このブログを検索

2021年12月5日日曜日

ボウヤとの齟齬の理由

 私は一年前ぐらいまでは何度も強調していたんだが、ラカンのアンコールセミネールの性別化の式は後期ラカンにおいてデフレがあるんだ。だからきみの問いの千葉雅也くんのファルス享楽やら他の享楽やらは、間違っているとは言わないが二次的なもの。彼はそれを知らないままなのか無視してなのか何やら言っているだけだよ。


性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路」を把握しようとした。これは英雄的試みだった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学」へと作り上げるために。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉することなしでは為されえない。[Dans les formules de la sexuation, par exemple, il a essayé de saisir les impasses de la sexualité à partir de la logique mathématique. Cela a été une tentative héroïque pour faire de la psychanalyse une science du réel au même titre que la logique mais cela ne pouvait se faire qu'en enfermant la jouissance phallique dans un symbole. ]


⋯⋯結局、性別化の式は)、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃」の後に介入された「二次的結果」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 」 、「論理なき現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。[…sexuation. C'est une conséquence secondaire qui fait suite au choc initial du corps avec lalangue, ce réel sans loi et sans logique. La logique arrive seulement après] (J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)


《身体とララングとのあいだの最初期の衝撃》とは、最も簡単に言えば、《母なるララングのトラウマ的効果[L'effet traumatique de lalangue maternelle]》(Martine Menès, Ce qui nous affecte, 15 octobre 2011)のこと。より詳しく知りたければ、「ララング文献集」を参照。




で、性別化の式のデフレに伴って女性の享楽(他の享楽)が享楽自体となる。ファルス享楽はこの女性の享楽の抑圧に過ぎない。


確かにラカンは第一期に、女性の享楽[jouissance féminine]の特性を、男性の享楽[jouissance masculine]との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。


だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)



この観点における後期ラカンの核心は「ひとりの女」概念。私は常にこれを前提に書いているから、どっかのボウヤの言ってることとは齟齬があるのは当たり前だよ。


以上