ああ、わかりにくかったかね。前回付け加えなかったのだけど、フロイトラカンにおいて神は超自我のことだよ。
で、女なるものは超自我だ。次の二文からそうなる。 |
人が一般的に神と呼ぶもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi.] (Lacan, S17, 18 Février 1970) |
一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである[C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». ](Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
この女なるものは母なる女だ。 |
(原初には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女というものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に[…une dominance de la femme en tant que mère, et : - mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme. La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. ](Lacan, S17, 11 Février 1970) |
つまり母なる女は超自我だ。 これはフロイトがしっかりそう示している。 |
心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。 Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年) |
幼児の依存[kindlicher Abhängigkeit]とあるが、《母への依存性[Mutterabhängigkeit]》(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)であり、つまり母は超自我だ。 |
母なる超自我は原超自我である[le surmoi maternel… est le surmoi primordial ]〔・・・〕母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに表現される[c'est bien autour de ce quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule](Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要) |
以上、前回の記事はこれで補って読んだら、もう少しわかりやすくなる筈だよ。
いや、さらに次の基本版も貼り付けておくか。
超自我は絶えまなくエスと密接な関係をもち、自我に対してエスの代理としてふるまう。超自我はエスのなかに深く入り込み、そのため自我にくらべて意識から遠く離れている。das Über-Ich dem Es dauernd nahe und kann dem Ich gegenüber dessen Vertretung führen. Es taucht tief ins Es ein, ist dafür entfernter vom Bewußtsein als das Ich.(フロイト『自我とエス』第5章、1923年) |
超自我はエスの代理人で、エスとは「有機体的生の真の意図」に関わる欲動の身体的要求だ。 |
エスの力[Macht des Es]は、個々の有機体的生の真の意図を表す。それは生得的欲求の満足に基づいている。己を生きたままにすること、不安の手段により危険から己を保護すること、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。 Die Macht des Es drückt die eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesens aus. Sie besteht darin, seine mitgebrachten Bedürfnisse zu befriedigen. Eine Absicht, sich am Leben zu erhalten und sich durch die Angst vor Gefahren zu schützen, kann dem Es nicht zugeschrieben werden. Dies ist die Aufgabe des Ichs〔・・・〕 エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章, 1939年) |
有機体的生の真の意図ってのは死だよ、 |
生の目標は死である。.…有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。Das Ziel alles Lebens ist der Tod […] der Organismus nur auf seine Weise sterben will; auch diese Lebenswächter sind ursprünglich Trabanten des Todes gewesen. (フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年) |
だから超自我とは死の欲動に関わる。
死の欲動は超自我の欲動である[la pulsion de mort ..., c'est la pulsion du surmoi] (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000) |
タナトスとは超自我の別の名である[Thanatos, which is another name for the superego] (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one, 2016) |
この二人の断言は、フロイトラカンの単なる要約であり、ラカン自身、そのテキストで実にはっきりとそう明示している➡︎「超自我は死の欲動]
要するに母なる女は死の欲動の体現者であり、女たちはその母の後継人だから、男たちは女に逆らってもケッシテいいことないよ、わかるかい?
ミュッセの《女が欲することは、神も欲する[Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut]》(Alfred de Musset, Le Fils du Titien, 1838)ってのは、少なくともフロイトラカン的には「女が欲することは、超自我も欲する」なんだ。で、究極的には「死も欲する」だよ。