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2021年12月5日日曜日

ニーチェとマゾヒズム


心ひそかに自分を責めさいなみ、われとわが身を噛み裂き、引き挘るのだ。そうするとしまいにはこの意識の苦汁が、一種の呪わしい汚辱に満ちた甘い感じに変わって、最後にはそれこそ間違いのない真剣な快楽になってしまう! そうだ、快楽なのだ、まさに快楽なのである!〔・・・〕

諸君、諸君はこれでもまだわからないだろうか? 駄目だ、この快感のありとあらゆる陰影を解するためには、深く深く徹底的に精神的発達を遂げて、底の底まで自覚しつくさなければならないらしい!(ドストエフスキー『地下生活者の手記』)


ドストエフスキーこそ、私が何ものかを学びえた唯一の心理学者である。すなわち、彼は、スタンダールを発見したときにすらはるかにまさって、私の生涯の最も美しい幸運に属する。浅薄なドイツ人を軽蔑する権利を十倍ももっていたこの深い人間は、彼が長いことその仲間として暮らしたシベリアの囚人たち、もはや社会へ復帰する道のない真の重罪犯罪者たちを、彼自身が予期していたのとはきわめて異なった感じをとったーーほぼ、ロシアの土地に総じて生える最もすぐれた、最も堅い、最も価値ある木材から刻まれたもののごとく感じとった。(ニーチェ「ある反時代的人間の遊撃」第45節『偶然の黄昏』1888年)



ニーチェはドストエフスキーから何を学んだのか。何よりもまずマゾヒズムである。


ドストエフスキーは、小さな事柄においては、外に対するサディストであったが、大きな事柄においては、内に対するサディスト、すなわちマゾヒストであった。in kleinen Dingen Sadist nach außen, in größeren Sadist nach innen, also Masochist, (フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)



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以下、ニーチェの言葉をフロイトラカン観点から検証してみよう。いやフロイト自身がニーチェから学んだのであり、ラカンはその隔世遺伝としたほうが正しいが。



◼️マゾヒズムは力への意志と関係する

苦痛と悦は力への意志と関係する[Schmerz und Lust im Verhältniß zum Willen zur Macht.  ](ニーチェ遺稿、1882 – Frühjahr 1887)

苦痛のなかの悦は、マゾヒズムの根である[Masochismus, die Schmerzlust, liegt …zugrunde](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年、摘要)

フロイトは書いている、「悦はその根にマゾヒズムがある」と。[FREUD écrit : « La jouissance est masochiste dans son fond »](ラカン, S16, 15 Janvier 1969)



◼️悦とマゾヒズムは隣り合った欲動である

悦と自傷行為は隣り合った欲動である[Wollust und Selbstverstümmelung sind nachbarliche Triebe. ](ニーチェ「力への意志」遺稿1882 - Frühjahr 1887)

自傷行為は自己自身に向けたマゾヒズムである[ L'automutilation est un masochisme appliqué sur soi-même]  (Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)



◼️力への意志は悦への渇き(悦への意志)である

欲動…、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である[Triebe …"der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"](ニーチェ「力への意志」遺稿第223番)

すべての欲動の力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない[Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt].(ニーチェ「力への意志」遺稿 , Anfang 1888)



◼️悦への意志はマゾヒズムへの意志である

悦への意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である[Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion.]  (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)

マゾヒズムは現実界によって与えられた悦の主要形態である[Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel](Lacan, S23, 10 Février 1976)



ニーチェの悦[lust]をマゾヒズム に置換してみよう。


◼️マゾヒズムにおける永遠回帰の意志

マゾヒズム lust が欲しないものがあろうか。マゾヒズムは、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。マゾヒズムはみずからを欲し、みずからに咬み入る。マゾヒズムのなかに環の意志が円環している。ーー

was will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will sich, sie beisst in sich, des Ringes Wille ringt in ihr, ―(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第11節、1885年)

悦における永遠回帰の意志[vouloir l'éternel retour … dans la jouissance](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009

悦という原マゾヒズム[le masochisme primordial de la jouissance](Lacan, S13, June 8, 1966)




あまりにもピッタリくるのである。ーー《疑いもなく、痛みが現れはじめる水準に悦=マゾヒズムはある[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d’apparaître la douleur]》(Lacan, LA PLACE DE LA PSYCHANALYSE DANS LA MÉDECINE, 1966)



結局、ニーチェの力への意志[Wille zur Macht]の根にはマゾヒズムへの意志Wille zur Masochismusがある、と私は見る。


鞭をもつルー・アンドレアス・サロメの写真はニーチェ自身が演出している。






前回示したように、すべての人間の根にはマゾヒズムがある。フロイトが絶賛したニーチェの自己省察が、力への意志概念にてマゾヒズムの洞察に至らぬ筈はない、と言っておこう。


これまで全ての心理学は、道徳的偏見と恐怖に囚われていた。心理学は敢えて深淵に踏み込まなかったのである。生物的形態学[morphology]と力への意志 [Willens zur Macht]展開の教義としての心理学を把握すること。それが私の為したことである。誰もかつてこれに近づかず、思慮外でさえあったことを。…


心理学者は…少なくとも要求せねばならない。心理学をふたたび「諸科学の女王 Herrin der Wissenschaften」として承認することを。残りの人間学は、心理学の下僕であり心理学を準備するためにある。なぜなら,心理学はいまやあらためて根本的諸問題への道だからである。(ニーチェ『善悪の彼岸』第23番、1886年)


ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden.(フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung、1908年 )

ニーチェは、精神分析が苦労の末に辿り着いた結論に驚くほど似た予見や洞察をしばしば語っている。Nietzsche, […] dessen Ahnungen und Einsichten sich oft in der erstaunlichsten Weise mit den mühsamen Ergebnissen der Psychoanalyse decken (フロイト『自己を語る Selbstdarstellung』1925年)