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2022年5月15日日曜日

間違っているんだよ、それ

 間違っているんだよ、それ。ま、あまり細かいこと言いたくないけど。フロイトやラカンで間違ってもたいしたことじゃないからな。最近の国際政治学者のボケぶりに比べたら鼻くそ程度のカワイイ間違いだ。

とはいえいくらか書いておこう。


柄谷行人が『トランスクリティーク』で《「不気味なもの( unheimlich)」とは…自己投射にほかならない》としているのは完全に間違っている。フロイトは快原理を超えるものが不気味なものと言っているのに、自己投射であるわけがない。


いかに同一のものの回帰という不気味なもの[das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr ]が、幼児期の心的生活から引き出しうるか。〔・・・〕心的無意識のうちには、欲動蠢動から生ずる反復強迫[Triebregungen ausgehenden Wiederholungszwanges]の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり[stark genug ist, sich über das Lustprinzip hinauszusetzen]、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格[dämonischen Charakter]を与える。〔・・・〕


不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫を思い起こさせるものである[daß dasjenige als unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann.](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年)


それどころか柄谷が長年使い続けている「抑圧されたものの回帰」の原点にある「原抑圧されたものの回帰」(排除されたものの回帰)に不気味なものの回帰は関係している。なぜ柄谷はこんなところで初歩的誤読をしてしまったのか理解不能。


最近でも千葉雅也くんがファルスと不気味なものを逆に捉えてしまうという救い難い誤謬をしている(参照)。本人は逆張りをしているつもりなのかも知れないが、最も基本的なことがわかっていない究極の木瓜の華であり、なぜ彼と友人関係にある「それなりに優秀な」松本卓也くんが指摘してあげないのか、これまた理解不能。彼の言う《通常vs.ファルスの構図は、ドイツ語でいえば「通常=馴染み=我が家的である=ハイムリッヒ(heimlich)」なものと、「不気味なもの=我が家的でない=ウンハイムリッヒ(unheimlich)」なものの対立として記述できます》とは、どこをどうひねくりまわしてもトンデモ誤謬である(後期ラカンにおいて「性別化の式のデフレ」が起こったことを千葉雅也くんは無知のままであることを敢えて妥協しても、である)。


以下、簡単にラカンがどう注釈しているかを示しておこう。


まず不気味なものは現実界だ。


不気味なものは、欠如が欠如していると表現しうる[L'Unheimlich c'est …si je puis m'exprimer ainsi - que le manque vient à manquer.  ](Lacan, S10, 28 Novembre 1962、摘要)

欠如の欠如が現実界をなす[Le manque du manque fait le réel] (Lacan, AE573, 17 mai 1976)


そして欠如とはファルスだ。


ファルスはそれ自体、主体において示される欠如の印以外の何ものでもない[  (le) phallus lui-même … n'est rien d'autre que ce point de manque qu'il indique dans le sujet. ](Lacan, LA SCIENCE ET LA VÉRITÉ, E877, 1965)


すなわち不気味なものはファルスの欠如である。


ファルスとは言語である。


ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない[Die Bedeutung des Phallus  est en réalité un pléonasme :  il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus.  ](ラカン, S18, 09 Juin 1971)


ファルスの意味作用[ Bedeutung des Phallus]  とは、フロイトの象徴的意味作用[symbolische Bedeutung]と等価であり、言語の意味作用である、《象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage]》(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)


この言語の意味作用が欠如しているのが現実界に他ならない。


現実界の位置は、私の用語では、意味を排除することだ[L'orientation du Réel, dans mon ternaire à moi, forclot le sens. ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)


別の言い方をすれば、言語外の身体的なもの(欲動の身体)が不気味な現実界である。


以上。