで極論を言わなくても、次の男女の違いは決定的だね
男/息子は、彼の愛の原対象(母-女の性)を維持できる。娘にとっても、母は最初の唯一の愛の対象である。娘が父へと移行するのは、第二ステージでしかない。この移行はたんなる置き換えである。父が前景に現れるとしても、母の像はつねに背景にある。〔・・・〕 少女にとって、母は最初の愛の対象であり、この対象は父と交換されるという事実が意味するのは、父は少女にとって「二次的選択」だということである。結果として引き続くどんなパートナーも少なくとも「三次的選択」である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE 、1998年) |
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つまり男の女への愛は二次的愛で、他方、女の男への愛は三次的愛だ。女の男のいらない度は男の女のいらない度よりもはるかに高い。オチンチンなんてたいしたもんじゃないさ、《フェラチオは母の乳房吸喫の再構成[Saugen am Penis …ist zu nennenden Eindruckes vom Saugen an der Mutter- oder Ammenbrust]》(フロイト『症例ドラ』1905年)であるだろうし(女の顔を少しでも観察したら丸わかりだよ)、最近は高機能のへのこもあることだし、女はより原愛に近い女同士で愛し合う場がある。
小児が母の乳房を吸うことがすべての愛の関係の原型であるのは十分な理由がある。対象の発見とは実際は、再発見である。Nicht ohne guten Grund ist das Saugen des Kindes an der Brust der Mutter vorbildlich für jede Liebesbeziehung geworden. Die Objektfindung ist eigentlich eine Wiederfindung (フロイト『性理論』第3篇「Die Objektfindung」1905年) |
超自我はこの母の乳房だよ、まずは。 |
私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である[In my view…the introjection of the breast is the beginning of superego formation.…The core of the superego is thus the mother's breast] (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951) |
母なる超自我・太古の超自我、この超自我は、メラニー・クラインが語る原超自我の効果に結びついている[Dans ce surmoi maternel, ce surmoi archaïque, ce surmoi auquel sont attachés les effets du surmoi primordial dont parle Mélanie KLEIN,](Lacan, S5, 02 Juillet 1958) |
クライン曰くの「超自我は母の乳房」とまではフロイトは言っていないが、超自我への取り入れ[Introjektion ins Über-Ich]=前エディプス的母との同一化[Mutteridentifizierung präödipale](乳房との同一化も含む)=母への固着[Fixierung an die Mutter]=無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es]とは言っているので、論理的にそうなるね。
後年のラカンはこれをより一般化して「母の身体」というようになるが、バウボも含んだ身体だろうな。ラカンは《超自我は、去勢と相関関係がある[le surmoi, corrélat de la castration] 》 (Lacan, S20, 21 Novembre 1972 )と言っており、「去勢の原像」バウボと結びついているに決まってるさ。ま、それは今は深入りしないでおくとしても、エスの欲動の身体(駆り立てる力)の代理人の超自我が母の身体で、その後継品を抱えているのがすべての女なんだから、かなわないさ。どうしたって女に反復強迫しちゃうんだ、男女両性ともにね。
要するに男は常に敗けいくさしてんだよ、これはどうしようもない宿命だね。
もっともファザコンタイプーー最近は少なくなったとはいえ、まだかなりいるね、この宇露紛争を契機にツイッターでいくらか観察した範囲でもーーは男を欲しがるということはある。
われわれは女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである[so daß geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.]〔・・・〕 |
もっとも女性における対象選択の条件は、認知されないまましばしば社会的条件によって制約されている。女性において選択が自由に行われる場では、しばしば彼女がそうなりたい男性というナルシシズム的理想にしたがって対象選択がなされる。もし女性が父への結びつきに留まっているなら、つまりエディプスコンプレクスにあるなら、その女性の対象選択は父タイプに則る[Ist das Mädchen in der Vaterbindung, also im Ödipuskomplex, verblieben, so wählt es nach dem Vatertypus.](フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年) |
シルヴィア・プラスの名高い詩句、
女はみなファシストを讃える Every woman adores a Fascist ーーSYLVIA PLATH, Daddy, 1962 |
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ってのはもちろんファザコン女たちのことだ。
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そういえば、「聖女」と呼ばれた精神科医神谷美恵子さんーー彼女は美智子妃の1965年から1972年にかけての相談役でもあったーーは若き日の手記にこんなこと書いてるらしいよ[参照]。 |
蜘蛛のような私、妖しい魅力と毒とを持つ私が恐ろしい…ナイーヴで誠実な青年たちの血をすすって生きる雌ライオン - 私はそんな自分自身が恐ろしい。神様、許してください。(神谷美恵子、非公開の手記) |
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こんな女。母性型と妖婦型を持ち合せ、前者を聖にまでひきあげて見せる事によって人を次々と惹きつけて行く。そして自他共に苦ませる。しかし、結局一人づつとりあげては捨てて行く。迷惑なのはその「他」共。 私の内なる妖婦(ヴァンプ)を分析したら面白いだろうと思う。それは随分いろんなことを説明するだろう。みんなを化かす私の能力、みんなを陶酔させ、私を女神のようにかつがしめるあの妖しい魔力にどれほどエロスの力があずかっているかしれない。それを思うとげっそりする。 |
しかし一面私はたしかに自分のそうした力をエンジョイしている。あらゆる人間を征服しようとする気持ちがある。征服してもてあそぶのだ。 私の心は今ひくくひくくされている。私は才能と少しばかりの容姿-少なくとも母はこの点を常に強調する-の為に人から甘やかされ、損なわれた女だ。心は傲慢でわがままで冷酷である。そうして男をもてあそんでは投げ棄てる事ばかりくりかえしている。 自分の才能と容姿がのろわしい。平凡な心貧しき女であり度かった。(神谷美恵子、非公開の手記) |
女ってのはこういうもんさ、美女ならなおさらそうだ。これを抑圧すると病気になるんだよ。誰かさんみたいに相談役が必要になるんだ(?)
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『君、すべての男は……すべての男だよ。一人でも多く異つた種類の女を欲するものなのだ。もし、さうでない男が在るとしたら、その男は無智識であるか、或ひは、臆病で自信がないといふことだけなのだ……』
と、Mが云つた。
『あなた、ちつとも女に就いて御存じがないのネ。女は、あなたのやうな物質的に貧弱なものの御考方に御相伴したがらないものよ。え、一人殘らず……贅澤な飼猫になりたいのよ。誰だつて妾になりうるのよ。もしさうでない女があるとしたら、その女は、そんな世界をしらないとか、或ひは、自分の力に就いて、魅惑に就いて自信がないとかいふこと丈なのですわ…… 』
とH子が、正面から私のSimpletonを揶揄した。
ーー海邊日記 金子光晴