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2022年11月20日日曜日

木瓜の花がきっと咲き続ける

 

超自我概念はこの現在に至るまで、ほとんどの人はわかってないんだよ。それはフロイトラカン派プロパでさえそうであり、かつてならアンチオイディプスの議論にかかわるドゥルーズの超自我もフロイトを誤読している[参照]。日本なら憲法超自我論の柄谷行人も同じく誤読している。

何が問題なのか。フロイト自身の記述の曖昧さももちろんある。だが最後のフロイトにとって、何よりもまず原超自我は母である。ラカンの父の名はこの「母なる超自我」の隠喩あるいは防衛に過ぎない。この父の名自体、前期ラカンは「父なる超自我」、あるいは「エディプス的超自我」と呼んでいるが、この「父の名=父なる超自我=エディプス的超自我」はフロイトの「自我理想」を形式化したものであり、事実上、言語の大他者(欲望の大他者)である。他方、母なる超自我は身体の大他者(欲動の大他者)である[参照]。






人がどう呼ぼうとかまわないが、「母なる原超自我」と父の名としての、いわば「父なる二次的超自我」を区別しない議論はほとんど無意味だ。それは「身体/言語」、つまり「欲動/欲望」の区別をつけないまま話をしていることになるのだから。


日本では長年フロイトにかかわっている柄谷でさえこの区分ができていないわけで、最近の東浩紀、國分功一郎や千葉雅也 、それに宮台真司などもネット上でチラ見する範囲だが、この超自我の二面性がまったくわかっていない。木瓜の花が咲くような話しかしていない。ラカン派の松本卓也でさえあやしい[参照]。


(ある時期までの中井久夫もそうだったが、2000年代に入って「母なるオルギア/父なるレリギオ」を示したことにより修正できている[参照])



少なくともマツタクはジャック=アラン・ミレールが30年以上前に言った次の発言をしっかりとは受け止めていないように見えるね。


享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する。この観点において、おそらく超自我の真の価値は欲動の主体である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion. A cet égard, peut-être que la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)


あるいはーー、

S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる[S(Ⱥ) …on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. ](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)

S (Ⱥ)というこのシンボルは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたものである[S de grand A barré [ S(Ⱥ)]ーー ce symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne ](J.-A, Miller,  LE LIEU ET LE LIEN,  6 juin 2001)



ミレールはこうやって超自我と欲動の結びつきを繰り返している、最近になってもそうだーー《ラカンが『カントとサド』で論証したことは、超自我は欲動の藪と関係があることである[- c'est ce que Lacan démontrera dans son « Kant avec Sade » -, le surmoi est en rapport avec la brousse des pulsions. ]》 (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008)


これだけ何度も強調しているのは、おそらくミレールのセミネールの聴き手もいまだ充分にわかっていないせいのように見える。そして欲望と超自我は関係がない、欲望と関係があるのは父の名である。これはミレールがラカンから引き継いだ最初のセミネールで強調している次の発言に関わる、《古典的なフロイトの超自我は、エディプスコンプレクスの失墜においてのみ現れる[le surmoi freudien classique n'émerge qu'au déclin du complexe d'OEdipe]》 (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)。これは事実上、ある時期のラカンの《エディプス的超自我[surmoi œdipien]》(Lacan, S7, 29  Juin  1960概念の批判だ。ラカンは2年後の『カントとサド』で修正したのだ。


もちろん私はミレールの注釈が全部正しいとは決して言わないが、超自我に関してはその正当性をフロイトラカンのテキストに当たって確認している(そのなかでラカンのフロイトのエディプス批判ーー《名高いエディプスコンプレクスは全く使いものにならない[fameux complexe d'Œdipe…C'est strictement inutilisable ! 》](Lacan, S17, 18 Février 1970)ーーってのはいくらかハッタリ気味であるか、そうでなければフロイトのテキストをこの時点のラカンは十分に読み込めていないというのを見出したね[参照])。


そもそもラカンはフロイトの無意識概念でさえ誤解しており、1973年になってようやく正式に訂正したという相がある[参照]。これは中井久夫が批判している、《ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる》(中井久夫「創造と癒し序説」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)。1973年、72歳になってようやく、欲望の無意識から欲動の無意識に移行したのである。もっとも1962−63年のセミネールⅩの段階では欲動の無意識を掴んでいた(なぜかそこから10年間、奇妙な方向に彷徨ってしまったのである。ミレールによれば構造主義に嵌った影響が大きいと言っている)。



ここでもう一度ミレールに戻ろう、次の二文は同じ意味である。


超自我は享楽の意志である[le surmoi, c'est une volonté de jouissance](J.-A. MILLER, DU SYMPTÔME AU FANTASME, ET RETOUR, 3 novembre 1982)

死の欲動は超自我の欲動である[la pulsion de mort ... c'est la pulsion du surmoi]  (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)


➡︎[超自我は死の欲動


・・・という具合なので、前回いくらか冗談めかして記したが、くどいほど繰り返して記したことでもあり、もうあまりマジっぽく書きたくないんだよ。日本の言論界における超自我概念把握は、幸運でもあと20年ぐらいかかるか、ひょっとしたら修正不能のままズルズルいくんじゃないかね。