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2022年12月16日金曜日

一般教養篇:「不気味なものの回帰」は「抑圧されたものの回帰」

 「不気味なもの」とか「抑圧」とかは、フロイトラカン研究者でさえしっかり把握している人はほんのわずかなので、一般の批評家やら哲学者やらがチンプンカンプンでもやむ得ないと思うようになってきたね、最近は。少し前には柄谷行人やら千葉雅也やらがまったき誤謬をしているのを指摘したが[参照]、まぁ、世界とはその程度のものだよ、もともと。最近は文句言っても徒労感が募るばかりだから、よほどのことがない限りバカにするのをもうやめる気分だね。で、不気味なものはエロを外して記すと面白くないんだが、ここでは敢えて外して一般教養篇としてお嬢さん向けに記しとくよ。

……………

不気味なものの回帰は抑圧されたものの回帰とフロイトは記している。


不気味なものは秘密の慣れ親しんだものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである[Es mag zutreffen, daß das Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist,](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第3章、1919年)


もっともここでの「抑圧」は原抑圧のことである(ある時期以降のフロイトは抑圧をほとんど常に「原抑圧」の意味で使っている[参照])。


われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる[die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen (Nachverdrängung) sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. ](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)




不気味なものはラカンの現実界である。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


現実界=モノ=異者=不気味なものである。これはフロイトが記している通り。

モノなる異者[Dingen Fremder](フロイト「フリース宛書簡」13. 2. 1896)

不気味なものは、抑圧の過程によって異者化されている[dies Unheimliche ist …das ihm nur durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist.](フロイト『不気味なもの』第2章、1919年)


そしてラカンの現実界はトラウマの穴であり、原抑圧である。

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


つまり現実界=トラウマの穴=原抑圧=モノなる異者=不気味なもの。これが欲動つまり享楽である。


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。穴は原抑圧と関係する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou.…La relation de cet Urverdrängt](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975、摘要)

享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)


要するに欲動あるいは享楽はトラウマであり、これが不気味なものである。

享楽はトラウマの審級にある[la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


ラカンは次のようにも言った。

反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance](Lacan, S17, 14 Janvier 1970)


この享楽はトラウマ、あるいは不気味なものを代入しうる。反復は「トラウマの回帰」、「不気味なものの回帰」と(フロイトにおいて抑圧されたものの回帰はもともとトラウマの回帰である[参照])。


この不気味なものの回帰=反復(反復強迫)自体、フロイト自身、記述している。


いかに同一のものの回帰という不気味なものが、幼児期の心的生活から引き出しうるか。Wie das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr aus dem infantilen Seelenleben abzuleiten ist〔・・・〕


心的無意識のうちには、欲動蠢動から生ずる反復強迫の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。

Im seelisch Unbewußten läßt sich nämlich die Herrschaft eines von den Triebregungen ausgehenden Wiederholungszwanges erkennen, der wahrscheinlich von der innersten Natur der Triebe selbst abhängt, stark genug ist, sich über das Lustprinzip hinauszusetzen, gewissen Seiten des Seelenlebens den dämonischen Charakter verleiht,〔・・・〕


不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫を思い起こさせるものである。daß dasjenige als unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann. (フロイト『不気味なもの 』第2章、1919年)


以上、不気味なものの回帰は(原)抑圧されたものの回帰であり、これが享楽の回帰である。私は不気味なものを「外にある家」とするのを好むが、外にある家は回帰するのである。根源的な外にある家が何かは、少し考えればすぐにわかるでせう。


なお原抑圧は排除であり、次の二文は等価である。


原抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe ](フロイト『症例シュレーバー』第3章、1911年)

排除された欲動 [verworfenen Trieb](フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)



したがって不気味なものの回帰は排除された欲動の回帰である。